トウコ
作品中に登場する人間関係は自分でも少し気持ち悪いと思うくらいです。ので、少なからず不快に思う人は居るでしょう。でも現実には多分いませんよ、こういう人達。
なお、おそらく不定期連載になると思いますし、完結するかは自信無いです。
禁煙主義を貫く僕の部屋に、キャスターマイルドの臭いが立ち込めるようになったのはいつの頃からだったか。
くゆる煙の白さに眼を擦りながら、布団から体を上げた時、桐子は既に外出の支度を整えていた。
桐子のベッドは、この狭い1LDKの部屋の、僕のベッドとは反対側の壁につけられている。
位置関係的には隣と言えるが、僕と彼女の生活空間の、もっとも安らぐべきスポットは、二メートル以上の距離を置いて設けられていた。
「桐子、デート?」
「うん」
眠さでねばつく声をかけると、桐子からはウキウキと弾むような声が帰ってきた。
先週の合コンで当たりを引いたのだと言う。写メを見せてもらったが、筋肉質で、茶髪と日焼けの良く似合う、快活な男性だった。桐子の好みとしては、かなり正解に近い。つまり、僕とは正反対の男だった。
差し込む光に照らされた桐子の顔は、いつもより気合の入ったメイクが施されていた。
ノースリーブの黒いワンピースはスカート丈が短く、その上に、アニマル柄のモッズコートを羽織っている。暑いのか寒いのか解りづらいが、上着の下の薄着という組み合わせは、それを剝いていく男のやる気を駆り立てるのだという。桐子独自の理論だが、なるほど、解らなくはない。
机の上には、ラップをかけられた目玉焼きとトーストがあった。
「朝ごはん、用意してくれたんだ」
「ま、このくらいはね」
カリカリに焼き上げられたトーストも、黄身の柔らかそうな目玉焼きも、僕の好みそのものだった。
桐子に料理を教えたのは僕なのだから、僕の好み通りになるのは当然なのだが、その通りに作れるようになったのは、少しだけ嬉しかった。
「夜、帰ってこないよね」
「上手く行けばね。まあ、あの人見るからにヤりたがってたから、一泊は間違いないかなー」
「じゃあ晩ごはん、外で食べても良いよね」
「なんか純くん、嬉しそうだね」
「たまの外食だから」
僕は財布の中身を確認した。十分ある。
ありすぎるくらいだったから、桐子に呼びかけた。
「桐子、手持ち足りてる?」
「や、あんま無いけどアキラくんが奢ってくれると思う。っつか、奢らせるためにもお金無い方が良い」
そういう事なら、と僕は財布を閉じた。
桐子はヒールの高い、やけに歩きづらそうな靴を履いている。よくもまあ、頭からつま先まで、殆どのコーディネイトを男の貢物で固められるな、と感心する。
肩からかけてあるバッグだけは、僕にも見覚えがあった。
なにせ、僕が買ったから。
「じゃ、行ってきます」
「うん、行ってらっしゃい」
東側に面する玄関の扉が開いて、強い光が差し込んだ。
薄暗い部屋の中から、桐子が眩しい外の世界へと飛び出していった。
僕は影になった部屋の隅から、それを無表情で見つめて、扉の締まる音を聞いた。
今日も桐子は、僕では無い男の所で笑っているだろう。
僕は桐子の作った朝食を食べて、手早く皿洗いを済ませると、少しぼーっとしてから、身支度を始めた。
着なれたパーカーと、くたびれたジーンズを着て、財布とケータイと、読みかけの文庫本だけ鞄に入れた。
時間は結構余裕がある。桐子も、随分早い時間に待ち合わせた物だと思うが、隣の町に行くのだから丁度いいのかも、と思い直す。
部屋を出て、僕だけが持っている鍵で施錠をする。
がちゃん、と硬い音が鳴る。この部屋が、確かに閉じられた事を感じる。
