文官アネットは、あの日、罠を踏み抜かずに通り過ぎた
『平民アネット 文官を目指す』に入れられなかった指輪の話です。
王宮付属の植物園。
ここは一般市民にも開放されていて、誰でも自由に入ることができる。中でも人気なのはバラ園だ。真冬の一時期を除き、いつでも色とりどりのバラが咲いている。
アネットも住んでいる寮から近いので、折に触れ散策を楽しんでいる。
ある日、アネットが植物園から出てきたところで、派手な髪型の女性に呼び止められた。文官の制服を着ている。
「ねえ、あなた、確か文官試験を受けていたわよね。文官になっていないということは不合格だったんでしょう? なぜここにいるの」
アネットも彼女のことを覚えていた。試験会場で、髪型と服装がひと際派手で目立っていたからだ。あんなに色々盛り付けるとは、さぞかし朝の身支度が大変だろうと感心してしまった。
それはさて置き、質問に答えなくては。
「文官試験は来年また挑戦します。実家が遠くて往復する時間とお金がもったいないので、このまま王都にいるつもりです」
アネットがそう説明すると、貴族とおぼしき令嬢は、
「まあ、では、来年また試験を受けるのね。無駄じゃないかしら。高望みするより、分相応なところに落ち着く方が幸せよ」
などと善意を装って言われた。人の幸せを勝手に決めないでほしい。アネットは思わず、
「自分の幸せは自分で決めます」
と言ってしまった。
令嬢は冷たい微笑みを浮かべ、
「そういえば先ほど私、この奥のバラ園に行く途中で、エメラルドの指輪を落としてしまったようなの。探してきてくださる?」
と言い、アネットの返事もろくに聞かず、お願いね、と言って立ち去ってしまった。
「なに、あれ。嘘でしょう? 名前も知らないんだけど。貴族って、怖っ!」
アネットは、令嬢の後ろ姿を呆然と見送った。
「まあ、お貴族様に逆らうのは得策じゃないよね。仕方ない、形だけでも探してみるか」
アネットは諦めて、さっき出てきたばかりの植物園に向かった。
「それにしても、エメラルドって何? 指輪って言ってたから、宝石の名前だよね。宝石なんて、地元の山奥で採れる水晶くらいしか知らないのに。せめて色が分かれば探しやすいんだけど」
アネットは想像もつかない指輪を探しに、バラ園までずっと下を向いて歩いた。
下を向いてはいたが、あんな雑な依頼を忠実にこなすのはバカらしくて、アネットはよそ事を考えながら、芝生の上や、植栽の根元を覗き込む振りをして時間をつぶした。
― 明日の寮の掃除はどこから始めるんだっけ?
― そうだ、管理人のおじさんに計算を頼まれてることがあったっけ。
そんなことを考えていたので、たとえ視線が指輪の上をなぞったとしても、アネットの意識にまで到達しなかったであろう。
アネットは何度か通り道を行き来し、薄暗くなるまで時間をつぶしたが、とうとう指輪の発見には至らなかった。
「よし、これで義理は果たした。そもそも命令される筋合いがないんだよね」
そう独り言をつぶやきながら身体を起こした拍子に、通りががった宰相室のカミングスが持っていた書類箱に、アネットは勢いよく頭をぶつけてしまった。
「痛っ!?」
思わず頭を抱えてしゃがみこんだ。
この時アネットが目を開けていたら、ちょうど目の先50センチほどの芝生の上に、エメラルドがついた指輪が転がっているのが見えただろう。
しかし、目を瞑って痛みをこらえていたし、その直後にばらまかれた書類のせいで、アネットが指輪を発見する機会は失われてしまった。たとえ目を開けていたとしても、緑の芝生にグリーンのエメラルドでは、見つけることが難しかっただろう。そもそも薄暗いし、状況的にもそれどころではなかった。
そしてそれは、アネットにとって、実に幸運なことであった。
遡ること一時間と少し前、文官の制服を着たある貴族の令嬢が、バラ園の入り口近くに来て、植栽の根元にエメラルドがついた銀の指輪を転がした。父から十歳の誕生日にもらったものだった。今では指にはまらないのだが、ペンダントトップとして使うことがあった。それを見ると父が喜ぶからだ。
その思い出の指輪をそこに転がしたのには訳がある。とある女性に拾わせて、盗んだという冤罪を着せるためだ。
平民は貴族の命令に逆らえない。これを見つけさせ、届け出たところで盗みの犯人に仕立て上げよう。
この令嬢にとって、アネットという平民の少女は、貴族である自分の価値を脅かす存在だった。令嬢は自分より明らかに優秀な平民を排除したかった。多少強引な手を使っても、侯爵である父が何とかしてくれると信じていた。
彼女は、アネットが数日後には盗みの罪に問われ、もう二度と文官登用試験を受けることができなくなるだろうと考えて、夜が明けるのが待ち遠しくてたまらなかった。
しかし、そんな夢見た日は、永遠に訪れないのであった。
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