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ダヴィンチの文字

ep.3 ダヴィンチの文字


真木希によるNSAハッキングの失敗は、公安特殊技能部にとって大きな痛手となった。最後の希望が潰え、捜査は再び暗礁に乗り上げたかに見えた。部屋には重い空気が漂い、メンバーたちの顔には疲労と失望の色が濃く浮かんでいた。

しかし、天才ハッカー真木希は、ただ失敗に打ちひしがれているだけではなかった。NSAのシステムから強制排除された直後から、彼女はあの突破不可能だった壁の痕跡を、偏執的なまでの集中力で分析し続けていたのだ。通常のシステムではありえないような、複雑で洗練された防御構造、そして自身の侵入を感知し排除したプログラムの異常なまでの巧妙さ。それは、人間の手によるものとは思えないほど完璧だった。

数時間後、真木は疲労困憊の様子で、しかし、ある結論に達していた。

「…これは、普通の国家機関のセキュリティじゃない」

彼女の呟きに、椎名や黒田部長が顔を向けた。

「どういうことだ、希?」

「私が弾かれたあのシステム…解析してみたら、これまで見たことのない手法が使われていた。複雑な多層防御と、リアルタイムで侵入を検知し、排除するAIによるもの…それに、その手法に、心当たりがある」

真木の目が、鋭く光る。

「…国際的なハッカー集団、『ミレニアム』の手法に似ている」

その名を聞いて、黒田部長と椎名の表情が険しくなった。「ミレニアム」。それは、サイバーセキュリティの世界では伝説的な存在だった。特定の国家にも企業にも属さず、謎に包まれた国際的なハッカー集団。その技術力は世界最高峰と噂され、かつては難攻不落と言われた各国の政府機関や巨大企業のシステムに、神出鬼没に侵入し、痕跡を残さず消え去ったとされている。その目的も組織の実態も不明で、存在そのものが都市伝説のように語られることもあった。

「ミレニアム…?」椎名が低い声で繰り返した。「奴らが、NSAのシステムに関わっているというのか?」

「断定はできない。でも、私が解析できた範囲では、彼らの特徴的な痕跡が見つかったんだ。あのNSAのセキュリティを、あれほど完璧に構築できる、あるいは強化できる存在は…ミレニアム以外に考えられない」

真木の言葉は、新たな、そして恐ろしい可能性を示唆していた。もし、あのミレニアムが今回の連続事件、そして犯行グループ「XXX」と関わっているのだとすれば、これは単なるテロリストとの戦いではない。世界最高峰のサイバー能力を持つ、見えない敵との戦いになるのだ。

「もしミレニアムがXXXだとすれば…彼らは単なるテロリストじゃない。高度な技術と知性を兼ね備えた、全く新しいタイプの脅威だ」

椎名は、声明の内容とミレニアムの技術力を結びつけながら考え込んだ。彼らはなぜ、アメリカの「重大な秘密」を要求するのか?その秘密は、ミレニアムの目的にどう関わるのか?

「ミレニアム…」望月が、初めて口を開いた。その声は静かだが、内に秘めた警戒心が感じられた。「奴らは、サイバー空間だけじゃなく、現実世界でも動けるのか?」

連続テロの物理的な実行部隊と、サイバー空間で暗躍するハッカー集団。ミレニアムがその両方を兼ね備えているのか、あるいは別々の組織が連携しているのか。謎は深まるばかりだった。

黒田部長は、重い決断を下した。

「我々の次の標的は、国際ハッカー集団ミレニアムだ。奴らを突き止め、今回の事件との関連性を明らかにする。簡単ではないだろう…いや、これまでで最も困難な任務になる」

部屋に再び緊張感が満ちる。しかし、それは絶望だけではなかった。新たな敵の正体が、ぼんやりとではあるが、見え始めたことで、捜査に新たな方向性が生まれたのだ。

真木希は、再びモニターに向き直った。彼女にとって、ミレニアムは単なる敵ではない。それは、自身の技術を超えるかもしれない、挑戦すべき相手だった。そして、NSAの壁を突破できなかった悔しさが、彼女を突き動かしていた。