中には僕の生活用品と、桐子の山のような私物が転がっている。
誰かに視られる事だけ気を付けながら、僕はアパートを後にする。
一駅だけ歩いて、それから地下鉄に乗る。
バイト先へ向かう。
◇
「葉山さんって、カノジョとか居ないんですか?」
室井沙耶が、不意に聞いてきた。
確か、今は高1だったろうか。他人が一人身かどうか、恋愛事情はどうか、とか、一番気になる年頃なのかもしれない。
「いるよ」
「あ、居るんですか」
あっさりと応えると、あっさりと返事をされた。
残念がるような感じは無い。それはむしろ、僕のような男にも彼女が居る、という事が意外だと思っているように聞こえた。それに対して怒るほど、僕は自分を知らなくはない。
鏡の中の自分に会ったら、同じ質問をするまでもなく、こいつは童貞だと思う筈だ。
いや、童貞なのは間違いないが。
「でも葉山さんって、その割には垢抜けてないですよね」
「五歳も年下の奴に言われると死にたくなるんだけど」
「だって、カノジョが居るならもっと、身なりとか、いろいろ気を使うと思うんですよ。なのになんですか、あのだっさい黄色のパーカー。ジーンズだってどう見てもあれ、ゴム入ってるでしょう」
「いいじゃん。僕の趣味だし、ほっとけよ」
どうせバイト中は、みんな同じ制服を着るんだ。
とはいえ、普段から別にファッションに気を使うわけでもないけれど。
「そういう室井ちゃんは、彼氏居るの?」
「いませんよ。女子高ですし」
「あ、そう」
なら人の事なんか気にするな、と言おうと思ったら。
「でもカノジョは居ますよ」
「……あ、そう」
返事に困らされる羽目になった。
冗談なんだか本気なんだか、この世代の女の子は解りづらい。
いや、別に同世代でも解りづらいけど。少なくとも、桐子の事はほとんど理解できないのだから。
私語をほどほどに、バイトは続く。
世代差の広い客層の中で、たまに普通のカップルを見かけると、酷く安心する事がある。
けれど、その後に、必ず強烈な違和感と不安が襲ってくる。
人と人が何の齟齬も無く、あれだけ近くで親しげな関係を築いている事が、自然な事だとはとても思えない。
一瞬、自分の立っている場所がどこなのか解らなくなるような、気色の悪い浮遊感に包まれる。
それを感じない様に、頭の中で何度も何度も、大好きなアニメソングをリピートしながら、機械的にレジを打ち、商品を陳列する。
日が落ちて、流れ作業の勤務時間が終わる。
室井と適当に挨拶を交わして、肩紐の擦り切れたバッグを持って、駅へ向かう。
桐子の事を除いては、僕の一日に変化はない。
決められたシフトの通りにバイトに出て、変わり映えのしない接客をして金を稼ぎ、大した寄り道もせずに帰る。桐子が居なければ、一人で適当に弁当でも買っていって、ネットサーフィンでもしながらちびちび食べて、一時ごろには寝る。
ただ、明日は目覚ましをかけておかなくてはならないから、それだけは忘れない。
僕を運ぶ電車の中は騒がしく、ケータイにイヤホンを差して、耳を塞ぐ。
保存してあるアニメソングの中から、なるべく明るい奴を選ぶ。
ガンガンと耳元で鳴り響くギターの音色と、電車の音と比べると、間違いなくこちらの方が煩い筈だ。けれど僕は、そんな事はお構いなしに、非現実的な熱血正義を唄う歌詞に酔う。
フィクションの世界はどこまでも綺麗で、甘い。
理想と夢と希望と、光に満ち溢れた物が詰まっている。
すぐ傍で響く別世界の音に酔いしれて、揺れる電車の床を足で叩きながら、聞き惚れる。
