サヤ
お疲れ様でした、と短く言って店を出た。
空はグラデーションする位置を低くして、紫と紺の混じったスクリーンを頭上に広げていた。遠く向こうを瞬く星の光は、市民に優しい街灯の明るさに眩んで見えない。
駅の方へ歩こうとする僕を、室井沙耶が呼びとめた。
「葉山さん。この後どうするんです?」
「どうするって、仕事が終わったんだからそりゃ、帰るさ」
「ご飯でも食べに行きませんか。マックで良いですから」
「行かないよ。僕、彼女居るって言ったよね」
「付き合い悪すぎですよ」
正直な所、沙耶と二人きりでの食事など、とてもじゃないが、恐ろしくって行けやしない。
女子高生と言う遠い国の生命体と会話をするには、仕事という枠組みの中でなくては僕の会話のレパートリーが間に合わない。
それに、今日は確か、桐子が家に居る。
彼女の事だから、僕の分の夕飯を作って待っているだろう。帰らないと、食べ物が無駄になる。
沙耶を振り払い、減った靴底を出来るだけ強く叩いて、帰路を急ぐ。
急ぎ帰ったところで、暖かな空間が僕を出迎えるわけではない。ただ、走馬灯を見続ける様な緩慢な不幸が、僕の部屋で待っている。
「ん」
見覚えのある顔が通り過ぎた。河川敷の辺りでのことだった。
やけに邪魔そうな前髪を揺らしながら、高校生くらいの少年が走っていった。たぶん、沙耶と同じくらいの年齢だろう。この時間帯のシフトで帰るとき、いつも見かける顔だから、いつもこの時間に走っているのだろう。
僕も運動は得意なほうではないが、彼もまた、あまり運動神経が良い方には見えなかった。
妙な親近感を覚えながら、駅を目指す歩みを止めない。
電車の中はまた、アニメソング一曲ぎりぎりの時間を過ごすことになる。
家に着くと、焦げたチーズの臭いがした。
なるほど、支度が面倒でピザでも取ったか。と思って部屋に入って見て、目を丸くした。
「グラタン作ったんだけど」
「はぁ?」
鍋つかみを二つ装備して、桐子がグラタン皿を持ち出してきた。
容器の中で、きつね色に焦がされたチーズが、おおぶりのエビと、弾力のありそうなマカロニを包んで僕を出迎えた。
僕は桐子に料理を教えた事はあるが、それは一人暮らしの男が困らない程度のものでしかない。もともと桐子は料理が出来ない女性だったし、グラタンなど、完全に予想の外だった。
フォークの先で、チーズが張る膜をぷつりと破った。とろりとした白いソースに包まれたマカロニを、目いっぱい口元で冷ます。
「……僕、猫舌なんだけどなあ」
「知ってる。だからまず他で食べる事は無いだろうなって思って」
「その発想はおかしいと思う」
猫舌と、食べ物の好き嫌いとは確かに別の物だ。
冷えて固まってきたチーズを口の中へ運ぶ。他の何物でも味わえない食感が、舌の上でほどけていく。
それなりに豊かな胸を張るようにして、桐子は僕の表情を嬉しそうに見ていた。
「美味しい?」
「美味いよ」
明日は外食にしよう。
そんなふうに決めた。
◇
「珍しいですね、葉山さんの方から誘ってくれるなんて」
別に誘ったわけでは無い。
マックでも行こうかな、と一人事が漏れたのを、沙耶が聴きつけただけの話だ。当然のように、支払いは僕の奢りという事になっている。
「今日は彼女さんの手料理じゃ無くて良かったんですか?」
「良いんだよ。そういう事をいちいち詮索するな」
沙耶はダブルチーズバーガーを頬張りながら、器用に喋りかけていた。
よくあの細くて小さな体で食べきれる物だ、と感心する。
しかし、僕がほんの少しでも見直そうと思っている間に、沙耶はデリカシーのかけらもない会話を、極めて勝手なペースで進めていく。
流行のアーティストがどうとか、駅前の服屋のセレクト品がどうとか、僕がついていけない話題をわざと選んでいるのじゃないか、と疑わしいくらいだった。勿論、相槌なんて適当にしかならない。それでも沙耶は、別に気にしていないようだった。
彼女は独り言が言いたいのだろう、と思った。
好きな事を好きなだけ話すなら、別に相手が壁でも良いに違いない。でも、壁を相手に話すのは悲しいから、とりあえず適当な人間を相手にする。適当な所で、僕が選ばれた。そういう話だったのだろう。
僕の知らないタイプのコミュニケーションだった。
けれど、どうやらべらべらと喋るだけでも、沙耶はそれなりにすっきりしているようだった。
それはむしゃくしゃした時に、サンドバッグを叩くような行為に置き換えると、なるほど、納得できた。
不意に、僕の胸に、知らない衝動が芽生えた。
相手を求めない会話があるなら、それは僕が行っても良いのではないか。
