ミレニアムの牙
ep.8 ミレニアムの牙
真木希がミレニアムのネットワークに仕込んだ「見えないウィルス」は、カステッリとの間に、確かに目に見えない繋がりを築いた。彼の微かな反応を確認した後、公安特殊技能部は、次にどのような情報がもたらされるのか、固唾を飲んで待っていた。
その瞬間は、突然訪れた。
真木のメインモニターに、システムアラートが点滅する。それは、ウィルスが仕込まれた特定のノードから発せられた、ごく微弱な、しかし明確な信号だった。即座に展開されたウィンドウには、再び、おぞましいほどに見慣れた鏡文字の羅列が映し出された。だが、今回は、その全てがテキストではなく、数字ばかりで構成されていた。
「来ました!カステッリからです!」真木の焦燥感に満ちた声が響く。「また鏡文字ですが、今度は数字の羅列です…!解読を急ぎます!」
彼女の指がキーボードを叩き、高速で暗号を解析していく。数字の羅列は、座標にも、日付にも見えたが、その複雑な配列は、単なる数値ではないことを示唆していた。数秒後、解析プログラムが最終的な結果を導き出す。
真木の顔色が変わった。その瞳には、驚きと、新たな警戒心が宿っていた。
「解読結果は…これです!」
彼女がモニターを全員に見せた。そこに表示されたのは、緯度経度でも、時間でもなかった。明確な、そして具体的な場所の名前だった。
「サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会のドミニコ会修道院…イタリア、ミラノです!」
室内に、一瞬の沈黙が訪れる。
「ミラノ…イタリアか」椎名が、小さく呟いた。ジョン・ドーの表情もまた、困惑の色を帯びていた。「なぜ、この時期に、その場所を…?」
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会。それは、レオナルド・ダ・ヴィンチの壁画『最後の晩餐』が収められている、世界的に有名な教会だ。単なる修道院ではない。歴史と芸術、そして深い宗教的意味を持つ場所が、なぜミレニアムの「異端者」から示されたのか。
黒田部長の脳裏に、様々な可能性が閃いた。
「ヴォルコフは、以前から宗教的な終末論にも傾倒している。この場所が、彼の計画の最終段階における、何らかの象徴的な意味を持つのか…」
望月は、即座に行動を検討する。
「本拠地か…それとも、最後の重要なパーツが隠されている場所か。レトロウィルスに関連する何か…?」
カステッリは、なぜ、今、この場所を彼らに伝えてきたのか。それは、隕石の軌道操作が行われているNASAの施設とは、また別の、しかし決定的に重要な情報だった。カステッリは、彼らに、ミレニアムの、あるいはヴォルコフの真の心臓部、あるいは最終目標が隠された場所を示唆しているのかもしれない。
「もう後はない」
黒田部長の言葉は、彼自身の決意であり、同時に、公安特殊技能部全員への命令だった。カステッリが命を懸けて伝えてきた「サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会のドミニコ会修道院」。それが、ヴォルコフの「終末の計画」を阻止するための、最後の、そして唯一の手がかりかもしれない。
「どんなに小さな手掛かりでも、見逃すな」
彼らは、ジョン・ドーの協力を得て、イタリア政府に最小限の協力を要請し、ミラノへと飛んだ。観光客で賑わうミラノの街。しかし、彼らの心には、焦燥と、そして静かな覚悟が渦巻いていた。
彼らの乗る黒塗りのバンは、教会の前で、静かに止まった。
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会。レオナルド・ダ・ヴィンチの傑作『最後の晩餐』が収められている、神聖な場所。しかし、彼らの目に映る教会は、観光名所としての華やかさとは裏腹に、どこか異様な静けさに包まれていた。
教会の周辺には、不自然なほど警備員の姿が少ない。観光客の喧騒も、なぜか教会の正面に近づくにつれて、遠ざかっていくように感じられる。それは、まるで、この場所だけが、外界から切り離されているかのような、異様な空間だった。
「…妙だな」望月が、周囲を警戒しながら呟いた。「観光客の姿が、ほとんど見えない。それに、教会の周りに、監視カメラの類が一切ない」
真木は、手元のデバイスで、教会の内部の電波状況を解析していた。
「内部からの通信も、極端に少ないです。まるで、電波を遮断する特殊なフィールドが張られているかのように…」
