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レトロウィルス

ep.9 レトロウィルス


ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会での激しい銃撃戦は、彼らにとって死と隣り合わせの経験だった。しかし、望月の援護、椎名の機転、そして真木の正確な情報収集能力が、彼らを危機から救い出した。夜の闇に紛れ、彼らは辛くも教会からの脱出に成功。ジョン・ドーの協力の下、厳重な警備をすり抜け、彼らの拠点である日本の隔離された施設へと無事帰還した。

銃創と疲労が残る体を引きずりながらも、彼らの心は、回収したデータと、迫りくる800日の終末への焦燥で満ちていた。休む間もなく、次の段階へと移行する。

公安特殊技能部の作戦室は、再び緊迫した静寂に包まれていた。真木希は、メインモニターの前に座り、ミラノで命がけで回収した『最後の晩餐』の3Dスキャンデータと、椎名が持ち帰ったミレニアムの小型サーバーの解析に没頭していた。

「まず、壁画のスキャンデータから始めます」真木は、疲労を押し殺した声で告げた。「あの時検出された、光を放つ微細な点と、それが形成する奇妙な幾何学模様…あれが何なのかを突き止めます」

彼女の操作により、高精細な3Dモデルがモニター上に構築されていく。まるで本物がそこにあるかのような、精緻な壁画の複製が、デジタル空間に再現された。真木は、それを様々な角度から回転させ、光の波長を調整し、そして何よりも、仮想的な「断面」を作り出し、その内部構造を詳しく探り始めた。

壁画の表面はあくまで平面の絵だが、3Dモデルの断面を深く探っていくと、絵の具の層のさらに奥に、驚くべきものが現れた。それは、ダヴィンチが描いた絵の背景に隠された、信じられないほど複雑な、機械的な構造だった。

「これは…!」真木の声に、興奮と確信が混じった。「絵の背後に、物理的な隠し区画があります!しかも、ただの空間じゃない…精密なギアと、小型の動力源、そして、データで確認した『光る点』と一致する部分に、微細な接点のようなものが確認できます!」

モニターに映し出された断面図は、壁画の背後に巧妙に隠された、まるで時計の内部のような、微細で複雑な機構を示していた。それは、絵の一部として完全に統合されており、絵画の保護・修復の過程でも、決して発見されることのないよう設計されていた。

「レトロウィルスを起動させるトリガーか…」椎名が呟いた。「あるいは、そのウィルスそのものが、この機構の中に隠されているのか…?」

黒田部長とジョン・ドーの顔にも、驚きと、この発見の重要性を理解する表情が浮かんだ。カステッリは、この神聖な場所が、単なる隠れ家ではなく、ヴォルコフの「終末」の重要な「装置」そのものが隠されている場所であることを示唆していたのだ。

日本に戻った公安特殊技能部の作戦室は、ミラノでの激しい銃撃戦の痕跡をわずかに残しながらも、次の段階へと進んでいた。真木希は、『最後の晩餐』の3Dスキャンデータから見つかった、壁画の背後に隠された奇妙な機械的構造と、光る点が織りなす幾何学模様の解析に没頭していた。その隣では、椎名遼が、命がけで回収したミレニアムの小型サーバーのデータ解析を進めていた。

真木は、モニターに表示されたその複雑なパターンを様々な角度から検証し、何度も拡大・縮小を繰り返していた。その微細な点の配置、光の強度と周波数の変化…それは、単なる物理的な回路図には見えなかった。彼女の直感が、ある恐ろしい可能性を囁いていた。

「もしかして…」

真木の呟きに、黒田部長、椎名、望月、そしてジョン・ドーの視線が集中した。

「このパターンは、単なる制御システムの図形ではないかもしれません。これは…特定の物質の化学式、あるいは、さらに踏み込んで、レトロウィルスを生成するための、分子レベルの設計図なのでは…?」

その言葉に、室内の空気が再び凍りついた。レトロウィルスにワクチンはない。それが、ヴォルコフが隠し持つ最後の、最も恐ろしい武器だった。もし、この壁画にその設計図が隠されているのだとしたら…

