セイジ
「あー、うっめ」
走っている最中、コンビニで調達してきたのだという。
安いスポーツドリンクを煽りながら、少年はそんなふうに声を上げた。
「ついでに飯でも買ってくりゃよかったけど、流石に走り辛くなるし」
別に聞いてもいないのに、言い訳がましい事を言う。
ジャージの隙間の肌の上を、線のようになった汗が流れていく。まるで、全身で今を生きているような力強さが感じられて、少しだけ居心地が悪い。
高校生の少年は、今も尚、進もうとしているように見えた。
それは停滞しながら、きっとどこにも行けない僕をせせら笑っているかのようだった。
「元気だねえ、若者は」
「あー、若者っつーか、僕が元気ってだけの話なんですけどね。若くても元気じゃないのも居るし」
違いない。
沙耶の抱えていた怪物は、僕の中に巣食う物と同様だった。
彼の中に怪物は居ない。それはきっと、誰もが抱えている物では無い。
「食うかい」
夜食用にハンバーガーを一つ、テイクアウトしてきていた。
もう冷めてしまったそれを丁重に差し出すと、少年は喜んで受け取った。
「考え事、してるんだっけ」
その後、僕からはそう言う風に話しかけた。
少年は、喉を何度も膨らませながら、大量の水分と養分を吸収した、瑞々しい表情で僕を見た。夏の強い光を浴びて笑っていた桐子の表情が浮かぶ。あの日の強い太陽よりも、微かな星の下で笑う少年の方が、眩しく見える。
「ええ、まあ、答えが全然出ないんですけど」
「そう。勉強の事とか?」
「あー、それは一番考えたくない」
少年はケラケラと笑った。
暗い景色の中に、やけに白い八重歯が目立った。
「そもそも、考え続けて答えが出るのかどうか」
「なんだ、半ば諦めてるんじゃないか」
「そんな事無いですよ。諦める気なんか無いから、ずっと考え続けてるんです」
悩みのなさそうな顔で、ぬけぬけと言う。
よほど、その考え事の種とやらが軽いものなのか。それとも、答えが出ないという事を、最初から想定していないのか。
先ほどの沙耶の顔が、ふと脳裏に浮かんだ。
折から解き放たれた怪物が、目いっぱいに体を伸ばして、鬱屈を晴らすように駆け回る、その瞬間をフラッシュバックさせた。
「サンドバッグになってやろうか」
なんでそんな事を言ったのか、僕にもよく解らない。
「は?」
「ああ、違う。話し相手になってやろうか、の間違いだ。気にしないでくれ」
「話し相手がサンドバッグ?」
「まあ、あれだよ。こっちから答えは出してやれないだろうけど、話すだけで楽になる、みたいな事もあるから」
少しの間、きょとんとして、それから、八重歯を剝くようにして少年は笑った。
「おじさん、面白い人ですね」
「お兄さんだ、馬鹿野郎」
それだけは譲れなかった。
むくれる僕を可笑しそうに見つめて、少年は、夜の澄み渡る空気を胸いっぱいに吸い込んだ。これから話す言葉の全てに、その澄んだ空気を籠めてやろう、という意志が感じられた。
その透明な意気込みは、少しだけ僕を萎縮させた。
「なんか僕、あと半年くらいで死ぬかもしれないんですけど」
あまりにもさらりと、それは語られた。
言葉は、僕が気づく前に懐に飛び込んで、遅効性のボディブローのように、腹の奥に沈み込んでいく。
返事を返すことはできなかった。
何かを喋ろうとするたびに、満腹の腹が空気を呑みこんでいく。
「それで、どうにか死なない方法は無いかなって、考えてました」
サンドバッグは、頑丈でなければ意味が無い。
そういう大前提を僕は失念して、酷く軽い気持ちで引き受けてしまった。
目の前が、水面のように歪んでいく。大きく広がる波紋の煽りに、僕の心にあった濁りが、流されていくかのような、妙な破壊感を覚えた。
「ああ、聞いといて深刻な顔しないでくださいよ」
「……いや、だってね」
「別に死ぬ気ないですから」
それは強がりですらなかった。
あまりにも透明な響きは、満杯の自信に溢れていて、そのエネルギーがどこから発生している物なのか、僕にはさっぱり理解できない。
いろいろと言葉を探してみたが、間抜けな話題だけが口をついた。
