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サコ

 大学デビューとまで言えば大げさだが、そもそもあまり明るい人間では無かったから、上京したばかりの僕は、それまでに比べると劇的な変化を経て、大学生活に臨んだ。

 お洒落と言われるのはハードルが高かったか、少なくとも小奇麗にすることだけは気を付けていた。

 その甲斐あってか、僕はそれなりにゼミで友人を作り、それなりにサークルの輪に溶け込んで、それなりに飲み会にも付き合うようになった。

 大学生ならではの、合同コンパという集まりに出る時は、人生で一番勇気を振り絞ったような気がした。


 初めて会った時、桐子はとても素朴な女の子に見えた。


 今のように派手な格好を好まない頃の桐子は、黒い髪を上品に肩ほどで揃えていた。

 僕はその髪が本当にきれいに見えて、ずっとそればかり見ていたのを覚えている。

 合コンに参加している他の連中が、何か狂気じみた使命感に突き動かされるようにテンションを上げる中、僕と桐子だけは居心地が悪そうに隅に引っ込んでいた。

 居心地の悪そうな二人だけの、居心地の良い空間が出来るまでには、そう長い時間を必要としなかった。


 人生で初めて彼女が出来た。

 手を繋いで路上を歩くのが恥ずかしくなくなるまで、酷く長い時間がかかった。

 

 僕らは形式的に彼氏と彼女であったけど、すぐに身体を重ねるほどの関係には至らなかった。

 桐子は恋愛の駆け引きに疎く、僕はそれに輪をかけて酷かったから、二人で少しずつ正解を探る様な形で、僕等の恋人関係は、ゆっくりと積る雪のように進んでいった。


 三週間を数える頃、僕のファーストキスは果たされた。

 暑い日差しの照りつける、水曜の午後だった。


 ペットボトルのジュースを飲んでいた桐子の唇が、想像していた以上に柔らかかった事が、ただただ僕を驚かせ、感動させた。

 彼女が出来た。その出来事がどこまでも甘く、尊い物であると感じられた。

 桜色に染まっていく頭の中で、僕はそのほかの様々な感触について、愚かしいほど拙い想像を巡らせていた。


 僕の誕生日を、桐子は知っていた。

 確か、教えたのは初めて会ったコンパの時に、一度きりの筈だった。

 桐子が僕にくれたのは、随分と洒落たシルバーリングだった。僕はそういった物を着ける文化が無いから、少し戸惑ったけれど、それを薬指に嵌める事で、世界中の何よりも堅牢な鎧に守られている気持ちになった。

 しかし、桐子がこの手の男物のアクセサリーに関して明るくない事を僕は知っていた。

 何気なく聞いてみると、佐古に相談したのだと教えてくれた。


 佐古は明るい奴だった。サークルのリーダーではないが、少なくとも集団を動かすのは佐古だった。

 いつも人を笑わせていた。佐古の周りは賑やかな光が絶えず煌めき続けていて、僕もまた、佐古の放つ光を照り返す形で、少なからず輝く事を楽しいと思っていた。


 桐子がプレゼントをくれた事に対するのと同じくらい、桐子を助けてくれた佐古に感謝をした。

 夏の日の僕の世界は、すべからく幸福に回っていた。



          ◇



 バイトを始めた時、僕は授業とサークルと友達づきあいとの兼ね合いの難しさを軽んじていた。

 スケジュールの調整はなかなかに疎ましく、初めての接客は引っ込み思案な僕にはハードルの高い仕事で、少なくともやっていて楽しい物では無かった。それは今になっても変わらない。

 けれど、それでも僕が突き動かされたのは、冬に待つ桐子の誕生日のためだった。


 ふとした時、桐子からもらったリングの値段を知った。

 値段が愛情の度数ではないと思ったけれど、少なくとも、それに対して顔向けできる程度のプレゼントを用意しようと、僕はコウノトリを信じる子供のような気軽さで決心を固めた。


 そのころ、僕と桐子の時間は少しずつずれ始めていた。

 バイトを入れたせいもあるが、桐子は桐子の友達との付き合いが多くなり、僕はそれをわざわざ言葉で束縛することもなかった。最初から僕たちは、お互いを必要以上に縛ることはなかった。

 桐子には桐子の時間があり、やりたい事があった。

 桐子は大学と言う場所に、確かな決意と夢を持ってやってきた。

 その学問を専攻することに、桐子は一研究者にも引けを取らない気概を備えていた。

 桐子はゼミ室に籠る事が多かった。そんな桐子は元々、友達づきあいが悪く、あの日のコンパに出たのも渋々に過ぎなかったのだと、後から知った。


 そういう桐子が、友達とよく遊ぶようになったのは、好ましい変化だと受け止めていた。

 