「レトロウィルス作成の…?」椎名が、信じられないという顔でモニターを凝視した。

「あのウィルスは、自然発生したものではない。ミレニアムのAI『ガレリオ』、あるいはヴォルコフが作り出した、完全に人為的なものだと考えられます。その設計図を、ダヴィンチの傑作という、最も人の目に触れるがゆえに、最も見破られない場所に隠した…まさしくヴォルコフの犯罪クリエイターとしての発想です」

真木は、そのパターンを、自身の持つ生体化学モデリングソフトウェアと、暗号解読プログラムに次々と入力していった。光の点の配置、それぞれの光の強弱、そしてそれらが繋がる線が、DNAの塩基配列や、タンパク質の立体構造を表す記号へと変換されていく。

「組み立ててみます…この幾何学模様が、もし特定の分子構造を隠喩しているのなら、それを逆算して、実体化させます」

彼女の指が、キーボードの上を猛烈な速さで駆け巡る。複雑な計算が実行され、モニターには、徐々に、これまで見たこともない、しかし、恐ろしく精緻な分子の立体構造が形成されていった。それは、生物学の常識を覆すような、悪魔的な美しさを持つ構造だった。

この構造が、あの「ワクチンがない」とされるレトロウィルスの正体なのだろうか。

真木希が『最後の晩餐』の壁画から「組み立てた」ものは、まさしく悪夢だった。モニターに表示されたのは、極めて複雑で、しかし完璧な論理を持つ、レトロウィルスの分子構造の設計図。それは、自然界には存在し得ない、完全に人為的にデザインされた生命の破壊者だった。その構造は、特定の細胞受容体への結合効率を最大化し、免疫系の認識を巧妙に回避するように設計されており、なぜ「ワクチンがない」のかが瞬時に理解できた。

「これが…ヴォルコフが人類に贈る、『最後の晩餐』か」椎名遼が、青ざめた顔で呟いた。

黒田部長は、その恐るべき設計図を凝視した。この情報を手に入れたことは大きい。だが、どうすればこの情報を活かせるのか。

「このウィルスは、ミレニアムのAI『ガレリオ』、そしてヴォルコフの天才的な狂気が生み出したものだ。我々がそれを止めるには、その特性を完全に理解し、対抗策を見つける必要がある」

その時、望月が言った。

「部長、この情報、生物兵器の専門家に解析させるべきです。私たちができることには限りがある」

黒田部長は、ジョン・ドーと目を合わせた。その言葉に、彼らの次の行動が決定される。

「ジョン・ドーさん、このデータを…アメリカの**CDC(疾病対策予防センター)**に持ち込むことは可能でしょうか?」

ジョン・ドーの表情が険しくなった。

「CDCか…それも、極めて危険な賭けになる。アメリカ政府の一部がこの計画に関与している以上、情報が筒抜けになるリスクがある。我々が接触できる人間も限られる」

「しかし、他に選択肢はありません」真木が冷静に言った。「このウィルスは、時間が経てば経つほど、我々の理解を超えて進化する可能性もある。ワクチンがない以上、せめてその活動を抑制する方法、あるいは、ウィルスの増殖を阻害する薬剤の開発を、一刻も早く始めなければ」

ジョン・ドーは、深く考え込んだ後、ゆっくりと頷いた。

「わかった。私には、CDC内部に、極めて信頼できる旧知の友人がいる。彼も、この国の現状に危機感を抱いている。しかし、彼らは政府の最高機密レベルの壁に阻まれている。このデータが、彼らを動かす決定的な証拠となるだろう」

彼は、黒田部長の目を見つめた。

「しかし、私自身が同行することはできない。監視が厳しすぎる。データは、最も安全な方法で、あなた方が直接届ける必要がある。そして、万が一、その情報がミレニアム側に漏れれば、あなた方だけでなく、我々の計画全てが露呈することになる」

レトロウィルスの設計図という、人類滅亡の青写真。そして、それを阻止するために、アメリカ政府の「嘘」をくぐり抜け、CDCという新たな牙城に、命がけで情報を届けるという、絶望的なミッション。

椎名遼は、引き続きミレニアムの小型サーバーの解析を進めていたが、真木が持ち帰ったこの設計図は、彼らの次の行動を、明確に示した。800日。刻々と迫るその時までに、彼らはワクチンなきレトロウィルスに対抗する術を見つけ出せるのだろうか。

