待つこと
白い雪を蹴散らす青い風を追いかけて騎獣を駆る。
騎獣と言ってもそれは獣ではなく大型の鳥だ。残念ながら飛ぶことはできない。
里は雪深く、風の音と雪の鳴く音が騒々しい。
「おかーさん、雪はなかないよ?」
七つになる息子が不思議そうに指摘する。
「あら聞こえないかしら?」
「なかないもん」
ターバルの隠れ里は、北の山岳地帯のただ中にあるターバルの民の修業地のひとつである。
己を高めることを好むターバルの民は男も女も力や知識を得るために自らを鍛えるのに余念がない。
故に流浪の民、定住しない民と認識されている。
その例外となる存在は子を抱く母親達、そしてその後見となる女達と傷つき、求めることより教えることに喜びを見出した者達。子の養育には安定した基盤が好ましかった。
ジルクラレンス・ルフェール、彼女はそうした中の一人だった。
短く切った白銀の髪を風に揺らし、野草や木の実を詰め込んだ篭を肩に担いで、若木の萌える山道を歩いていた。
彼女は自分が求めるより他者に与えることを喜びとし、若くしてターバルの民の幼子達の教師となった。
人の丈ほどもある鳥がのたのたと彼女の後をついて歩いている。
その鳥は彼女が孵した車鳥の雛だ。
車鳥は妊婦や幼い子供がこの隠れ里に戻る時には欠かせない足である。
成鳥は人を二人乗せて軽々と山道をゆくので、安全に旅するにはいた方がよかった。
ただ、野性のものは気が荒く気紛れで危険察知能力が高く、捕えるのも人に仕えるようにするのにも孵ってすぐに人の手に育てなくてはならなかった。
そして、飼育された車鳥達は忠実な足となり、緊急時の非常食となる。
丸まるとした栄養過多気味の車鳥の雛を時々振り返りながら彼女は少しひらけた里へと下りた。
「ジルクラレンス、ご苦労さん。今日の収穫はどうだい?」
畑の植物の手入れをしていた男が立ち上がり、ジルに声をかけた。
「ええ、上出来ね。エマンス。傷の具合はどう? 傷に良く効く薬草も採ってきたから後で取りにいらっしゃい。無理せず良くなって冬の準備を手伝ってよね」
傷を癒すためにこの里に留まっているエマンスは肩をすくめ、頷く。
「いくらか支払おうか?」
からかうような調子のあるエマンスの発言にジルは鼻先で笑った。
鮮やかな緑色をしたエプロンドレスの裾をジルは捌き、次に銀の短い髪をかきあげて見せる。
「使い道があるって言うんならね。第一あたしはお金に困ってやしないわ。村一番の薬草採りはあたし。村一番の車鳥の飼育者はもちろんあたし。村一番の料理上手はあたし。鎧の修理だってまぁ、村で十番に入るくらいには上手だし、剣だって上手に研げるわ。ほぉら、ね」
歌うように告げるジルにエマンスは反抗心をもつ。
「そして村一番の兇暴女」
反応は上々であり、エマンスはジルに睨まれて慌てて首を横に振る。
くるくると車鳥の無く声に振り向けば、車鳥は畑の方を見ながら甘えるような声で鳴いていた。
その様子に相手を予測したジルは不機嫌さを隠さず、エマンスに軽く手を振ると足早に歩き出した。
「パパローニ、ついてらっしゃい」
パパローニ、そう呼ばれた車鳥は慌てて彼女の後をのたのたと追いかけていく。
ただ、パパローニは幾度も畑の方を振り返り、数度、甘えた鳴き声を出した。
「パパローニ、お前はあたしとバクフェルトのどっちがお前を孵したのかわかってるの? あたしなんだぞ。もう。それにしてもあいつ、いつ帰って来たんだろう?」
ジルは不満そうに年上の婚約者に想いをはせた。
(それでも騒動は起るまい)
そう考え、ジルは幾度も冬を越し、多くの修繕処置の必要な自分の家へと向った。
ターバルの隠れ里には毎年雪が降る。
緑の森が真っ白になり、最後には樹の輪郭すらあやふやなものになる。
隠れ里の家は全て地下室付三階建て、もしくは四階建てで各階に大きめのひさしの付いた頑丈な扉が付いている。
ジルの家も例に洩れず三階建て。
柵に囲まれた三角屋根は絶対に補強が必要。扉を雪に埋もれさせない為のひさしもこの間の大風の日いらい、ぐらぐらしている。
窓だってかなり隙間風が気になる。
隠れ里は修業の地でもあるがゆえに厳しい自然に囲まれたこの地が選ばれたのは数千年も前の話。
強い風が畑の植物を凪ぎ、傷つけ、収穫を減らす。
そして、強い風は時に古木を凪ぎ飛ばし、人を、家を、全てを傷つけ、破壊する。
ジルはもう少しきちんと整った頑丈な家に移ることも出来るが、この家から離れたいとは思わなかった。
車鳥もここで生まれ、今また新しい車鳥の卵が地下室の飼育室で息づいているのだ。