沙耶をサンドバッグにする事もまた、許されるのではないか。
解決など求めていない。ただ、吐き出すだけの会話をしてみる価値が、もしかしたらあるかもしれない。思い立ったとき、僕はウォレットチェーンのダサさについて語る沙耶の台詞を強引に遮っていた。
「珍しいですね、葉山さんが話をふるなんて。明日は雨が降るかもしれません」
「僕をなんだと思ってんだ」
誰も見ないブログにでも書き綴れば済むような話を、僕は、自分の中の記憶を整理するように語り始めていた。
それは、走馬灯の景色を実況するような行いだった。
最初、僕はあいまいな例え話にとどめるつもりだった。
しかし、沙耶が僕の話を聞いているだけで、知らないうちに、喉から勝手に言葉が飛び出していた。聞き上手、と言うのだろうか、それは沙耶個人が持ち合わせているスキルかもしれないし、女子高生という文化圏の住人が、すべからく必須としている処世術なのかもしれない。
ただ、沙耶は少なくとも、僕の話を熱心に聞いてくれた。
そして出された結論は、何処までも簡潔な物だった。
「別れちゃえばいいじゃないですか」
「ま、そうなるよな」
僕はシェーキの中身を啜りながら、そう言って締めるつもりだった。
ついでに「子供に答えが出せるほど、大人の恋愛って素直じゃないんだ」などと格好つける事も出来たかもしれない。それはあまりにも僕が滑稽なので、やめておいた。
本当に意外な事は、そこから先に待っていた。
「いえ、別れるべきです。別れなければいけないと思います」
沙耶は紙ナプキンで口を拭った。
これから振り回す刀剣の、刃を磨くような鋭さがあった。
「葉山さん。浮気と言うのは一時の気の迷いによって起きる事ではありません」
凛とした声だった。
「それは一種の精神病だと私は考えます」
沙耶は背筋を正した。
矢のような視線で、僕は固い革張りの椅子に縫い付けられた。
「正常な思考回路を持つ人間は、恋愛関係を解消する前に、他の誰かと関係を持つことはしません。例えば葉山さんに対して不満があるなら、それをまずは口に出し、それでもだめなら別れを切り出すのが道理です。何も言葉にせず、近づく事だけをやめて他者に走るなんて、まともな人間のすることではありません」
「ではなぜ彼女は他人に抱かれたのか。簡単です。それが彼女の本質だからです」
「葉山さんに不満があったわけではありません。その、佐古という男性に惹かれたからでもありません。ではなぜか、解りますか? 解らないでしょうね。そんな事も解らないから貴方は葉山さんなんです。いいえ、悪い事ではありません。その発想に思い至らない事が、葉山さんの良い所だと思います」
「葉山さんの彼女は、人の物でありながら、他の誰かに奪い取られるという、そのプロセス自体に魅入られたんです」
一旦、深い息が吐かれた。
沙耶は、紙コップの中のコーラを煽り、喉の奥を洗い流すようにして、胃に収めて行った。
「それは深刻な精神疾患です。なぜなら、佐古という人物がこの世から完全に消滅したところで、彼女はまた他の誰かに抱かれるからです。浮気とか、不倫とか、寝取られとかなんとか、そう言うこと自体に快楽を見出す人間なんです。尻軽と言っても良いかもしれません」
「解りますか? 葉山さん。別れますか? 葉山さん」
独り言のようだった。
「解りましょう。別れましょう。それが貴方に必要な事です」
彼女の言葉は、返答を要求する者では無かった。
「葉山さんが今でもなお、彼女を部屋に置いているのはなぜか。簡単です。貴方に未練があるからです。許せないけれど、憎み切れない。中途半端に情を持っているから、宙ぶらりんになるんです」
なおもそれは、壁に語りかける様な言葉だった。
「駄目ですよ。葉山さん」
サンドバッグを殴りつけるようだった。
「あなたが不意に油断して、彼女を許した時。もう一度、彼女は貴方を裏切ると思います」
しかし、表情をゆがめているのは、僕よりもむしろ、話を続ける本人の方で。
或いは、殴られているのは――。
「浮かない顔ですね。説得力が足りませんか? そうでしょう。私のような小娘にここまで言われて、はいそうですかと受け入れられるほど、成人式を終えた後の人間の頭は柔らかくは無いでしょうね。それを責めるほど、私は幼稚じゃありません」
溜め息が漏れた。
「なぜ言い切れるかって? 解りませんか。私、別に本格的なレズビアンじゃありません」
声が涙でぬれていた。
「男の人が好きでした。ちゃんと、ちゃんと、憧れた男性が居ました。それは、少なくとも私にとっては、本気の恋に違いありませんでした」