「……半年で死ぬのに、ジョギングしてんの?」
「やあ、だって体を鍛えておけば、何かと役に立つかもしれないし。健康は生きるのに大事でしょ」
ああ、頭悪いんだな、この子。
それは悲しくなるほどに。
さまざまな何か大きい物で、僕の胸は詰まっていた。
そんな僕を余所に、少年は悩みなど一つもなさそうな顔で、もくもくとハンバーガーを齧り続ける。ふと、血液が冷たくなっていくような気がして、慌てて僕は問いかけた。
「君、体を気遣ってんのにハンバーガーとか食べて大丈夫なのか?」
「ああ、良いの良いの。ハンバーガー一個でびくびくするこっちゃないし、大体、貰った物粗末にしちゃ勿体ないでしょ」
「……君も、食べ物を粗末にするのが嫌いなタイプ?」
「そういうお兄さんも? いやあ、大事な事だと思うんですけどね、僕は」
喋りながら食べながら、動き続ける口に、ぼり、と小気味のいい音が響いた。
「あ、ピクルス」
「嫌いなのか?」
「あんまり美味しいと思わないです」
「抜けよ。歯型くらい気にしないから、僕が食ってやるぞ」
「いいや、僕がもらった物なんで、もう僕の物ですから」
どういう奴なんだ、こいつは。
驚くとか、戸惑うとか、通り越して、呆れが先に立った。
「嫌いな物我慢して食ってまで、勿体ないと思う物なのかい」
「そりゃあ思いますよ。だって、この独特の酸っぱさとか、絶妙な味わいの悪さとか、イヤーな感じ。食べなきゃ味わえない物ですし」
「そんなのわざわざ味わいたいもんじゃないだろ」
「いえいえ、そう言うのもひっくるめて、僕のですから」
すっと、胸の中に何かが吹き抜けた。
風通しが良くなった心の中を、清涼な水が洗い流すような。
言い換えるなら、ごちゃごちゃと絡まっていたパズルのピースが、突然、あてはまるべき場所を見つけてしまったような。
ぼやけていた言葉の輪郭が、唐突に鮮明さを取り戻した気がした。
「ご馳走様でした」
少年が立ち上がる。
その両足には、ハンバーガーとドリンクで蓄えられた元気が満ちているかのようで、再び走り出すために躍動する様が、ありありと想像できるようだった。
「ところでお兄さん、さっき、サンドバッグって言いましたけど」
「ああ、いや。忘れてくれ。僕はあんまり頑丈なサンドバッグじゃ無かったみたいだ」
「お兄さんはサンドバッグじゃ無くて、ダストシュートになろうとしてるみたいでしたよ」
その言葉の意味は一瞬、理解が追いつかなかった。
「まあ、確かに悩んでいる事を人に話すのは、少しだけ胸がすっとしましたけど」
少年はやはり笑っていた。
月よりも明るく、確かに自ら光を放つ、恒星のように見えた。
「僕の抱えている悩みを、お兄さんが受け止められないのは当たり前なんですよ。だって、これはあくまで僕の問題ですから」
「これで悩むのは僕だけの権利です。お兄さんにくれてなんかやりませんよ」
その時、確かに僕は解き放たれた。
沙耶が抱えていた怪物を、この少年も持っている。
むしろ、沙耶や僕の抱える物よりも、はるかに獰猛で凶暴な、悪魔のような怪物を。。
けれどそれは、心の奥に押しとどめて隠しておくような物では無い。
少年は、付けられた傷跡を誇らしげに、胸を張って、僕の物だと言い放った。
はるか遠くに光が射したように、暗がりに道が浮かんで行った。
「ところで、お兄さん」
少年は妙にとぼけた声を出した。
にやにやとした笑顔が、少しだけ鼻につく。
「今度は僕がサンドバッグになってあげても良いですけど……お兄さんの悩み、投げつけてみますか?」
僕はバッグを背負って立ち上がった。
「……いや。これは、僕の物だから」
どちらともなく、笑顔を向けた。
水面に反射した光が、視界の端に眩しかった。
「こっちに話すだけ話させといて、がめついなあ」
「悪いな」
ケータイで時間を確認する。
次の電車が来るまで、走れば間に合いそうだった。
押し出す足で地面を漕ぐ。冷たい夜風を切り裂いていく。
頬に滲む汗が冷えて、火照る体に心地よい。
転々と続く街灯を辿って、駅のホームへ走り込む。
飛び込むと共にドアが閉まる。駆け込み乗車を注意される。