52、呟きとラテン語
お題:やわらかいフォロワー 制限時間:1時間(http://sokkyo-shosetsu.com/novel.php?id=202075)を加筆修正したものです。
世界は意外にも、
※
「はじめまして。俺は白崎青司と申します」
「こちらこそ、はじめまして。えっと……タチバナです」
目の前の痩せ形の男性が軽く頭を下げる。
驚いた。灰子さんから兄弟姉妹がいるような話を聞いていなかったというのもあるけれど、色んな意味で奔放に一人で生きているイメージがあったから。それに灰子さんと似ているかと言えば、あまり似ていない。灰子さんは誰にでもグイグイ押していくような肉食系な感じの人だけど、青司さんは物腰が良くおとなしそうな感じがする。似ている点を強いて挙げれば二人とも眼鏡をかけているけれど、という程度だ。
さっきの灰子さんの言葉がさっきから頭に反芻していて、まだ心の整理ができていない。
「とりあえず入って。困ってるんでしょ」
「……は、はい、お邪魔します」
やっとのことでそう答えると、青司さんは扉を押さえて私を部屋へ招き入れた。部屋はさっぱりとした印象で、必要最低限のものしかない。扉を入ってすぐに台所があり、小さめの冷蔵庫やレンジなどが置いてある。部屋の真ん中に木目の丸テーブルがあり、ノートパソコンが電源をつけたままの状態で置いてあり、テーブル脇のプリンターとコードでつながっている。部屋に入って左奥にはふすまがあった。もう一つ部屋があるのだろう。
扉を閉めた青司さんが私の後ろに続いた。あまりキョロキョロしても失礼なので、適当にテーブルの隣に立った。黒猫は黒猫で、テーブルの側にあった濃い青色のクッションの上に寝転んでいる。青司さんはそれに意を介さず、私に声をかけてきた。
「あのさ、さっきの紙もう一回見せてもらって良いかな?」
「はい。どうぞ」
灰子さんから渡されていたアンケート用紙を差し出すと、青司さんは困ったように笑った。
「渡さなくて良いよ。広げて中身だけ見せてもらっても良いかな?」
「……はい、分かりました」
私は改めて広げて灰子さんの字を見せた。
“ N.T ESM11.28-30”
変な模様やら文字らしきものが書き連ねられている中で、唯一まともに解読できたのはこの文字列だけだった。
青司さんは首を傾げている。この人は本当に私たちを助けてくれるのかと思わず疑ってしまう。灰子さんが助けを求めなさいと私たちに言ったのは、この紙を見せれば青司さんが何かしらを察して事態を好転させることのできる何かしらのアクションをしてくれるからだろうと思っていた節もあったのだけれど、そういうわけではなかったのかもしれない。
「うん、ダメだ。相変わらず姉さんの考えはさっぱり分からないな」
青司さんは困った様子でパソコンの前に屈んで文字を打ち始めた。クッションの上で寝ていた黒猫がむくりと体を起こして目を細めた。
「おいおい、お兄さんよお。白崎はこれを見せりゃオマエがオレたちを助けてくれるって言ったんだぜ?なのに、何だ?オレたちを本当に助けてくれるのはインターネットの検索結果なのか?」
「あるいは、Twit●erとか、かな」
青司さんの言葉に私は驚いて、画面の見える位置に移動した。液晶にはウインドウが一つ。そこに複数タブが開かれていて、そのうちの一つがTwit●erだった。
「あの、一体何を呟いているんですか?」
「N.T ESM11.28-30って何だと思う?って呟いた。大丈夫だよ。これは俺の鍵アカだしフォロワーは同業ばかりで、謎々遊びが好きな連中ばかりだから。あ、同業って、魔法使いの方じゃないよ。俺、作家をやっているんだ」
何が大丈夫なのかよく分からなかったけれど、結局すぐにフォロワーの何人かから返信が来た。
“数字の部分は日付じゃ?あ、アルファベットは分からないのでパスですいません”
“一瞬エロティックえすえむの略だと思った俺は滅びれば良いと思う”
“数字のところのピリオドが小数点かどうかにも寄りますよね”
“11:28~11:30……2分間とか……”
“N.Tの後に空白あるということは、N.Tだけ独立した何かっぽいよな”
“N.Tで自分が思いつくものって言ったら、New testament(新約聖書)ですかね”
「ああ、なるほどね」
青司さんは手早くお礼の文を打ち、別のタブを開いて検索をかける。
「今はネット使えば、分からないことでも大体は調べられちゃうから、便利な世の中だよね」
唖然としている私を見て青司さんはちょっと笑う。そして出てきた文章を読み上げた。
「“疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである”」
「それって?」
「まずN.Tが新約聖書のことだと仮定する。けれどNew testamentの方じゃなくてラテン語のNovum Testamentumの略だと思う。これに合わせて、後のESMを考えてみると、」
「Evangelium Secundum Mattheum……つまり『マタイによる福音書』ってわけか。っつーことは、数字は福音書内の章と節だな」
「黒猫くん、正解。そしてさっき引用したのがその該当箇所というわけだね。姉さんはああ見えて一応言語に携わっている身だから、ラテン語もたまに魔法に取り入れたりするんだ。俺もたまたま執筆中にかじってたことがあったから」
流石、灰子さんの弟だけあって喋る動物には慣れている様子だ。
説明するように言いながら青司さんが私に笑いかける。英語ならともかく、ラテン語なんてこれまで触れたこともないし、これから先も触れるかどうか怪しい。語学史の授業でちょっと出てくる程度だ。
「……うん、何となく分かった。きみさ、セロテープ貸すから扉にそれ貼ってくれる?」
近くの戸棚から出てきたセロテープを手渡され、私はとにかく言われた通りにした。
「何なんですか、これ?」
「姉さんが力を込めた札だよ。一般的に退魔とか言われる類のものじゃないかな?詳しくは知らないけど。紙に力を込めるには印刷したものよりも手書きの絵や文字が強力だから」
「はあ、確かになんかこの紙匂うと思ったんだよなあ」
黒猫が相槌を打つ。青司さんもそうだね、と言いながら首を縦に振った。
「これできみたちは大丈夫だよ。大変だったね。大方、姉さんの面倒事に付き合わされたんだろ?」
「……!」
咽喉まで言葉が出かかって、私は結局何も言えなかった。
「そうだな。間違っちゃいないよなあ?」
その代りに黒猫がそんな風に返答した。
※
何でも知っている。
fin.