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疑神暗鬼  作者: 宵町文
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第1話:静寂の不協和音

セレニティ。そこは、「神の祝福」による完璧な秩序と、永遠の平和が約束された都市。市民は幸福であり、疑問を抱くことさえ罪とされる。


だが、全ての「秩序」は、必ず巨大な「隠蔽」の上に築かれている。


この物語は、閉ざされた世界で、一人の司書が偶然見つけた古文書の「疑念」から始まる。その探求は、「神」の正体が「暗」黒の犠牲の上に成り立つ古代技術であることを暴き出す。真実の光が灯されたとき、市民は互いに「疑」を抱き、やがてその心から「鬼」が生まれる。


問う。あなたを恐怖させるのは、冷たい技術か。それとも、人間の心か。


偽りの調和が崩壊し、真実の星空が広がるその時まで、この逃走劇に終わりはない。

Ⅰ.完璧な調和と不協和な心音

都市国家セレニティの空は、いつも同じ色の人工光に満たされていた。それは、数百年にわたる「神の祝福」の証であり、変動や不確実性とは無縁の、完璧な秩序の象徴だ。今日の儀式、「神への感謝祭」は、その秩序が一年で最も厳格に、そして神聖に保たれる瞬間だった。


資料館の司書、アサヒは、最上階の窓辺に立っていた。彼の日常は古文書と紙の匂い、そして静かな整理作業に満ちている。だが、今日の彼の心は、その静謐な日常から大きく逸脱していた。


彼の視界に広がるのは、中央広場に集結した数万の市民の姿だ。皆、白いローブに身を包み、老いも若きも、感情の波紋を起こすことを知らない。彼らはただ、微かな微笑みを浮かべ、規律訓練の賜物か、その列には寸分の乱れもない。都市全体が巨大な呼吸を合わせたかのように、完全な静寂に支配されていた。


アサヒは、この静けさが耐え難かった。それは平和の証ではなく、まるで巨大な生物が息を止めているかのような、底知れない人工的な静けさだったからだ。彼は、この調和の裏側に、どこか恐ろしい欺瞞が隠されているのではないかという「疑念」を、長年心の奥底に抱え続けていた。その疑念は、彼が司書として扱う「歴史」の公式記録と、彼自身の論理的な直感との間に生じた、埋めがたい亀裂から生まれたものだ。


広場に設けられた壇上に、白い金糸の神官服を纏った神官長ヴァルナスが姿を現した。彼は都市の絶対的な支配者であり、市民の誰もが敬愛と畏怖を抱く存在だ。ヴァルナスは市民と同じ穏やかな微笑みを浮かべているが、その双眸だけは、感情を排した氷のような冷徹さを宿していた。彼の顔は、完璧な秩序を体現しているがゆえに、どこか人間的な暖かさを欠いていた。


ヴァルナスがマイクに近づき、その口を開く、その瞬間だった。


アサヒの耳に、都市の重厚な防音壁を貫通し、頭蓋骨を直接揺さぶるような規則的な低周波の振動音が聞こえ始めた。


ドゥン、ドゥン、ドゥン。


それは、神官団が公には存在を否定してきた、セレニティの全機能を支える地下動力炉の「不協和音」だった。市民たちはそれを「日常のノイズ」として処理し、聞き流すように訓練されている。だが、アサヒにはそれが、まるで餌を求める巨大な獣の心臓の鼓動に聞こえた。


そして、その鼓動は、彼が昨日、封印区画から密かに写し取った古文書の一文と、恐ろしく重なり合ったのだ。


「神は常に飢えている」



Ⅱ.閉所の叫びと鍵穴の真実

「飢えている?何に?なぜ、この完璧な世界で?」


アサヒの額に冷たい汗が滲んだ。ヴァルナスの演説が続くが、アサヒの感覚は全て、その「飢えた心臓の鼓動」に奪われていた。彼はたまらず、広場から背を向けた。今日、彼はこの不協和音の源、そして古文書の真意を再確認しなければならなかった。彼の足は、資料館の中でも最も暗く、冷たい区画――封印区画へと向かう。


通路は狭く、照明は弱々しい。空気は澱み、湿っている。アサヒの背中には、冷たい恐怖が張り付いた。彼は重度の閉所恐怖症を患っていた。空間が狭まるほど、呼吸が浅くなり、思考がまとまらなくなる。体が本能的に逃走を叫んでいる。しかし、真実を求める「疑念」は、その生存本能すら凌駕していた。


彼のこの探究心は、かつて両親から「都市の調和を乱す」と戒められたものだった。しかし、目の前の扉の向こうに、セレニティの「暗」黒の核心があるという確信が、アサヒを一歩、また一歩と前進させた。


彼は震える手をポケットに突っ込み、マスターキーを握りしめた。このキーは、アサヒの職務上、資料館の全区画を開ける鍵である。しかし、神官団が管理する最重要区画の扉は、独自の生体認証と厳重なコードが必要なはずだ。


アサヒは、ヴァルナスが封印を解いた後の記録を偶然見ていた。その記録には、封印された扉に、通常は隠されている古い鍵穴が露出していたことが示されていた。アサヒは、その鍵穴に、意を決してマスターキーを差し込んだ。


