国王の危急
聖獣暦1309年。龍笛の国の王が、毒に倒れたのだ。
その報せを受けた王族達は、一斉に城の王の寝室に集まった。
「国王陛下は、おそらくミスリヤの葉にお倒れになったのかと」
王付きの侍医に言われ、アルドは驚愕と衝撃で気が遠くなった。
ミスリヤの葉は、猛毒だ。けれど、ただの猛毒では無い。致死毒なのだ。しかも厄介なのは、ミスリヤは遅延性の毒で、体内に入ってから数時間、または一日以上経たないと症状が出ない。
犯人も分からず、必ず標的を殺す事が出来る猛毒。それがミスリヤで、その名の由来は〈知られざる死神〉からきているとされる。
だが、アルドが衝撃を受けたのは、それだけが理由では無かった。
ミスリヤの葉が生えるのは、たった一ヶ所とされている。それが、〈黒海の森〉。しかもそこは、彼の〈医神ノ一族〉が拠点の一つとしている場所なのだ。
(このままじゃ、フィアーテとイレーネ様が、疑われる・・・!)
あの二人が王の暗殺を企む事は、天地がひっくり返っても有り得ない。という事は、これは誰かの陰謀なのだ。王と、あの第四妃の母娘の両方の存在を邪魔に思っている誰かの。
「ミスリヤの葉を使ったという事は、誰の仕業かは見え透いているじゃありませんか」
寝室の中にいる一人、アルドの母、后サリアが、神経質な声で言った。
「母上・・・!」
諌めようとする息子を無視して、サリアはここぞとばかりに声を張り上げる。
「ミスリヤは死神の毒。そんな毒が生えるのは、ただ一つ、かの〈魔女ノ一族〉が棲む黒き森だけでしょう」
魔女ノ一族。〈医神ノ一族〉の忌み名で、龍笛の国等、彼等に好意的で無い国のみで使われるそれに、アルドは顔を顰めた。そして、母に気付かれない様にフィアーテやイレーネの方を気遣わしげに見詰める。
その視線に気付いたイレーネが、静かに首を振った。気にするなという意味なのだろう。
確かに、ここでアルドがイレーネを庇ったところで何にもならない。むしろ、母に自分がイレーネやフィアーテと親しくしている事を勘付かれてしまうかも知れない。
危険な橋を渡るより、母の気が済むまで好きなだけ言わせておいた方がマシかも知れ無い。第一、この場にいるほとんどの王族が、犯人はイレーネだと決め付けているだろう。
「確かに・・・あの方は、先日離宮に移されてばかりだったし・・・」
后の言葉に、他の妃達も賛同の言葉を口にし始める。
(これだから・・・これだから嫌いなんだ、貴族なんて!)
歯を食いしばって、何とか怒鳴りたいのを我慢する。すると、侍医の一人が、王が目覚めた事を知らせた。
皆が一斉に寝台の傍に近寄る。天蓋の下にいる王は、随分と顔色が悪くなっていた。
侍医の中で最も老いた男性、つまり筆頭侍医が、重苦しい声で言った。
「王の容態は、一刻を争う状況です。今日の夜、狼の刻までに薬草が手に入らなければ、おそらく・・・」
その場の人間が、アルドを含め一様に蒼褪めた。
「や、薬草とは・・・! 薬草とは、一体何なのです!」
第五妃が問うた。
「それは、セインの花ですが・・・。この花は、ミスリヤと同じく〈黒海の森〉にしか生えない貴重な草花でして、あるとすれば彼の森に入ってまで薬草を入手する事を厭わない、隣国、〈大剣の国〉かと・・・」
「た、大剣の国ですって! 冗談ではないわ、彼の国に恩を売られるなんて」
龍笛の国と大剣の国は、お互いに文と武の超大国として、犬猿の仲なのだ。
「ですが、王の御命を救うにはそれしか手段が・・・」
「あるじゃないの。ここに、〈黒海の森〉を知り尽くしている者が、いるじゃない!」
「な、何を仰っているのです!」
イレーネを指差した第五妃に、アルドは非難の目と声を向けた。相手が王太子である為に、第五妃は少し怯んだ様に口をつぐんだ。
「イレーネ様は他ならぬ王族の一員! それに、貴女よりも身分の高い王族であられる! その御方に、あろうことか〈黒海の森〉に入れと? この王城より〈黒海の森〉まで、どれだけの距離があると思われる? 女性の身でそれは無茶だ!」