椎名が、教会の外観を注意深く観察する。
「教会の構造自体も、どこか不自然だ。特に、修道院の裏手…あの部分だけ、明らかに増築された形跡がある。そして、その入り口は、完全に封鎖されている」
黒田部長は、静かに、しかし力強く言った。
「カステッリが、この場所を示してきた意味は、必ずある。我々が踏み込むのは、聖なる場所ではない。ヴォルコフの狂気の計画の、核心に繋がる場所だ」
彼らは、静かにバンを降り、教会の正面へと歩を進めた。表向きは観光客を装いながら、その瞳は、この場所が持つ異様な雰囲気と、隠された秘密を、鋭く見抜こうとしていた。
彼らが足を踏み入れたその場所は、レオナルド・ダ・ヴィンチの傑作が飾られた聖なる空間ではなく、アレクサンダー・ヴォルコフの狂気の計画が、その全貌を現そうとしている、終末への入り口だったのかもしれない。
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の前に止まった黒塗りのバンから降り立った公安特殊技能部は、厳重な警戒態勢でその異様な静寂に包まれた聖堂を見上げていた。ジョン・ドーは、彼らの一歩後ろに控え、緊張した面持ちで周囲を見渡す。
黒田部長が、低い声で命令を下した。
「真木、全体をセンサーで探せ。この教会のどこに、ミレニアムの牙が隠されているのか。電波、熱源、構造異常…ありとあらゆる異常を見つけ出すんだ」
真木希は、即座に特殊な小型スキャナーを取り出し、教会の外壁に沿ってゆっくりと歩き始めた。スキャナーの画面には、レーダー、赤外線、電磁波など、様々な波長のデータがリアルタイムで流れ、彼女の目がそれを瞬時に分析していく。彼女の狙いは、目に見えない防御システム、隠された入り口、あるいはヴォルコフのAI「ガレリオ」に関連するエネルギー反応だった。
「はい。異常な電磁波ノイズが検出されます。特に、修道院の裏手の増築部分から…通常の教会ではありえないレベルです。さらに、地中深くに、大規模な地下構造物がある可能性も示唆しています」
真木の報告に、全員の顔に緊張が走った。予想通り、この神聖な場所の地下に、ミレニアムの秘密が隠されているのだ。
次に、黒田部長は、望月を振り返った。
「望月、装備は万端か? 相手は、あのミレニアムだ。何が待ち構えているか分からない。油断はするな」
望月は、腰に手をやり、隠し持った特殊な道具の感触を確かめた。消音器付きの拳銃、ワイヤーカッター、小型爆弾、そして暗視ゴーグル。全てが完璧に機能することを確認する。
「問題ありません、部長。いつでも行けます」望月の声には、高ぶった戦闘意欲と、冷静なプロ意識が同居していた。
黒田部長は、教会全体を見据え、深く息を吸い込んだ。800日という人類に残された時間は、容赦なく刻々と減り続けている。レトロウィルスという、最後の絶望的なカードも明かされた今、彼らに失敗は許されない。
「よし…」
静寂を破り、黒田部長の重々しい声が響き渡った。その言葉には、全ての覚悟と、揺るぎない決意が込められていた。
「いざ、乗り込むぞ」
彼らは、観光客を装い、あるいは教会の裏手へと密かに回り込み、ミレニアムの牙城へと足を踏み入れた。聖なる場所の深淵に隠された、人類の運命を左右する最終局面が、今、始まろうとしていた。
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会に足を踏み入れた公安特殊技能部は、観光客の視線を避け、細心の注意を払いながら、その神聖な空間の異変を探っていた。ジョン・ドーは、彼らの警戒態勢を遠巻きに見守り、いざという時の支援に備える。
黒田部長は、静かに指示を飛ばした。
「椎名、地下だ。真木の事前スキャンで確認された異常な電磁波と、地下構造の可能性。そこがミレニアムの心臓部だ。隠された入り口を見つけ出せ」
椎名遼は、真木から受け取った詳細なスキャンデータと、教会の設計図を頭の中で照合しながら、床や壁の微細な違和感を探り始めた。彼の鋭い視線は、年代物の石材の継ぎ目、あるいは装飾品の裏側に隠された機構を見つけ出そうと、執拗に空間をなぞる。地下への入り口は、巧妙に偽装されているはずだった。
「はい、部長」椎名は、返事をすると、手元の特殊な周波数解析器で、床や壁から発せられる微弱な振動を検知していく。彼の狙いは、ミレニアムが隠蔽のために用いている、非磁性体の遮蔽材のわずかな歪みだった。
