毛糸玉と入部届
こんにちは、ほんぬです。
この作品は、私が日々感じている「編み物の温かさ」と「青春のほっこりした瞬間」を詰め込みました。
主人公の美結が編み物を通じて少しずつ成長し、周りの人とつながっていく様子を楽しんでいただければうれしいです。
どうぞゆっくり、ひと目ずつお付き合いください。
カチ、カチ──。
乾いた、小さな衝突音が廊下に漏れてくる。
放課後の校舎は、部活の掛け声やボールの弾む音で賑やかなはずなのに、その音だけはやけに落ち着いて耳に届いた。
美結は足を止め、音の出どころを探す。
古びた家庭科室のドアの隙間から、淡い西日がこぼれていた。
そっとのぞくと、窓際の机に座った一人の先輩が、棒針をゆっくりと動かしている。
二本の針が触れ合うたび、あの音が生まれていた。
手元の毛糸は桜色。春が来る少し前の空の色にも似ている。
その色を見た瞬間、美結の胸の奥に、やわらかな感触の記憶が広がった。
──おばあちゃんが編んでくれた、あのマフラー。
冬になるたび首に巻いたそのマフラーは、去年の雪の日も美結を守ってくれた。
少し毛羽立ってきたけれど、あの模様も、あの色も、何より温もりが好きだった。
「……編んでみたいな」
口の中でつぶやいたはずが、声になっていたらしい。
編んでいた先輩が顔を上げ、美結と目が合った。
切れ長の瞳が一瞬驚いたように瞬き、また静かに戻る。
「入りたいの? ……手芸部」
少し低めの声。
美結は慌てて手を振ったが、言葉はうまく止まらなかった。
「あ、その……おばあちゃんのマフラーと同じもの、編んでみたくて」
先輩は棒針を机に置き、棚から毛糸玉をひとつ取り出した。
桜色の、ふわりとした糸玉。それと二本の棒針を、美結のほうに差し出す。
「じゃあ、作り目から。……ひと目ずつでいいから」
その言葉は、ゆっくり胸に染みていった。
編み方なんて知らないけれど、不思議と怖くはなかった。
作り目──と呼ばれる最初の一段をつくるだけで、想像以上に時間がかかった。
指に糸が引っかかったり、ループがねじれてしまったり、針が毛糸からすぐ逃げたり。
何度もやり直しては、桜色の糸玉が机の上で少しずつほどけていく。
「糸、強く引きすぎない。……そう、ふんわり」
紗耶先輩は、短くアドバイスをくれる。
声は淡々としているけれど、その手つきは驚くほど優しかった。
美結はその横顔を盗み見て、ほんの少しだけ背筋が伸びた。
西日が机の上をゆっくり移動し、針先と糸を淡く照らす。
やっと数目進んだ頃、チャイムが遠くで鳴った。
「今日はここまで。……続きはまた明日」
針を置いた紗耶先輩は、机の引き出しから紙を一枚取り出す。
「これ、入部届。……書いてもいいし、書かなくてもいい」
美結はペンを持つ代わりに、作りかけの編み地をそっと見つめた。
まだ始まったばかりの不揃いな編み目たち。
でも、それがなんだか愛おしい。
「……これ、完成したら出します」
そう言って笑うと、紗耶先輩もほんの少しだけ、口元をゆるめた。
放課後の家庭科室に、またカチ、カチと小さな音が響く。
ひと目ずつ、少しずつ。
美結の放課後は、静かに編み始められた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
初めての棒針編みに苦戦する美結の姿、共感してもらえたらうれしいです。
次回も彼女の編み物日記をお楽しみに。
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