その場にいるアルドとフィアーテ、それにイレーネを除く全ての王族が、アルドの発言に目を見開いた。皆、第一王子であり正妃の息子、正統なる王国の後継者が、異端の妃を庇うとは思っていなかったのだ。
「アルド殿下。私如きの為に、そこまで仰って頂く必要はありません。それに、私もまた、陛下の妃の一人です。陛下の為に、何としても薬草を取って参りましょう」
「イレーネ様っ?」
自ら申し出たイレーネに、アルドも彼女の娘も驚いた。フィアーテは、不安そうな顔で母を見詰める。
「そ、そうよ。ほら、アルド殿下? 本人がそう仰ってるのですから、行かせれば良いではありませんか」
ここぞとばかりに第五妃が口を開く。
それに、反対する者などここにはいない。アルドも、イレーネ本人がそう言ってしまった以上、庇い様が無かった。」
それから、イレーネは、たった一人で黒海の森に入ろうとした。だが、それを焦って止めたフィアーテも付いて行く事になり、二人だけの旅となってしまったのだった。
王太子という身分から、フィアーテの様に付いて行く事が出来ないアルドは、出来る限りの直属親衛隊を彼女等に付けたのだった。
「母様、セインの花とは、一体どういった薬草なの?」
「セインの花は、とても小さな青色の花よ。そうね、フィアーテの親指位の大きさかしら。だから、群生しているものを見付けなければ、とてもじゃないけれど薬は作れないの。でも、群生しているものは、今はとても少ない。だから、はい」
優しく笑うと、母はフィアーテの掌に、冷たい物を置いた。
見ると、白磁の陶器だった。小ぶりで、幼いフィアーテの掌より少し大きい程度。つやつやとした表面を、何度も撫でながら、フィアーテは目で母に問うた。
「これはね、セインの花を見付けたら、この中に入れて、一杯になったら鷹に託す為のものよ。中もちゃんと消毒されているから、セインの花をここに入れなさい」
にこりと笑って言うイレーネは、フィアーテの持つ陶器から、木で出来た栓を抜きながらそう説明してくる。
「・・・解った」
こくりと頷くフィアーテは、まだ黒海の森の薄暗さに恐怖は感じていなかった。それに気付いたイレーネは、フィアーテに松明の一つを渡すと、分かれ道の右側を指差した。
「良い? 私は左へ、あなたは右へ、それぞれ花を探しに行きましょう。半刻が過ぎるまでには、ここに帰っていらっしゃい」
まだ日は完全に沈みきっていないから、それ位の時間は容易に測れる。
「うん。きっとたくさん、花を見付けてみせるね、母様」
力強く宣言すると、イレーネはとろけそうな笑みを浮かべ、そして足早に奥へと進んで行ってしまった。
「やってみせる! 母様の為にも」
父親の容態よりも、フィアーテにとって優先するべきは母の立場だった。ここでセインの花を必要なだけ容易して、父に解毒薬を持っていければ、少なくとも一時的には母の立場は安定する筈。
たった十歳と雖も、それ位は理解しているフィアーテだった。
松明の橙色の優しい光に照らされて、中から見る黒海の森は、そう不気味な物でもなかった。森の中にいると噂される、恐ろしい黒羽に赤い目を持つという鳥もいなかったし、特に猛獣が出る気配もしなかった。
更に、事態はフィアーテにとって喜ばしい事続きとなった。
「わぁ・・・」
ある程度道を行った頃、青い光を放つ神秘的な小さな花が、群生している場所があったのだ。思わずその神々しさに見惚れてしまったフィアーテは、暫くしてから目的を思い出し、陶器の栓を抜いた。
小さな滑らかな穴に、小さな花を摘んでは入れていく。小瓶程の陶器の入れ物が一杯になる程入れても、花は一向に減らなかった。
そんな、理想通りの環境があった事に感謝しながら、フィアーテは来た道を戻って行く。けれど、そんな彼女の道を、塞ぐものがあった。
「やっぱり、人生って幸運続きにはならないか」
そんな風に、落ち着いて冷めた文句を言えた自分に、彼女は後から感心した。
「こりゃまた、随分と外見と口が合わないお姫様がいたもんだな」
彼女の小さな小さな呟きを聞き取った、恐るべき聴力を持つ「道を塞ぐもの」の一人が言った。
「成程。だから依頼主はあんなにこの娘の暗殺に執着していたのか」
暗殺。
