ジュン
別に佐古が死ぬという事は無くて、むしろ、あいつは驚くべき事に軽傷だった。下に止まっていた車の持ち主が、気の毒ではあった。
ただ、僕等はそろって大学を辞めさせられた。
バイト先も新たに探さねばならなかった。
失った目や、佐古と起こした問題を引きずってでも使って貰える場所を探すのは、それなりに骨が折れた。
佐古は町を去った。けれど僕は、町から離れる事は出来なかった。
事件に関するほとんどの事に事務的な決着がついてから、すぐ。
桐子は僕の前に現れた。
「……ごめんなさい。純くん、ごめんなさい」
壊れたラジオのようだった。
桐子は泣きながら、嗚咽を漏らしながら、その場で両手を地面について、頭を下げた。
「間違ったの。私、間違ったの」
「好きなのは、純くんだったのに……ずっとずっと、それだけは変わらなかったのに」
「弱かった。馬鹿だった。だから、御免なさい。純くん、ごめんなさい」
その桐子に、なんという言葉をかけるのが正解だったのか、今の僕には解らない。
ただ、少なくともその時の僕がかけた言葉は、正しくは無かったような気がする。
「良いよ、別に。桐子のせいじゃないし」
怒りは無かった。
「気にしないで。桐子は桐子で、またどこかでやり直せばいいから」
それを含む、ありとあらゆるアクティブな感情が、僕の中からなくなっていた。
目の前の桐子に、逃げるように姿を消した佐古に、滾る様な憎しみを向けることはできなかった。ただ、惨めで、滑稽で、愚かしい自分の姿だけが、残った片目に映っていた
決別の意味を込めて、僕は桐子の目の前で、シルバーリングを遠くへ放った。
しかし、それは桐子を絶望させるには十分だったらしい。
突き放すための言葉は、何よりも強烈な鎖となって、桐子の中に残った。
桐子が僕から離れる事は無かった。
頼んでも居ないのに、桐子は毎日家事を手伝いに来た。
片目が見えなくなって、少しだけ不便になった生活を、実に献身的に手伝ってくれた。
桐子は大学を辞めていた。友達づきあいをすることも無くなっていた。
それからは、彼女は以前よりも遥かに献身的で、一途に尽くしてくれる女性になった。
僕の買ったバッグを、肌身離さず持っていた。居られる時は四六時中、僕の傍に居てくれようとした。
欲しいと思う前に、食事を用意してくれた。洗濯物を真っ白になるまで洗ってくれた。
いつだって部屋の中をきれいにしてくれた。何かにつけて、全ての事を気遣ってくれた。
桐子は勘違いしていたのだと思う。
それが僕の求めて居た物だと、勘違いしていたのだと、思う。
男にとって、酷く都合の良い女が出来上がった。
いつも健気に尽くしてくれて、いつだって三歩後ろをついてきてくれるような、古臭い大和撫子に、桐子は成ろうとしていた。
ある日、僕は限界を迎えた。
「桐子」
呼べば、桐子は振り向いてくれた。
優しさの中に、目いっぱいの申し訳なさを含めた笑顔で、僕を見た。
「なあに、純くん」
綺麗な黒髪は、肩を超すほど伸びていた。
僕が黒髪ロングが好きなことだって、桐子は知っていた。
「君は、勘違いしているんだろうけど、僕が観たいのはそういう桐子じゃないんだ」
桐子は首をかしげた。
望んでくれるのなら、なんでもお応えしますよ、と言わんばかりだった。
「そういう清楚で、貞淑で、素直で、従順な桐子が観たいわけじゃない」
「……どういう事?」
「だってさ」
今更良い子ぶったって、お前、佐古と寝たじゃん。
一皮剝けば、男にホイホイ誘われて、股開くような人なんだよね。
どれだけ綺麗に着飾ったって、お前がお前である事だけは、変わらないじゃないか。
そんなような事を、言った気がする。
その時の桐子の顔は、比喩表現ではなく、本当に血の気が無かった。
◇
「で、なんで今更こういうことになってんだか」
今、僕はパソコンの前で、ポテチを齧りながら呟いてた。
茶色い髪を揺らしながら、桐子は自分の食べた弁当を片付けるついでに、明日出すゴミをまとめていた。
僕と桐子が別れる事は無かった。それを桐子が決して受け入れなかったからだ。