カチリ、と、金属が噛み合う意外なほど小さな音。鍵は、何の抵抗もなく深く入った。アサヒの心臓が激しく脈打つ。それは、神官団の警備が甘かったということではない。まるで、この扉が、彼のために開かれる運命にあったかのように。



Ⅲ.闇とノイズの具現化

アサヒは、喉の奥から込み上げてくる嘔吐感を抑えながら、ゆっくりと鍵を回した。古い機構が軋む音が響き、扉は重い溜息を吐き出すように、わずか数センチ開いた。


その隙間から噴き出したのは、漆黒の闇だった。それは光を吸い込む別の空間が広がっているかのように、通路の微かな光すら飲み込んだ。鉄と油、そして何かが燃えるような、焦げ付いた異臭がアサヒの鼻腔を突き刺した。


そして、あの動力炉の鼓動音が、今度はすぐ足元から、轟音となって聞こえてきた。ドゥン、ドゥン、ドゥン。


その鼓動に混じって、アサヒの耳が捉えたのは、機械音ではない、断続的な「人の唸り声のようなノイズ」だった。それは、何かが、あるいは誰かが、極度の苦痛に耐えているような音だ。


アサヒの全身から、血の気が引いた。動力炉とは、本当に生き物なのか?そして、「感謝祭」とは、神への感謝ではなく、この動力炉の飢えを満たすための儀式なのか?古文書の「飢えている」という言葉が、生々しい現実となって襲いかかった。


視界が歪む。漆黒の闇が、彼の閉所恐怖症を弄ぶかのように、彼の心を押し潰す。パニック発作がピークに達した。呼吸ができない。逃げなければならない。この「暗」黒から!


彼は慌てて扉を閉め、その場にへたり込んだ。背中から滴る汗が、冷たい石の床を濡らす。彼の心臓は激しく暴れ、全身の筋肉は硬直した。


その瞬間、アサヒは微かな熱を掌に感じた。握りしめていたマスターキーが、動力炉の特定のエネルギー周波数に共鳴し、熱を帯びたのだ。彼はその事実に気づかない。彼を支配するのは、ただ恐怖だけだった。



Ⅳ.支配者の冷徹な笑顔と逃走

アサヒが何とか呼吸を整えようとしていると、通路の遠くから、均一で冷たい足音が複数聞こえてきた。


神官長ヴァルナスと、数人の神官団員だった。彼らは、儀式を終えた後の視察に来たのだろうか。ヴァルナスの顔は、先ほど広場で見た穏やかな微笑みから、無表情の仮面へと変わっていた。


彼らはアサヒの存在に気づいていないかのように、ただ厳かに封印区画の扉へと向かってくる。アサヒは、この狭い通路に逃げ場がないことを悟り、ただ震えて立ち尽くすことしかできなかった。


ヴァルナスが、アサヒの隣を通り過ぎようとした瞬間、ぴたりと立ち止まった。


そして、アサヒにだけ届くほど小さな声で、「あなたは、都市の調和を乱している」と囁いた。


その声には、人間的な怒りや憎しみはなかった。ただ、システムからのエラー報告のような、冷徹な判定だけがあった。「神の秩序」を守るという「鬼」の論理を体現した声だ。ヴァルナスは、その氷の瞳でアサヒの顔の隅々までを見つめ、冷たい、しかし完璧な笑顔を浮かべた。


「あなたのような「疑念」は、都市の安定にとって許容できないノイズです。私たちはそれを排除しなければならない」


ヴァルナスはそう言い残し、何事もなかったかのように扉へと向き直った。アサヒは、その背中から、彼自身の心の動揺、この場での極度の恐怖と「疑」が、動力炉の監視システムに異常値として検知され、彼の居場所がヴァルナスに正確に特定されたのだと悟った。


ヴァルナスと神官団員が、封印区画の扉を自らの手で開き、闇の中へ消えていく。アサヒは、この事実が彼の命を狙う「神」の仕組みそのものであることを悟った。彼はもはや、ヴァルナスを単なる支配者としてではなく、感情を持たない「鬼」として認識した。


アサヒは、恐怖に打ち勝つ唯一の行動を選んだ。シオンに連絡を取らなければならない。真実を誰かに伝えるため、そして生き延びるために。彼は再び襲い来る閉所の発作を押し殺し、恐怖と「疑」を胸に、都市の裏路地へと走り出した。彼の逃走こそが、偽りの秩序が崩壊する物語の、静かな始まりだった。

最後までお読みいただき、誠にありがとうございます。


『疑神暗鬼』は、SFディストピアの舞台設定を通じて、人間という存在の根源的なテーマを追求した作品です。


絶対的な秩序が崩壊したとき、私たちに残るのは、技術でも、権威でもなく、人間同士の「信頼」と、内面に潜む「欲望」という、極めて脆く、そして恐ろしい要素だけです。


主人公アサヒ、レイ、そしてシオンが辿った道が、読者の皆様の心に、「真実の代償」と「信頼の価値」を問いかけることができれば、これ以上の喜びはありません。


物語は、閉鎖された都市の瓦礫の中で新しい夜明けを迎えました。その後のセレニティがどのように再建されていくのか、ご想像いただければ幸いです。

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