ソースはソースの味になってしまうのか?
コロッケがたまに食べたくなる。
最近では肉屋に行かなくてもコンビニでそれなりに美味しいコロッケが食べられるから便利な世の中になったものである。
コロッケの何がいいかと言えば、好きな人には説明不要かとも思うけど、あの腹持ちの良さである。
もちろんそれだけでない。
揚げたてのコロッケは衣がサクリとしており、まず一口目にこのサクリというカリカリ感を味わえる。
そんなカリカリ感の余韻に浸る間もなく中身の美味さが口の中に広がる。
ジャガイモのホクホクとした柔らかい触感の中にひき肉と玉ねぎの旨味が染みており、たまに黒コショウが効いていて刺激をくれるという、なんとも言い難いぐらいの幸福感を与えてくれるのだ。
コロッケには下味がしっかりついているので、今まではソースはつけなかった。
ソースという暴力的な味のこの調味料はすべての味をソースに変えてしまう。
でもこれが面白くて、すべてのものがソースの味になるのに、ソースだけ食べても美味しくないのだ。
これ……
マヨネーズにも言えているのである。
これをかけるとすべてのものがマヨネーズの味になるのだけど、マヨネーズだけ食べても美味しくない。
否……
世間一般に言うマヨラーと呼ばれる人間ならそうでもないかもしれない。
ただボクはマヨネーズだけ食べるのはあまり好きではない。
好きではないが食べれなくはない……
このあたりがマヨネーズの調味料としてのすごいところだろう。
ソースや醤油ではこうはいかない。
マヨネーズは偉大なのである。
随分と話がそれてしまった。
ソースの話である。
ソースをかけてしまうとなんでもソースの味になってしまうという人がいるが果たしてそうなのだろうかと思うことがある。というのも、とんかつにソースをかけてもとんかつの味だし、焼きそばにソースをかけても焼きそばではないか。そう考えるとソースをそこまで揶揄してしまうのはなんだかソースに失礼なような気がしないでもない。
食通を気取る人はどうにも塩味を重宝しがちである。
ただ誤解のないように言いたいのだが、食通を気取るということはボク個人としては良いことだと思っている。つまり食事に一定のこだわりを持つということは人生の楽しみを増やすことになるからだ。
だから『食通を気取る』なんて書き方をしたが、思い当たる人は気を悪くしないでほしい。
ボク自身もどちらかと言えば『食通を気取る』人間だからだ。
ああ。
もちろん気取っているだけで本物の『食通』ではない。
塩味を重宝しがちな『自称、食通』のボクを含めた大多数。
でもちょっと考えてみてほしいのだ。
なぜ塩味なのかを。
答えは『食材の味を生かした味付け』だからだ。
ただ、最近その考え方はちょっと違うのではないかと思うようになってきた。
というのもマヨネーズにしてもソースにしても、かける料理によって明確に味が変わるからだ。
ツナマヨネースを食べるのとマヨネーズだけ食べるのとでは違うし、とんかつにソースをかけるのとアジフライにソースをかけるのとコロッケにソースをかけるのと、ソースだけで食べるのとでは明らかに味が違うではないか。
だから、ここ最近ではコロッケにはソースをかけて食べることも多くなっている。
もちろん何もつけないで食べるのも美味しい。
食べるものを語るということは、そういう自由なところが面白いのである。