68、安全と糸口
お題:安全な村 制限時間:1時間(http://sokkyo-shosetsu.com/novel.php?id=216513)を加筆修正したものです。今回、お題の「村」要素薄目です。
運命は残酷にも王子と人魚姫を引き離してしまいました。声を失っている彼女には、涙を流すことはできても嗚咽をあげることはできません。
人魚姫は失意に暮れて城を飛び出し、海辺の村を彷徨いました。
そんな人魚姫の元に、彼女の姉妹たちが現れ、美しい短剣を差し出しながら魔女からの伝言を告げるのでした。
「これで王子を刺して殺しなさい。そこから流れ出た血で、お前は元の人魚の姿に戻ることができる。今すぐあの男を刺して殺しなさい。さもなければ、お前は海の泡になって消えてしまう」
※
先輩と黒猫を探して歩き出した私は、しかし、すぐに立ち止まってしまった。私が歩けたのはせいぜい結界の境界線までだったから。結界の薄い膜に触れても、それはびくともしなかった。
先輩は結界をここに置いていったものの結界を操作できる主導権までは置いていってくれなかったみたいで、要するに私は結界によって安全が保障されている一方で移動できないように閉じ込められてしまったようだった。
ここにいれば安全だから、ということなのだろうが、要するにそれは私のような足手まといは出てくるなということに他ならないということは私も流石に気づいていた。
でも、きっと結界の主導権を置いていってくれたとして、私には結界を維持しながらこの海底を進むことは間違いなく不可能だった。よく【見て】みれば、海流にはなかなかの密度の魔法が流れていたしその力を上手く結界から分散させるような器用なことは私にはできない。少し眠ったとは言え、普段より疲労が溜まっている状態なら、それは尚更だった。
結界の真ん中で頭の部分を少し切られたらしい観葉植物が素知らぬ様子で立っている。周囲に視線を向ければ、私が眠ってしまう前となんら変わらない青い海の世界が広がっていた。
先輩は確かこの結界を維持できれば一週間は籠城できるって言っていた。でも、
「一人は、嫌だなあ……」
思わず独り言が漏れる程度には、不安で。こんな冷たい海の底で一人安全なところに閉じ込められて。
今思い返せば、籠城話が出たときに私が言ったことと言えば、やっぱり逃げることだった。逃げないと決めたはずなのに、いや、逃げるとしても……
「……」
同じことを繰り返し言うのはやめにしよう。ただ堂々巡りをするだけで答えは出ない。
私はコンクリートの床に座り込んで膝に顔を埋めた。膝の隙間から灰色の床を見つめる。結界を作るのに書いた魔方陣の線が【見える】。
魔法使いや魔女はそれぞれ固有の魔法の“色”があり、これを魔法色と言う。たとえば、今見えている魔方陣は私の橙色の線と先輩の黒っぽい色の線が混じりあっている。正直、色の組み合わせとしてはあまりパッとしない感じがした。
この状況を作り出した張本人、灰子さんの意図が私にはまったく分からなかった。灰子さんは先輩の魔法の師匠で、先輩に向けているはずの思いはこんな悲しいものではないはずで。先輩を探していたのは、きっと先輩を心配していたからだと思うのに。
「どうしてうまくいかないんだろう」
さっき眠っていた時に【見た】あの女の子を思い出して私は少し涙を流した。あの子も“あんなに安全なところ”に閉じ込められて、ずっとずっとあそこに一人でいたのだ。
「本当に、どうして……」
どうして誰も知らないのだろう。
どうして誰も知ろうとしないのだろう。
※
せめて状況だけでも把握しようと、私は倉庫内をくまなく【見る】ことにした。障害物を透かして向こう側を見ることができるのはこんなときにとても便利だ。と言っても私は普通の女子大生なので、こんな状況そうそう起こるものでもないのだけれど。
それにいくら障害物を透かせるとは言え、倉庫は広い。すべてを見通すのはなかなかに困難な作業だった。
そして見ているうちに気付いたことと言えば、どうやらこの海自体に含まれているのは魔法の力ではなく灰子さんそのものらしいということ、そしてたくさんある本棚のうちいくつか妙なものがあったことだった。
灰子さん自身が海に溶け込んでいることに気付いたときには、正直鳥肌が立った。そんな魔法がある、というか魔法でそんなことができたのかという畏怖の念である。流石は先輩の師匠だ。
本棚に違和感を覚えたというのは正確に言えば、本棚の底の接地面に違和感を覚えたのだ。最初の奔流に数多くの本棚が巻き込まれ、多くは横転していた。それなのに、一部の本棚はまるで接地面が接着剤でくっついているかのように微動だにしていないようなのだ。ただし、中身は波にさらわれたらしく一切残っていない。私はさらに意識を集中させてその接地面を【見た】。目の奥がズキズキと痛み、さっきとは違う意味で涙が滲む。
見えたのは、線だった。複雑に入り組み絡み合って光る白っぽい線。そのまま視線をずらしていけば、本棚の配置に沿って線が続いている。
「これって……!」
倉庫の底をその線が駆け巡って、何やら大掛かりな魔方陣のようなものを形作っている。何の魔方陣なのかまでは流石に分からないけれど、作ったのはきっと灰子さんだ。
「だとすれば、どうにかなるかもしれない……」
結界の魔方陣と倉庫を取り巻く魔方陣。私はこの安全な檻から出る糸口を、意図せずつかんだようだった。
※
人魚姫は、選択をしなければなりませんでした。
fin.