 桐子は明るく笑うようになった。

 それは学問にだけ直向きに生きる、一人の熱心な学生としての顔では無く、最後の青春を全力で過ごす、健康的な少女の表情だった。


 僕たちが会うのは、週に一回程度のペースだった。

 他のゼミ生には、お前たちはそんなのでやっていけるのか、と言われた事もある。

 僕は自信を持って、頷いていた。


 デートをしても、僕たちは体を重ねなかった。

 僕が奥手である事は間違いなく原因の一つだったが、同時に、桐子もそれを求めているそぶりが微塵もなかった。それはそれでいいと思った。恋愛経験の無い僕は、周りのカップルとのずれに気づいては居たが、それはあくまで僕たちのペースであって、焦ることなど無いのだと信じていた。

 

 季節は変わり、緑の木々がセピア色に染まり始めた。

 

 褪せていく景色の中で、僕は働く事にひたむきだった。



          ◇



 北海道では初雪が観測されたと聞いたころ。

 僕は溜め続けたお金をいっぱいに使って、冗談みたいな値段のバッグを買った。


 僕がシルバーリングを貰った時は、サプライズだった。

 あの驚きを、桐子にも味わわせたかった。僕は店から飛び出て、すぐに走り出した。


 桐子の住んでいるアパートを、僕は知っていた。

 行った事は無い。ただ、何処にあるのか、という事だけは知っていた。


 その時点で、僕が桐子の部屋を訪れた事は無かった。

 夏が秋に変わるまでの時間、僕は桐子の部屋を訪れた事は無かった。


 少しの経験があるだけで、それがひどく不思議な事である事には気づけたのかもしれない。


 いや、それが可笑しいと言う事は気づいていても、僕の中に、桐子を疑うと言う発想が初めから無かったのだろう。

 どれだけ身ぎれいになっても、どれだけ表面を装っても、僕の中身は高校生までの暗くダサいままで、その本質は変わっていなかった。

 ただ、手に入れたばかりの、桐子という光を大切にしていた。

 手の中で優しく撫でて、眺めるだけで満足するように、ぬるま湯のような関係を愛情だと思っていた。

 二十歳に成ろうかと言う僕の頭は、未成熟な中学生以下の幼さしか持ち合わせて居なかった。


 呼び鈴を鳴らした。



          ◇



 薄着の佐古が出て来たとき、僕の立っていた地面は消えてしまった。


 奥で、目を擦りながら体を起こす桐子を見た。


 僕は、知らない土地に放り出された子供のような目で、桐子を見て、佐古を見た。


 桐子は、時間が止まったように動かなくなった。

 佐古だけが、僕を見て、鼻で笑った。


 寂しい思いをさせたのだという。

 桐子は退屈していたのだという。

 僕の知らない桐子の不満が、佐古の口から語られていく。



 

 数か月の間、キスだけでとどまるカップルの存在がどれほど幼稚な物かを、彼は丁寧に説明してくれた。

 数か月の間、家にも上げて貰えない男の滑稽さを、彼は丁寧に説明してくれた。

 数か月の間、桐子がどれだけ変わったかを、彼は丁寧に説明してくれた。

 数か月の間、いかに自分が桐子と愛し合ったかを、彼は丁寧に説明してくれた。



 どうでも良かった。


 頭の奥で、酷く汚い音で、何かが切れる音がした。


 醜く唸るブタのような声で、僕は佐古に掴みかかった。

 佐古は僕の腕を難なく捻り上げると、指輪のついた拳で僕を殴りつけた。

 素早く振り下ろされるその手についていた指輪は、僕の持っているものよりも、よほど上等な細工が施されていた。


 当たりどころが悪かった。

 僕の左目は、強烈な熱と共に弾ける光を最後に、その機能を失った。


 そのまま、僕は倒れた。

 手に抱えていた、ラッピングされたバッグが、床に落ちた。


 佐古は半笑いで、それを拾い上げた。


 笑った。


 馬鹿だと言った。


 そして、梱包をぐしゃぐしゃに破いて、乱暴に地面に叩きつけた。





 それだけは、やってはいけなかった。



 

 僕を動かしていた物が何だったのか、今の僕にも解らない。

 ただ、驚くほどすんなりと、僕は立ち上がった。

 

 佐古の拳が迫った。顔を狙ってくることは、良く解った。

 僕は間抜けによろけるような形で、佐古の腹のあたりに向かって走った。


 どん、と鈍い音がした。

 佐古の背に、二階廊下の手すりが触れた。


 僕はもう一度、脚を踏み出すだけでよかった。

 

 ただ、もう一度だけ、佐古の身体を押してやった。


 

 佐古は、僕の桐子へのプレゼントを、汚いゴミのように捨てようとした。


 僕は、そんな佐古を、二階から捨てた。

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