一方、真木希は、教会の奥にある食堂へと向かい、レオナルド・ダ・ヴィンチの傑作『最後の晩餐』の壁画の前に立った。
「真木、ダヴィンチの絵の3Dスキャンだ。カステッリがこの場所を教えてきた意味。ミレニアムがこの神聖な場所に隠し続ける秘密…それは、絵そのものに隠されている可能性もある」
真木は、特殊な3Dスキャナーを取り出し、壁画全体を慎重にスキャンし始めた。スキャナーは、肉眼では見えない微細な凹凸、絵の具の下に隠された層、あるいは壁画の背後に隠された空間までも立体的に捉える。彼女の目的は、絵画に隠された暗号、物理的なギミック、あるいはレトロウィルスの発動に関連する何らかの装置を見つけ出すことだった。スキャンデータがリアルタイムで彼女のタブレットに送られ、高精細な3Dモデルが構築されていく。
そして、望月は、入口付近と、チームの周囲の安全を確保した。
「望月は後方支援だ。侵入者の発見、そして外からの異変に警戒しろ。奴らは我々がこの場所にいることを予期していないはずだが、万が一に備えろ」
望月は、教会入口の目立たない場所に身を隠し、特殊な監視装置を設置した。教会の外からのあらゆる侵入、そして内部からの予期せぬ敵の出現に備え、消音器付きの拳銃を構え、その全身から殺気を消し去り、静かに息を潜めた。
神聖な静寂に包まれた教会の中で、三人のプロフェッショナルは、それぞれの持ち場で、人類の命運を賭けた、見えない探索と、静かな戦闘準備を進めていた。
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会に潜入した公安特殊技能部は、それぞれの持ち場で任務を遂行していた。望月が教会の入り口を固め、真木が『最後の晩餐』の壁画の秘密を探る中、椎名は、真木のスキャンで示された地下への入り口を探していた。
椎名は、教会内の一角、特に古めかしい図書館と倉庫が隣接するエリアに目をつけた。真木のデータでは、この地下から不自然な電磁波ノイズが強く検出されていた。彼は、埃を被った棚の裏に、わずかな空気の揺らぎを感じ取った。壁の一部が、他の場所とは異なる微細な振動を返している。
慎重に探ると、棚の奥に、ほとんど見えないほど巧妙に隠された小さなレバーがあった。指先でそれを押し込むと、壁の一部が音もなく内側へと沈み込み、漆黒の闇へと続く階段が現れた。カビと湿気の匂いが、鼻腔を刺激する。
椎名は、小型のライトを手に、その闇の中へと足を踏み入れた。階段は、驚くほど丁寧に舗装されており、最近も使われていることを示唆していた。数メートル下りた先には、狭い通路が続き、その先に小さな部屋があるのが見えた。
部屋の中央に、わずかな光を放つものが一つだけ置かれている。
それは、まるで家庭用ゲーム機ほどの大きさの、黒い筐体だった。複数のケーブルが接続され、かすかな電子音が聞こえる。見た目はごく普通だが、その存在感は異様だった。これこそが、ミレニアムがNASAのシステムを掌握し、小惑星の軌道を操作している、小さなサーバーだろう。
椎名は、慎重に近づき、そのサーバーを観察した。表面には、ミレニアムを象徴するロゴも、特別なマークも無い。ただの、何の変哲もない小さな箱。しかし、この箱一つで、ヴォルコフは世界を破滅させようとしているのだ。
「見つけたぞ…!」
椎名は、背筋を走る興奮を感じながら、そのサーバーを手に取った。ずっしりとした重みが、その重要性を物語っていた。このサーバーを停止させれば、隕石の軌道操作を止めることができるかもしれない。
その時だった。
パーン!
鋭い銃声が、密閉された地下空間に響き渡った。
弾丸が、椎名の頭のすぐ横の壁を掠め、乾いた音を立てた。一瞬にして、漆黒の闇が椎名を包み込む。彼は反射的にサーバーを抱きしめ、壁の陰に身を躍らせた。
どこからだ?誰が撃った?
地下には、椎馬以外に誰もいないはずだった。しかし、この教会がミレニアムの牙城である以上、彼らが防衛策を講じていないはずがない。椎名の額に、冷たい汗が伝った。
地上の教会では、真木が必死にスキャンを続けており、望月は後方支援で周囲を警戒していた。彼らの耳にも、地下からの銃声が届いたのか、あるいはまだ届いていないのか。
椎名の命は、今、極限の危険に晒されていた。
地下の闇に響いた一発の銃声は、静寂に包まれていたサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会を、一瞬にして戦場へと変えた。
パーン!