駅順を示すランプが、少しずつ僕の降りる駅へ近づいていく。
せめて最後のサビまで待ってほしいと、意味も無い事を祈る。
◇
街灯の少ない道を進み、古いアパートの階段を上る。
錆びたトタンがかろん、かろん、と音を立てて、やがて、僕の部屋が見えてくる。
思わず足を止めたのは、予想していなかった景色に出会ったからだ。
「……おかえり」
ドアの前で、桐子が膝を抱えていた。
一人分だけ買ってきた弁当が、なんだかやけに軽くなった。
「今日、泊まって来るんじゃなかったっけ」
「あー、うーん、それなんだけどね」
失敗しちゃった。と、あっけらかんと彼女は言った。
桐子がベッドまでたどり着けないなんて、珍しい事もあるな、とだけ僕は思った。
とりあえず、鍵を開ける。合鍵は桐子に持たせていない。どれくらいの時間、ここでこうして蹲っていたのかは、別に聞かないし、興味も無い。
部屋に入ると、僕は棚からカップラーメンを持ち出して、弁当を桐子に差し出した。
「飯まだなら、食って良いよ」
「……や、純くんのご飯じゃん、これ」
「朝のトーストのお返し」
「……いいよ、食べて来たから」
最近、桐子の嘘はたいてい解るようになっていた。
「食べ物粗末にしたら、追い出すよ」
そう言うと、桐子はすこしの間だけ固まっていたが、しぶしぶと弁当を開けた。
台所に立つと、桐子に背を向けてお湯を沸かした。
ヤカンの表面に、部屋の中の景色が丸く歪んで映っていた。
テーブルについたまま、桐子はテレビを見ながら食事を始めた。
僕はお湯を注いだカップラーメンを持って、テレビと反対側のパソコンの前に座った。
「純くん、テーブルで食べなよ。パソコンにこぼすよ」
「そんなドジしないよ。佐古じゃあるまいし」
猫舌の僕は、念入りに麺を冷まして、遅いペースで食事を進める。ず、ず、とテンポの悪い音が、テレビから聞こえてくる、芸人の馬鹿笑いに混じって、どこかずれた音色になる。
ネット掲示板を流れるように見つめながら、口の中で、伸びたゴムみたいな麺を噛み砕く。
味が濃く、塩辛いカップラーメンは、食っている最中はすぐに満腹感が襲って来るけれど、腹に長くたまらない事を僕は知っている。
短い間だけ、舌にひどく刺激的な味を感じて居られる。
短い間だけ。
ヘッドホンを着ける。
ネット配信のアニメチャンネルを開く。
画面の中で、極彩色の少女たちが踊る。現実には居ない。居たらさすがに気持ち悪い。解ってる。大きすぎる瞳も、肥大した頭蓋骨も、毒々しい色の髪の毛も、それは平面上だからこそ許される。
けれどだからこそ、そこが現実とは違う世界である事を強く感じる。
パソコンと僕だけが居る、一畳分だけの限られた空間を、出来るだけ閉じていく。
柔らかい感触が、僕を包んだ。
甘ったるい匂いが、鼻を擽った。
沈んでいた意識が、凄まじい勢いで現実に引き上げられた。
緩やかにパーマのかかった、茶色の髪が僕の頬に触れた。
少し顔を向ければ、桐子の栗色の瞳が僕を映していた。
「ねえ、純くん」
衝動的に、耳を塞ぎたくなった。
部屋の中の平面と言う平面が、急速に波打って波紋を広げた。
「セックスしようか」
声が聞こえた。
桐子の声が聞こえた。
腹の奥に渦巻いた、まだ形を持った熱が、強烈に渦を巻くのが恐ろしくくっきりと感じられた。
チカチカと眼の前が瞬いて、火花のような星が飛んで、幾つもの景色が僕の目の前を通り過ぎて行った。
けれど、沸騰した脳は勢いよく噴出す事は無かった。
代わりに、底に空いた穴から流れ出すように、急速に、体温が下がっていった。
意識よりも早く、声が出た。
「嫌だよ、汚い」