83、忘れ物と戯れ言
お題:求めていたのは排泄 必須要素:ちょんまげ 制限時間:1時間(http://sokkyo-shosetsu.com/novel.php?id=228084)を加筆修正したものです。
「いってらっしゃい」も「いってきます」も言わなかった。
※
空港というのはなかなか面白い。その国の玄関と言うことで、国の文化を前面に押し出している場合もあれば、世界に飛び立つ起点という意味も込めて国際色豊かな場合もある。
そんなわけで私はドイツのフランクフルトで開かれる学会のために成田空港に来ていた。第一ターミナル南ウイングは国際線ロビーということもあり、これから世界へと旅立つ者たちで賑わっている。時々変わった旅行者も見受けられ、たった今ちょんまげのカツラに“日本ジャパン好きをLOVEなのだす”という日本語がちょっと怪しいTシャツを着た若者たちが通り過ぎた。
それを横目で見ながら私は、私はスモークサーモンサンドイッチを頬張った。パリリと軽快な音でレタスがちぎれ、瑞々しいトマトが口腔内ではじける。スモークサーモンとクリームチーズの相性も最高だ。
「お客様、お水のおかわりはいかがされますか?」
「いいえ、結構です」
手続きカウンター脇にあるこのサンドイッチハウスは私のお気に入りだ。今日はスモークサーモンサンドだが、先日オーストラリアに経った際はBLTを食べた。あれもなかなかおいしい。
水はコップの半分ほどに減っていたが、これ以上は特に欲しいとは思わなかった。でも、ふと店員の背後を見やって考えが変わる。
「その代りブラックコーヒーを一つお願いします。コーヒーフレッシュも、4つほど」
テーブル脇にある小さな籠の中には一つしかコーヒーフレッシュがなかった。これでは足りない。
店員がお辞儀して下がると、入れ替わるようにしてテーブルに何かが差し出された。思わず口元に笑みを浮かべる。
「笑っている場合じゃないでしょう。まさか、飛行機乗るのにパスポートを忘れるなんて」
テーブルに差し出されたのは赤いパスポート、もちろん私のだ。声の主は許可なく私の正面に座ると、コーヒーを持ってきた店員にミラノサンドを注文した。そして、私が彼のために頼んだと知ってか知らずか、そのコーヒーにフレッシュをすべて入れると口をつけた。
「助かったわ。ありがとう、――――」
「僕はきみのパシリじゃないんだぞ。分かってるのか、そこは。ここまで原チャリとばしてどれだけかかったか」
「分かっているわよ。だから、ここは私のおごり」
パスポートを家に忘れてきたのに気付いたときには既に成田に着いた後だった。私としたことが、どうにもうっかりしてしまっていたと思う。どうしようかと考えた末、まず弟に連絡したもののどうやら編集さんにつかまっていたらしく電話に出なかった。そこで、弟子である彼に私の倉庫からパスポートを持ってきてほしいと頼んだというわけだ。
「まあ、私の講義が休講になって暇していたんだから良いじゃない?」
「本当に反省しているのか、貴女は。どんだけここまで来るのが大変だったか」
「……ああ、なるほどね。原チャで高速乗るのに認識阻害系の結界張って、更に速度ブーストを施してきてくれたってところかしら?」
「さすが、ご明察です」
ご明察と言いながら、――――はどこかげんなりしている。その様子がやっぱり面白い。
「こっちは全く面白くないですよ」
「あれ、面白がっているのばれちゃった?」
「当たり前です。面白がっている顔、してるんだから」
店員がタイミングよく持ってきたミラノサンドを噛みしめつつ、彼は拗ねるように言った。
※
「向こうにいるのは一週間でしたっけ?」
「そうね。まあ、一週間まるまる学会ってわけじゃないし、少しは観光もするつもり。お土産にソーセージとか送ってあげるわ」
「それはどうも」
それに少し調べたいこともあるしね。
という言葉は一応言わずに置いた。あの京都弁の教授が言っていたこと、弟が調べていること。やはり興味がある。魔法を使わないとは言え、やはり私は全知の魔女。【知る】にしろ、知るにしろ、知りたいという欲求はないわけではない。
だから学会が終わったら、とりあえずお茶会のイギリス本部に訪れてみるつもりだった。もしかしたら一週間以上日本に帰れないかもしれない。
彼の黒い目がテーブルの上にあるチケットに向く。
「フライトは11時間くらいか」
「そうそう。結構長いからルフトハンザのファーストクラスでゆったりとね。何かご不満?」
この質問はつい口をついて出てしまった。彼の様子が、私の反省云々とは関係なくおかしいような気がしたからだ。
彼も私の質問の意味に気付いたのだろう。迷う様に目を彷徨わせた後、結局こちらに恨めし気にも見える黒い大きな目を向ける。
「大した意味はないですけど。でも、確か災厄の魔女の潜伏先がドイツだとか」
「知ってる。けれど、大丈夫よ。心配しすぎ。ドイツって言っても広いし。今回は確かに魔法研究の学会だけど、それを襲ってどうこうすることで災厄の魔女にメリットもないでしょうに」
でも、まあ、それでも心配なら、と私は白衣のポケットから携帯電話を一つ取り出した。色は黒で一昔前くらいの古いガラパゴス携帯だ。
「そこに私の連絡先、登録してあるから何かあったら連絡なさい。私も何かあったらその携帯に連絡するわ」
「え、僕の携帯じゃダメなのか?」
「ほら、国際電話って結構お金かかるし。翌月の料金明細みて真っ青になりたい?」
「丁重にお預かりさせていただきます」
素直に受け取ってくれたのを確認して私は自分のペールピンクの眼鏡をクイッと上げて、同色の腕時計を見た。
「そろそろ時間だから行くわ。お金はここに置いていくから」
「ああ、気を付けて」
テーブルの上の明細を取り上げ、軽く彼に手を振る。今度この瞳に会うのは少なくとも一週間先のことなのだ。
――――は、まだ少し不機嫌そうにしている。感情の起伏が分かりやすいとやっぱり面白い。
「もう忘れものはないか?」
「ない」
「学会の資料は持ったか?」
「もちろん」
「パスポートは?」
「持ってきてくれたから大丈夫」
「向こうの先生方に迷惑をかけないように」
「はーい」
「搭乗前にはお手洗い済ませておけよ」
「あら、セクハラ!」
「な、違う!!」
まるでお母さんみたいな感じ。からかわれてすぐに赤くなるあたりはやはり若さが出ているのか。
支払いを終えてサンドイッチハウスの出入り口で振り返ってあえて大きな声で叫ぶ。
「でも、行っておくわ!ちょうど水飲み過ぎてトイレ行きたい気分だったの!」
「そういうこと大声で言わないでください!このバカ!!」
焦った声だけが背中を追いかけてきた。この後店内で彼が浴びる視線は果たしてどんなものだろう。
「フフ……バカだって」
右手に持ったパスポートで私は上がった口角を隠しながら、チェックインカウンターへと向かったのだった。
とても晴れ晴れとした気分だった。
※
それが、私たちだった。
fin.