真木希が『最後の晩餐』からレトロウィルスの設計図を解読し、CDCへの情報伝達が次の重要な課題となる中、もう一つの緊急の任務が、椎名遼の肩にかかっていた。ミラノで命がけで回収した、ミレニアム製の小型サーバーの解析だ。

椎名は、作戦室の一角に設置された厳重なシールドに囲まれた解析ブースで、その黒い筐体と向き合っていた。外見はごくシンプルだが、内部に秘められた技術は、彼がこれまでに見てきたどの国家機関のセキュリティシステムよりも遥かに高度だった。

「…これは、一筋縄ではいかない」

椎名の声には、苛立ちが混じっていた。

「内部のデータにアクセスしようとすると、複数の層で保護された暗号化と、動的な認証プロトコルが作動します。まるで、生きたシステムに触れているようだ」

彼の指がキーボードを叩き、解析ツールが様々な手法を試す。しかし、サーバーは微動だにせず、堅固な沈黙を守っていた。

「そして、最も厄介なのは…」椎名が、モニターに表示された警告メッセージを指し示した。「強制的に開けようとすれば、または認証に失敗すれば、自動的にこちらの居場所を特定し、ミレニアムに位置情報を送信するようプログラムされています」

それは、回収されたサーバーが、一種のおとり、あるいはトラップとして機能していることを意味していた。ミレニアムは、自らの機密情報が奪われる可能性を予期し、それを逆手にとって、彼らの秘密の拠点を見つけ出そうとしていたのだ。

「つまり、下手に手を出せば、我々の安全な拠点が、奴らに筒抜けになる、と…」黒田部長が、重い声で言った。彼らは、ジョン・ドーの協力の下、あらゆる監視網をかいくぐってこの作戦室に身を潜めている。その居場所が敵に知られれば、一巻の終わりだ。

「その通りです」椎名が答えた。「迂闊にアクセスすれば、ミレニアムの追っ手が、たちまちここへ押し寄せてくるでしょう」

このサーバーは、ミレニアムのシステム全体の核となる情報を持っている可能性が高い。隕石の最終的な軌道変更データ、レトロウィルスの最終的な発動プロトコル、あるいはミレニアムの他の拠点の情報など、人類を救うために不可欠な情報が詰まっているかもしれない。しかし、その扉を開くことは、自らの命綱を切る行為に他ならなかった。

真木がレトロウィルスの設計図を解読し、CDCへの接触が急がれる一方で、椎名の手元にあるこのサーバーは、彼らにとって、まさに「開かずの扉」と化していた。

真木希が解読したレトロウィルスの設計図は、ヴォルコフの計画の恐るべき全貌を明らかにした。しかし、椎名遼の手元にあるミレニアム製の小型サーバーは、その解読を阻む鉄壁の扉となっていた。不用意に開けば、彼らの隠れ家がミレニアムに露見する。だが、そのサーバーには、隕石の最終軌道データ、あるいはレトロウィルスの直接的な制御プログラムなど、人類を救うための決定的な情報が隠されている可能性があった。

「これは…どちらを選んでも、危険な橋を渡ることになる」

黒田部長は、サーバーを前に、苦渋の表情で呟いた。解析を諦めれば、決定的な情報を見逃すかもしれない。しかし、解析を強行すれば、拠点だけでなく、彼ら自身の命も危険に晒される。

その時、椎名が口を開いた。

「このサーバーの構造を詳しく調べて分かりました。これは、単なる情報貯蔵庫ではない。おそらく、レトロウィルスを特定地点で起動させるためのトリガー、あるいは、そのウィルス自体の最終的な調整を行うための端末です。つまり、ここから得られる情報は、ウィルスの無効化、あるいは発動阻止に直結する」

「もし、このサーバーを解析できれば、あのレトロウィルスに、何らかの**『穴』**を見つけられるかもしれない。ワクチンがないとされるウィルスにも、発動条件や、活動を停止させる脆弱性が存在する可能性はあります」真木が、付け加える。

黒田部長は、深く頷いた。

「ならば、選択肢は一つだ。CDCにこのサーバーの解析を依頼する。たとえリスクがあっても、この情報に触れる必要がある」

ジョン・ドーの顔にも、緊張が走る。

「…無茶な賭けだ。だが、他に方法がないのも事実。このサーバーは、ミレニアムにとって極めて重要なアセットである可能性が高い。その情報を何としても阻止したいのだろう。私が、CDCの最も信頼できる生物兵器対策の専門家…政府の監視の目から外れた、独立した研究チームに、このサーバーを託せるよう手配しよう」

