26、墓と定義づけ
お題:哀れな墓 制限時間:1時間(http://sokkyo-shosetsu.com/novel.php?id=190348)を加筆修正したものです。
この世で一番恐いものって何だ?
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黒い森はドイツ随一の観光地である。多くのレジャー施設が存在する一方で、多くの自然も残っている。そんな中、人でにぎわう観光街道から逸れて森の茂みに足を踏み入れる。あの黒い服の日本人男が何をしているのかという好奇心と何をしているのか暴いてやろうといういたずら心があったのは確かだが、今はそれ以上に別の何かに引き寄せられるように、俺の心は高揚していた。だって、なんかこう、立ち入り禁止区域に入るのってワクワクしないか?
森の中はいくらか涼しかったが、やはり着ぐるみのまま歩き続けるのはきつい。正直、俺は明確な目的地もなかったし、ここで引き返しても良かったのだがその高揚した心のまま俺は歩き続けた。
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そこにあったのは墓地だった。
森がいきなり開け、墓地がところ狭しと並んでいる。いや、正確には並んではいない。墓はあちこちに乱立している。誰かが参りに来た様子はなく、すっかり荒廃して朽ちているものが大半だ。不気味で、いかにも何かが出そうな気配が辺りに満ちていた。
墓に刻まれた名前を見ながら俺は進んだ。名前のいくつかは読むことができなかったが、読むことができるものがないわけではない。ウサギの着ぐるみが墓場で歩いているなんて、シュールすぎる光景だ。
乱立する墓の中に、気になる名前を見つけて俺は足を止める。名前は掠れて一部の綴りしか分からなかったが、ミドルネームと苗字ははっきり見えた。そして思いを巡らせる。
「これって……」
「そこにいたのだな、ヴィル」
俺はまさにウサギの如く飛び上がった。まさか独り言を聞かれるとは思わなかったし、もしかしたら幽霊かなとも思ったし、あるいは誰かに見つかったかなやばいな変質者として通報されるかなとも思ったし、とにかく混乱したしでその声が聞こえて非常にびっくりしたというわけだ。
結局、その声に振り返った俺は、俺の様々な考えが思い違いであることにすぐ気付いたわけなのだけれど。
そこに立っていたのは全身黒ずくめのドレス姿の、ボンッキュッボンッなブロンド髪の女だった。赤い唇が実に艶めかしい。黒い服のところどころの隙間からチラチラ見える肌は白く、雪のようだ。瞳は輝く碧で、俺のハートを射抜くようだった。一言で言えば、絶世の美女だった。
俺は墓場での奇跡の出会いに感謝していた。神よ、ありがとうございます!
「貴様をずっと探していた」
ああ、声もまるで氷の彫像のように綺麗で美しい、と鼻の下を伸ばしても着ぐるみで隠れているのは大変ありがたい。しかし、さっきから気になる“ヴィル”という言葉、彼氏だろうか。許すまじ。
「……あの、俺、ヴィルじゃないけど?」
散々葛藤した挙句、俺はヴィルに対する罵詈雑言を飲み込んでそんな平凡すぎる返答をしていた。しかし女は秀麗な眉を顰めて、
「いや、貴様はヴィルだ」
と言った。変に確信を持った言い方だ。間違いなく、絶対であると他者に思わせるような。危うく、俺も自分がヴィルであると勘違いするところだった。
女は辺りにゆっくりと目線を巡らせて、さっきまで俺が見ていた墓を見る。そして合点がいったかのように、ああ、と一人頷いた。
「死とは哀れなものだ。貴様は死をどのように定義する?」
なんだいきなり、と思わなくもなかったが、どこか理知的な雰囲気も漂わせる美女と問答するというのもやぶさかではなかったので俺はしばし考えに耽る。と言っても俺は頭が良い方ではない。仕方がないので、いつだったか生物学専攻の友人から聞いたことをそのまま言い返す。
「えっと、生命活動が止まった状態じゃないか?」
「うむ、実にシンプルで生物学的で誰もが納得する返答だな。正当すぎるくらい正当な答えだ。だが、つまらん」
女は手袋をはめたまま手で墓石の汚れをそっと拭う。手袋が汚れて少し白くなったが、女は気にしていないようだった。
「私はね、ヴィル。死というのは、自分というものの消失だよ。精神が深い闇に落ちて、消えていく。恐ろしいことだ、とても。きっと恐ろしかったに違いないんだ」
俺は墓場を改めて見回した。改めてその多さにドキリとし、この女の言葉を聞いて、背筋が寒くなった。確かに死は何よりも恐ろしく、何よりも恐れられるべきものなのかもしれない。
そして、俺は唐突に子供の声を聞いた。
「誰かが迷い込んできたよ」
「何も知らずに飛び込んできたよ」
「何も知らずにやってきた子に」
「金庫を開ける鍵でもあげようか」
気付いたときには目の前が暗転していた。体が、いや、体なんてものはもう感じなくて、でも落ちていく感覚だけが俺を支配する。
「でも心配する必要はない。恐れる必要はない。もう見失わない。貴様は私が永遠に守ろう、ヴィル」
何だろう。笑い声が聞こえる。しかし、笑っていない笑い声だ。
※
哀れむべきは、その答えを知らない者。
fin.