35、ダンスとカニバリズム
お題:昨日食べたダンス 制限時間:1時間(http://sokkyo-shosetsu.com/novel.php?id=193059)を加筆修正したものです。
※間接的にカニバリズム表現があります。ご注意ください。
少し昔の話を思い出す。
※
まだ僕がドイツでその女を師匠と仰いでいた頃、彼女はレコードで音楽を聞くのが好きだった。いや、厳密に言えば好きだったかどうかは分からない。ただ、彼女は毎日欠かさず音楽を聞く時間を作っていた。僕はほとんど彼女の屋敷、あるいは城と言った方が良いかもしれない場所に住みこんでいた。城自体は鬱蒼とした森の中にあり、あの女が結界を張っていたので人が迷い込んできたりすることは一切なかった。
城の中にはいくつも彼女の書斎があって、どこもかしこも本が山積みになっていたり、何かのホルマリン漬けが無造作に置いてあったり、フラスコの中身が爆発したりしていた。それらの書斎の中でも蓄音器が置いてある小さな書斎で彼女はよくくつろいでいた。壁も含め、その調度品がすべて黒いもので統一されている。唯一の色は、蓄音器とヒルダが座っている椅子のクッションの部分だ。
「今日は何を聞いているんだ、ヒルダ」
彼女は僕が“師匠”と呼ぶのを禁じていたので、僕は彼女をヒルダと呼んでいた。というのも彼女の名が“ヒルデガルド”であったし、彼女自身もそのように呼ぶように言ってきたからだ。無論、本当の名前は知らない。ヒルデガルドというのは彼女が対外的に名乗っているにすぎない名だ。
そういえば、この女の前に僕の師匠だった女性も師匠と呼ばれることに関してはあまり良い顔をしていなかったとヒルダの横顔を見ながら思い出す。結局、そのように呼称したことは一度もなかったが。
「古い友から教わった古い曲だよ。今はもう死んでしまったし、曲のタイトルも忘れてしまったがね」
椅子に座ったヒルダは、高級そうな椅子の赤い背もたれに背を預けて気だるげにそう言った。彼女が気だるげなのはいつものことだ。彼女はいつも凛としているようでいて、どこか人生に飽きているような節があった。それが悪いとは僕にはとても思えなかった。
聞きなれない曲である。三拍子のピアノの旋律が跳ねるようだ。
「楽しげな曲だな。弾んでるみたいで」
「そうかね?」
肘掛けに肘を乗せてヒルダは小首を傾げる。笑いもせず驚きもせず、陶器のような肌は美しく動かないままだ。少々つまらない感想を吐いてしまったかもしれないなと反省しつつ僕は彼女の言葉をさらに待つ。
「私は、この曲でその友と踊ったんだ」
おもむろにヒルダは立ち上がると、蓄音器のテーブルにもたれていた僕の手を取った。冷徹な碧の目が僕を射抜く。
「踊らないか」
彼女は僕の耳元に唇を近づけて、囁くように言った。
※
僕にはダンスの素養がなかったが、何とかヒルダに合わせてステップを踏む。僕と彼女のブーツが黒く光る床を蹴る。
「上手いじゃないか」
「気のせいだよ」
肩を竦めようとしたが、やめにした。そんな余裕はない。彼女の足を踏むような粗相をしないよう必死だ。
彼女が回る度、彼女が着ている黒いドレスがヒラヒラと舞う。見惚れている余裕はないけれど、綺麗だとは思った。
「貴様は人を食べたいと思ったことはあるか」
「カニバリズムか?」
随分と唐突な発言に僕は面食らいながら答える。と言っても踊りながらなので、足元を見ながらだ。彼女の視線は感じていたが、それを見返すことはできなかった。
「端的に言えばそうなるな」
「貴女はそう思ったことがあるのか、ヒルダ」
「ある」
彼女は端的に言う。軽やかに彼女の足が舞う。
「私は踊る人間を食してみたい。頭から足の先まで」
そして僕はダンスを彼女にリードされたまま、鮮やかな動きで背中から壁に叩きつけられた。いや、叩きつけられはせず、所作は優しくはあったのだが、叩きつけられるのと同じくらいの衝撃を受けてはいたのだ。彼女は腰に回していた僕の腕に手を添え、引き寄せた。音楽は鳴りつづけている。
「深い情感を表している瞬間の人間はどんな味がするのだろうな」
ヒルダは僕の首筋にスッと唇を寄せた。吐息を感じて、何故か僕は生命の危機を感じた。まさか本当に食べるわけでもないのに。いや、本当にそうだろうか。彼女はその気になれば僕も食べてしまうかもしれない。
温かな舌が首をなぞった。首を逸らしてもその舌は容赦なく追ってくる。胸の鼓動が激しい。息が詰まる。僕はひどく狼狽していた。
「お、同じだよ、ヒルデガルド」
苦し紛れに僕は言う。このがんじがらめにされたどうしようもない想いから抜け出したかった。思う先からとにかく言葉を紡ぐ。
「情感とか、関係ない。情感が深いから、美味いとか、そんなことはないだろ。食われた瞬間、それはただの死体になるんだ。そうだろ?」
ヒルダは僕から離れて小首を傾げた。感情が読み取れない。僕の言ったことを少しは理解してくれただろうか。赤く光る唇が少し濡れている。
「そうだったな」
彼女の深い色の瞳が僕を見据える。それを感じて僕はようやく自分が彼女の目を見ていることに気付いた。吸い込まれるように、目を逸らすことなんかもはや考え付きもしなかった。
「人間は死体になるものだったな」
ヒルダは思い出したようにそう言った。
曲は終わっていた。
※
君は僕の名さえ忘れてしまうのだろうか。
fin.