初めて聞く単語では無いけれど、権力とは縁の無い生活を送っている自分には、とてもじゃないが似合わない単語だ。
そう思いながらも、彼等が冗談で言っているのでは無いと分かる。あからさまに刺客です、と宣言している様な全身黒尽くめの格好に、覆面。むしろ、この姿で仮装大会を連想する方が、頭がおかしい。
「もしかして、サリア様の子飼い・・・とか」
「ワオ。こりゃ本当に、頭がイイみたいだな。本当に十歳か?」
「だからこそ、王太子の邪魔になるかも知れないのだろう。まあ、あの王太子も優秀らしいから、だとするとやっぱり、自分の娘より目立つのが恨めしいってとこか?」
刺客達が好き勝手に言う。フィアーテは、その間、どこかに隙は無いかと探ったりは出来なかった。いくら頭が良くても、そこまでの度胸は持ち合わせていないのだ。
それでも、何とか身体が震えない様にと、掌を爪が食い込む程強く握り締めた。
「でもま、ぐだぐだ話している暇は無いんだ。悪いが、ここで死んでもらうぜ、お姫様」
刺客が、すっと腰に佩いた剣の柄に、手をかけた。音も立てずに抜かれた片刃の剣に、フィアーテの身体が痙攣した。
その時だった。
「フィアーテっ!」
母が、今まで聞いた事も無い、大声で自分の名前を呼んだ。その顔には、鬼気迫った険悪な表情が浮かんでいる。
「私の娘に手を出すのなら、まず私を殺してからになさい!」
怒鳴った母は、衣の裾を華麗に捌きながら、恐れもせず刺客達に寄って行く。
「素晴らしい親子愛だな。いいだろう、まずはお前から殺してやるよ、心優しきお妃様」
刺客の持つ刃が、母に向けられる。彼等の注意が娘から逸れた瞬間、イレーネは娘に叫んだ。
「フィアーテ! このまま、とにかく森の奥へ走りなさい! そうすれば、きっと我が一族が助けてくれる。道は、森が自然と導いてくれるわ!」
刺客さえも気迫で圧倒される程の、母の言葉。それに、フィアーテはただ頷いた。
「行きなさい」
柔らかに微笑む母の瞳に、フィアーテはこの事態の結末を見そうな気がして、慌てて目を逸らした。そのまま、母の言い付け通り、森の奥へと走って行く。セインの花を踏み付けてしまったが、そんな事は気にならなかった。
随分と長く走ってから、自分のずっと後ろの方で、誰かの叫び声が聞こえた気がして、フィアーテはその場で蹲り、ぎゅっと両耳を塞いだ。
それから、そっと手を耳からのけると、もう何の音もしなかった。松明も先程のセインの群生地に置いて来てしまったから、何の灯りも無い。ほとんど沈みかかった夕陽だけが、太陽の断末魔の様に真紅の光で空を染め上げていた。
「母様・・・」
母がどうなったかなんて、考えたくも無い。けれどもフィアーテは、あの場から逃げてしまった自分が、何よりも恥ずかしかった。いくら命が危ないからと言っても、母を楯に逃げるなんて。
自然と、紫の瞳から涙が零れた。
(どうして・・・? どうして、后はこんな事を、私達にするの?)
自分は、ただの第四妃の娘だ。彼女の息子であるアルドの障害になる事は、絶対に無い。后が何度もしつこく言うから、母は大人しく王宮から出て行ったのだ。なのに、どうしてここまでされなければならないのか。
「ひどいよ・・・私が、母様が、何をしたというの・・・?」
滂沱と涙を流すフィアーテの上で、何かの羽音がした。先程の刺客を思い出し、身を竦めるも、恐ろしい気配は何もせず、そっと瞼を上げる。すると、目の前に大きな鷹がいた。
「もしかして・・・これを取りに来たの?」
陶器を見せると、鷹は自分の足を差し出した。毛織物の袋が結び付けられている。
「自分が殺そうとする相手から、薬だけは取り上げようって言うの? 本当に身勝手ね」
どうしようもない憎悪が、フィアーテの胸の奥底から湧き上がる。胸の中に、陶器を投げ捨ててしまおうかという考えが浮かんだ。だが、その考えは、アルドの顔を思い出し打ち消される。
誰よりも自分を思ってくれていた義兄を、悲しませる事はしたくなかった。
フィアーテは、鷹にセインの花を託した。
「さよなら、龍笛の王国。もう二度と、戻る事は無いわ」
忌まわしい記憶が残る、母国になど。