彼女は許されたかったのだという。
それは、別に僕と完全に和解するという形でなくとも、僕から解りやすく罵倒され、殴られ、蹴られ、罰を受けると言うようにして発散するのでも良かったのだという。つまり、彼女は自分が犯した事を、何らかの形で清算したいだけらしかった。
僕はと言えば、桐子を永久に許せないと確信していた。
だから、僕と一緒に居る事自体が、桐子にとって一番不幸な事なのだと、出来るだけ解りやすく説明してあげた。けれど、それでも桐子は僕と一緒に居ると言った。
そして今、こういう歪な生活が続いている。
僕は桐子と共に生きる事について、条件を出した。
僕以外の誰かと、常に浮気し続ける事。
周りには僕の事をキープだと公言し、決して真面目な体裁を繕ったりしない事。
それ、何の意味があるの? と、桐子は聞いた。
僕は、桐子が「汚れた」って事を忘れたくないんだ、と答えた。
方便だ。適当に男作ってどっか行ってくれりゃそれで良かった。
けれど、桐子はこうして此処に居る。
男をとっかえひっかえ味見しながら、毎日毎日外で派手に遊びまわりながら、それでも此処にいる。
「辛くないの? それ」
僕は、家事を続ける桐子の背中に、不意に声をかけた。
振り向いた桐子の表情は、昔にくらべて随分キツくなったと思う。
かつて、看守と囚人の実験が在ったという。
適当に人間を集め、看守役と囚人役に分けて、演技の生活を続けさせると、それぞれ最終的には自身の役割通りの人格に変わっていくのだそうだ。
遊び人を役割で続けていた桐子は、派手な子になった。
化粧や服装のセンスは、最早作っている物ではなく、桐子自身の感性の変容に寄るものだと思う。
口調や仕草もすっかり変わった。
別に頼んでも居ないのに、行きずりの男との経験を自慢げに話す日すらあった。
イケメンを仕留められなかったときは悔しそうだったし、次の日に新しい出会いがあれば、子供のようにはしゃいで見せた。
綺麗な黒髪をさらさらと靡かせる桐子は、もうどこにも居ない。
壊してしまったのは、僕だ。
なのに、振り向いた桐子の瞳は、どこまでも真っ直ぐに僕を見た。
「いやあ、辛いけどさ。正直」
昔の桐子は、そんな口調でしゃべらない。
「まあ、でもなんつーか、気楽と言えば気楽なのかも。浮気公認してくれる環境なんて絶対ないし、どれだけ下手こいてもフリーにはならないし、それなりに自由に生きてられるかなって」
「浮気相手に本気になったら、いつでもそっちに行って良いのに」
桐子は、一瞬目を丸くして。
それから、信じられない程、明るく笑った。
「純くんの傍から離れる事だけは、ちょっと考えられないなあ」
なんでそんな事が言えるんだろう。
こんな関係、普通じゃないって。とっくに僕たちは壊れてるんだって。
そんな事も解らないような、頭の悪い女の子じゃ無かっただろ。
ここで僕が一言でも、あの日の事を許すと言えば、彼女は自由になるのだろうか。
あるいは、彼女の誘いに乗って、抱いてでもやれば良いのだろうか。
少なくとも、それだけは絶対に御免だ。
「あのさ、桐子。いくら待ったって、僕は君を許したりしないって」
「うん、知ってる」
「君と体を重ねることも無いよ。キスだってしない。家事とか世話に感謝する事も無い。っていうか、多分一生、君の事を許さないよ。人並みの結婚なんかしてあげないよ。どっかの合コンで見つけた男の方が、きっとずっと君に真剣になってくれるよ」
「うん、知ってる」
「じゃあ――――」
桐子は、また笑った。
かつての、黒髪の綺麗な桐子が見せた笑顔で、笑った。
「でもさ、私ももう無理なんだ」
派手に飾ったネイルも、焼けたような色の茶髪も、下品にすら見える布地の少ない服も、桐子の笑顔の眩しさを邪魔する事は無かった。
「此処に居ないと、生きてるって言えないと思うんだ」
そういうのは、愛情じゃないと思う。
依存とか、惰性とか、そういう言葉で括れない何かが、桐子を縛り付けているのだと思う。
けれど、その時僕は。
「……勝手にすれば」
僕は不覚にも、良かった、って、思ってしまっていた。