しかし、問題は山積していた。

「問題は、どうやってこのサーバーを届けるか、そして、彼らがどうやって解析するかだ」椎名が言った。「私が同行して指示を出すのが最も安全ですが、私まで危険に晒すわけにはいかない。しかも、このサーバーは、遠隔からの操作でもトラップが発動する可能性があります。下手に触れば、CDCの施設自体も危ない」

「それは、私が指示を出す。そして、あなた方の情報を信じる」ジョン・ドーはきっぱりと言った。「このサーバーの輸送には、私自身のネットワークを最大限に活用する。厳重なファラデーケージに入れ、電波を完全に遮断した状態で運ぶ。そして、CDCの私の友人に、その危険性を十分に説明し、遠隔操作で解析を行うよう指示する。あるいは、ミレニアムの逆探知を回避できる、独自の隔離された環境で作業させる」

「こちらからは、サーバーを物理的に開かずに解析するための、あらゆる可能性と、万が一トラップが発動した場合の対処法を、詳細に伝達します」真木が言った。

人類の未来は、今や、一台の、決して開けることのできないサーバーと、それを解析するために命をかける名もなき専門家たちの手に委ねられた。日本からアメリカへ。罠が仕掛けられた小型サーバーを巡る、極秘の移送ミッションが、刻一刻と迫る終末へのカウントダウンの中で、開始されようとしていた。

真木希が解読したレトロウィルスの設計図は、希望の光であると同時に、ヴォルコフの計画の冷酷さを改めて突きつけるものだった。そして、椎名遼が回収したミレニアムの小型サーバーは、その秘密の扉を開けば、彼らの居場所が暴かれるという、絶望的な罠を抱えていた。ジョン・ドーは、そのサーバーをCDCの信頼できるチームに託す手筈を整えようとしていた。

その時、これまでウィルス設計図の再確認に没頭していた真木が、静かに口を開いた。彼女の視線は、サーバーの解析ブースにいる椎名へと向けられていた。

「このサーバーの解析…そして、CDCへの具体的な指示は…」

全員の視線が真木に集まる。彼女は、疲労の色を隠しながらも、明確な言葉を紡いだ。

「私より…椎名さんの方が、適任です」

その言葉は、驚きをもって受け止められた。真木は、公安におけるサイバー戦のエキスパートであり、天才的な解析能力を持つ。しかし、彼女は迷いなく、自身の専門領域であるはずのタスクを、椎名へと譲ったのだ。

「私の専門は、分子レベルの生体工学と、それに付随するデータ解析です。しかし、このサーバーは、ミレニアムの極めて高度なネットワークセキュリティと、物理的な防御機構が複合的に絡み合っています。遠隔からのアクセスや、トラップの回避、そしてCDCのチームへの指示…これらは、椎名さんの持つ、システム全体のアーキテクチャへの深い理解と、あらゆる侵入防御システムを逆手に取る洞察力が不可欠です」

真木は、椎名の能力を心から信頼していた。このサーバーの罠を回避し、情報を引き出すことは、ただのハッキングではない。相手の思考を読み、その裏をかく、高度な情報戦であり、それは椎名が最も得意とするところだった。

椎名は、真木の言葉を静かに受け止めた。彼の表情に迷いはなかった。

「了解した。このサーバーの『開かずの扉』をこじ開ける方法…ミレニアムの目を欺き、安全にデータを引き出すための手順を、CDCのチームに確実に伝達する。そのためのシステムも構築する」

黒田部長は、二人のプロフェッショナルの連携に、深く頷いた。

「では、椎名、CDCのチームとの連携は、お前に任せる。真木は、レトロウィルスの設計図の解析を続け、対抗策の具体的な手がかりを見つけ出してくれ。ジョン・ドーさん、輸送の準備をお願いします」

役割は明確になった。真木は生命の設計図の解析に、椎名は死の装置であるサーバーの解除に。そして、ジョン・ドーは、その全てを繋ぐ命懸けのパイプ役となる。彼らは、互いの専門性を信じ、それぞれの任務へと向かった。

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