パパローニを地下室へと帰し、ジルは野草や木の実のたっぷり詰め込んだ篭を厨房兼、実験室へと運んだ。
「よっ!」
ジルは数秒現状が呑み込めなかった。
朗らかに片手をあげる青年。この男が自分の場所に訪れるはずがない筈だった。
バクフェルト・レストー
ジルクラレンス・ルフェールの母レンティレイの兄フェルクスロンドの息子。
他の隠れ里に住まうターバルの少女ファファイーリスの恋人として有名なジルの婚約者だ。
その男が明るく軽く片手を上げて、もう片方では昼の残り物を摘み食いしている。
ツンツンに刈り揃えた金の髪。凍り付いた湖のような薄水色の瞳は柔和さをたたえ、小麦色に日焼けした筋肉質な体。
ジルが覚えているよりまた背が伸びたのか、彼が酷く大きく見える。
「なぁに? バクフェルト」
酷くよそよそしい声が知らず口をついて出てジル自身が驚かされる。
そんな声を出すつもりはなかった。
「頼みが有ってきた。内密の頼みだ。俺とイーリスは雪の前に里を出るつもりだ。そして雪解けにまた戻ってくる。それまでちょっとした預り物をしてほしい。代償はこの家の修繕、冬に向っての準備。まさか、まだ傷の癒えないエマンスに頼む訳にもいかないだろうし、皆だって自分の家の修繕・補修や準備で精一杯だろう。雪解けまでは俺とイーリスもここに泊まらせてもらう。そうすれば皆も不審には思うまい?」
ジルはむしょうにショックだった。
彼は知らない。
ジルが淡く密やかにバクフェルトに恋していたことを知るものは誰もいなかったのだから。
「ええ、わかったわ。二、三年は補強の必要ないまでにしてね。ねぇ、イーリスってバクフェルトのお嫁さん?」
ジルは後悔した。訊ねてしまったことを。
(どうしてそんなに幸せそうに笑うんだろう?)
「ああ、ジル。来春、デュールを挙げようと思っている」
結婚。新たなる家族の成立。
そっと言い聞かせるような言葉にジルの意識が遠のきかける。
「ジル?」
ジルが黙ったままなのを不審に思ったのかバクフェルトが声をかけてくる。
「なぁに? ああ、ごめんなさい。おめでとう。バクフェルト。じゃあ、お部屋を片付けなきゃね。同室? それともしきたり通り?」
「しきたり通りでいいよ。厄介事は御免だ」
「そお、じゃあ、あたし準備しとくわね。イーリスはすぐ来るの?」
バクフェルトが軽く首を横に振ったのは嬉しかったのか哀しかったのかジル自身にもよくわからなかった。
傷を負った灰色の髪の青年。別の隠れ里に住むターバルの民であろう事をジルは疑わなかった。
隠れ里は多くあり、放浪する者も多いターバルの民。
全てを知っておくことは不可能で、その上にジルは若く、里を降りたことがなかった。
初雪の前にイーリスもバクフェルトも出て行ってしまっている。
ジルには自分がイーリスと仲よくなれたことが不思議でたまらない。
理由を敢えて語るならイリューのはしばみ色の瞳の所為。
彼はジルに優しく微笑みかけてきた。
彼に微笑まれるとジルは自分が特別になったような気がした。
憧れでなく、恋でなく、ジルは自分がイリューを愛していることに戸惑った。
そして戸惑っている自分に戸惑った。
「雪が、降りそうですね」
穏やかな彼の声にときめきを感じる。
彼は特別筋肉質でもなく強そうというわけでもない。
ジルよりも華奢でひ弱な印象があるほどに。それでも里の長老達のような絶対的な威厳を持っていた。
穏やかで人を安心させる何かを彼は持っていた。
「ジルさん、ナーキフ国って知ってますか?」
暖炉の前でパパローニを撫でながらイリューが喋りかけてくる。
イリューは本当に物知りだった。
「北方の国よね。ここよりも。それで確かルミサー神信仰の小さな山国でしょ?」
「ええ、ハイランドです」
高い国と言うイリューは何処か誇らしそうに見える。
「冬は早いんです。雪が街を埋めます。河や泉も凍り付いて一面銀世界になるんです。私はそんな国で産まれました。建物も白く少し寒々とした印象をもたれがちですが、そんなことはないんですよ」
彼はその国に生まれ、その国に帰っていった。
迎えに来ると残して。
残された息子は成人し、娘もターバルの民としてイーリスやバクフェルト、そしてその子供たちと共に修行の旅に明け暮れている。
ジルは待つことしかできなかった。
銀の髪が腰をこえても、隠れ里で雪を見て、彼の迎えを待つのだ。
ジルには優しかった彼が女神の腕のうちに眠ったなどと言うことは受け入れれず、ただ、灰色の髪を持ったかの人が迎えに来るその日を信じるのだ。