サンドバッグの表面に、沙耶の顔が映った。
「それでも私、今、カノジョが居るんですよ」
それは、十五分に及ぶ演説だった。
止まった空気の中を、抜身の刃が何度も何度も往復するような言葉の嵐が、僕たちの間を遠慮も無くズタズタに裂いて行った。
その時、僕と沙耶の間に存在した壁のようなものは、粉微塵に切り砕かれていた。
いや。
沙耶が自ら、僕に見せていた殻を脱ぎ捨てたのかもしれない。
綺麗に着飾るために供えていた、光沢をもつ殻を、脱ぎ捨てたのかもしれない。
そうして露わにされた、沙耶の姿は。
たった十六年の人生の中で、彼女の中に育ったそれは。
濁った海の中に潜む、巨大な怪物のようだった。
◇
惚けた頭で、僕は帰路を進んでいた。
沙耶とはそれ以上話を続ける空気ではなく、ただ、お互い別々に会計を済ませて、別々の方向に歩き出した。
夕日は既に片鱗すらなく沈み、真っ暗な空に、目立たない星が灯っていた。
未練。
その簡潔な二文字は、されど、たった19角に留まらない複雑な何かを持っている。それが何であるか解っているのに、確かな正体は解らない気がしている。それは僕も、桐子も、きっと同じ事なのだろう。
今日、桐子には外食することを伝えてある。
桐子は何か小難しく詮索してくる事も無く、ただ「そっか、じゃあ私はナオミのとこでも行く」とか言ってた。粗末にされる食料が無い事は、たぶん間違いない。
真っ直ぐに帰宅する気分で無かったぼくは、河川敷の土手に腰を下ろして、濁った川の表面を眺めた。
この川にも魚が居るのだと言う。
僕からみれば、お世辞にもあまり綺麗な水ではないと思う。時折、若者や子供たちが適当にごみを放ったりする事もある。こんな川に住み続けていたら、病気か何かになるのじゃないか。大して深刻でもない心配をする。
或いは、僕も同じかもしれない。
あの淀んだ川の水面が、僕と桐子の住むアパートの部屋なのかもしれない。
けれど外の海に行くことはできず、陸に上がる事も出来ない。
僕の生活は、緩やかな死の中で流れている。
遠くを車の音が響いている。
背の高くないビルの谷間に、無数の人々の生が響いている。
その中のどれが正しい音を奏でているのか、僕にはもう解らない。
一定のリズムが、近づいてきた。
それはふと、僕の背後でぴたりと止まった。
振り向けば、ジャージに身を包んだ少年が、切らした息を整えていた。
普段、僕が帰宅する時間に、ジョギングしてる子に違いなかった。
沙耶と話しこんでいたから、いつもの時間より、二時間近いズレを置いて、僕はこの場所に居る。それでも彼はこの場所で、僕と邂逅した。一体、どれだけの時間、走り続けていたのだろう。
その良く解らないひたむきさが、一瞬、かつての僕の姿に重なって見えた。
「頑張るね」
そう言ってしまった。
普段、誰かに積極的に話しかける事などしない。
それは意図したわけでは無く、ただ、ただ、本当になんとなく、零れ落ちてしまった言葉だった。
「いやあ、別に頑張ってないんですけど」
少年は、以外にもすんなりと会話に応じた。
「陸上部か何か? それとも、体力づくりかな」
「そういうわけじゃあ無いんですけど、勿体なくって」
「勿体ないって、何が」
「座って考え事をしている時間が、勿体なくって。とりあえず走りながら考えようかなって思って」
今時の高校生は、本当に変わっている。
或いは、僕がそういうエネルギーに溢れた高校生を知らなかっただけで、僕が現役だった時代から、他の連中はこうだったのかもしれない。
「そう言うお兄さんも、なんか考え事してます?」
「鋭いな」
言い当てられて、僕は膝を抱えた。
突然、自分の内側を覗かれた気がして、視線を少年から外し、再び水面に投げつけた。
僕を映さない水面の鏡は、歪んだ星空に彩られていた。
「休憩します」
少年はそう言って、僕の隣に座ってきた。
夜を吹き抜けていく風が僕には寒いが、少年の細い体を流れる汗を、優しく拭っていくかのように見えた。
それは世界に愛されている人間と、そうではない人間の差を見せつけられているかのようで、少し意味も無くイラついた。沙耶は、桐子は、どちらの側の人間だろう。それはおそらく、僕と同じ側に立っているのじゃないか、と思えた。
水面から反射する微かな光を浴びて、少年は満足げな顔を浮かべていた。
夜を包む影に纏わりつかれながら、僕は何もない場所を見つめていた。
遠くを走る列車の音が、風の加減で響いていた。
アニメソング一曲の間に、あれは僕の家へと走っていく。