椎名遼が身を隠した直後、地上の教会入口付近で、重く、連続した銃声が轟いた。
パパーン!
それは、望月からの発砲音だ。彼は、椎名が襲われた直後、素早く異変を察知し、教会の奥から現れたミレニアムの工作員に向けて、迷いなく引き金を引いたのだ。望月は、教会の入口を固める任務から一転、椎名を援護するために、その場に飛び出した。彼の動きは淀みなく、訓練されたプロフェッショナルのそれだった。
「椎名! 早く地上に上がれ!」
黒田部長の叫び声が、インカム越しに椎名の耳に届く。望月が援護に回ったことで、地上の状況も危険な状態に陥っていることを示していた。
地下の椎名に向けられた銃弾は止まない。
パーン!
また一発、壁にめり込む乾いた音がした。椎名を狙う敵は、どこからともなく、正確な射撃を続けている。地下室は狭く、身を隠す場所も限られている。彼は、小型サーバーを抱えながら、血の気が引くのを感じた。この場所から脱出するには、撃ち返しながら突破するしかない。
地上の真木希は、銃声が響き渡った瞬間、3Dスキャンを中断し、反射的に身を低くした。彼女のモニターには、『最後の晩餐』の精緻なデータが、まだ未完成のまま表示されている。彼女は素早くサイバー防衛態勢に移行し、同時に、望月の援護が必要な状況に備え、武器の準備を始めた。
ジョン・ドーもまた、銃声を聞くやいなや、即座に身を隠した。彼の顔には、予期せぬ激しい交戦への緊張が走っていた。
聖なる教会は、今、銃弾と硝煙の匂いが満ちる、血なまぐさい戦場と化していた
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会は、もはや聖なる静寂とは無縁の、激しい銃撃戦の場と化していた。地下からは断続的な銃声が響き、望月が交戦する地上階からも、乾いた発砲音が鳴り止まない。
「真木! 終わらせろ! スキャンに集中だ!」
黒田部長の命令が、真木希のインカムに響く。銃声の合間を縫うように、彼女は最後の解析に全神経を集中させていた。教会の聖域は銃弾が飛び交う戦場となったが、真木の瞳は、ただ一点、『最後の晩餐』の壁画の3Dスキャンデータのみを凝視していた。
彼女は、スキャナーの出力を最大にし、壁画の微細な層、肉眼では捉えられない陰影、そして絵の具の下に隠されたであろう構造を、文字通り「剥ぎ取っていく」ように解析し続けた。
その時だった。
「…発見!」
真木のタブレットに、完成した3Dモデルが展開された瞬間、彼女の顔に驚愕の色が浮かんだ。壁画の表面には何もない。しかし、3Dモデルを特定の角度から、特定の周波数で分析すると、絵の具の層の奥、壁画の裏側、あるいはダヴィンチが意図的に仕込んだかのように、光を放つ微細な点が、複雑な幾何学模様を形成しているのが現れたのだ。それは、まるで星図のような、あるいは回路図のような、不可解なシンボルだった。
「これは…単なる模様じゃない!何らかのエネルギー反応を伴う、隠された回路、あるいは制御システムです!レトロウィルスに関連する何らかのトリガーか、あるいは、その無効化方法のヒントかもしれません!」
真木の声が、興奮と切迫感に満ちていた。これは、カステッリが、そしてダヴィンチが、この絵画に隠し続けてきた、ミレニアムの真の秘密かもしれない。
「部長!スキャン完了!データ取得しました!」
その報告と同時に、黒田部長の撤退命令が飛ぶ。
「撤収だ! データを持って脱出するぞ!」
地下では、椎名が、銃声を避けるようにサーバーを抱え、隠れた敵からの射撃に反撃しながら、狭い階段を駆け上がっていた。
パーン!
再び、彼の背後から銃声が鳴る。
地上では、望月が、次々と現れるミレニアムの工作員を的確な射撃で牽制し、彼らが真木やジョン・ドーに接近するのを許さない。彼の銃口からは、絶え間なく火花が散っていた。ジョン・ドーもまた、身を隠しながら、時には銃を取り出し、公安のメンバーを援護する。
聖なる教会は、今、彼らが持ち帰る最後の希望と、それを阻止しようとするミレニアムの死闘の場となっていた。