国際ハッカー集団ミレニアム。世界の裏側で暗躍する彼らの正体、目的、そしてあの連続事件との関係。全ての謎が、今、この伝説的なハッカー集団へと繋がろうとしていた。世界は、新たな、そしてより危険な局面へと突入しようとしていたのだ。

国際ハッカー集団「ミレニアム」の存在が明らかになったものの、彼らの実態は掴めないままだった。まるで幻影のような相手に、従来の捜査手法は通用しない。公安特殊技能部のメンバーたちは、再び暗礁に乗り上げた捜査に焦りを募らせていた。特に、NSAへのハッキングに失敗した真木希は、その原因がミレニアムにあると確信し、苛立ちを隠せずにいた。

「このまま待ってても無駄だよ」

数日後、真木は誰も予想しない言葉を口にした。オフィスの一角で、いつも通り複数のモニターに囲まれていた彼女が、椅子を回して他のメンバーに視線を向けたのだ。

「ミレニアムは隠れてる。私たちから積極的に仕掛けないと、何も始まらない」

椎名が、真木の意図を察して眉をひそめる。

「…まさか、直接コンタクトを取るつもりか?危険すぎる。奴らに私たちの存在がバレたら…」

「もう、NSAへのハッキングで、少なくとも私の存在はバレてる可能性が高い。なら、隠れてても意味がない」真木は冷ややかに言い放った。「奴らがアメリカの秘密を求めているなら、そしてあの連続事件がその要求のためなら…奴らと話をつけるのが一番早い。あるいは、奴らの目的を探る」

黒田部長は黙って真木の言葉を聞いていた。直接コンタクト。それは、国家の捜査機関が行うにはあまりにも非公式で、そして危険極まりない方法だった。しかし、正攻法では全く手が出ない相手だ。

「無許可でやるつもりはない。でも、許可を待ってたら手遅れになるかもしれない」真木は続けた。「奴らが次の事件を起こす前に、何とか動きを止めたい」

結局、真木は黒田部長に事後報告することを決め、独断でミレニアムへのコンタクトを試みることにした。椎名と望月は、その危険な決断に反対こそしなかったが、不安げな表情を隠せなかった。

真木は、自身の「アトリエ」と呼ぶ、部署内でも特にセキュリティが厳重な部屋に籠もった。モニターの前に座り、覚悟を決めたように深呼吸をする。ミレニアムのような相手にメッセージを送るのに、一般的なインターネット回線など使えるはずがない。彼女は、過去にミレニアムが活動した際に残された、微細なデジタル痕跡、そしてハッカーたちの間で囁かれる彼らの隠れ家へと繋がる「裏口」を探し始めた。

複雑な暗号を解き、デジタル空間の迷宮を駆け抜ける。それは、真木自身の技術と、ミレニアムの過去の痕跡との対話のようなものだった。何時間にもわたる作業の後、彼女はついに、ミレニアムが潜んでいると思われる、デジタル空間の最奥部に到達した。それは、驚くほど静かで、そして不気味なほどに「何もない」場所だった。しかし、そこには確かに、ミレニアムの気配が存在していた。

真木は、用意していたメッセージを作成し、送信した。内容は簡潔だ。「なぜ、このような事件を起こすのか?」「要求する秘密とは何か?」「対話に応じてもらいたい」といった問いかけ、そして、自分たちが何者であるかを匂わせる情報も僅かに含めた。

メッセージを送信した後、真木は固唾を呑んで待った。相手は応じるのか?それとも、警告を発してくるのか?あるいは、自身の居場所を特定し、報復を仕掛けてくるのか?

静寂が続く。モニターは、何も変化を示さない。しかし、真木の全身の神経は研ぎ澄まされ、来るべき相手の反応を待ち構えていた。

数分後、画面に微かな変化が現れた。それは、メッセージへの返信ではなかった。真木の操作しているメインモニターの隅に、一瞬だけ、奇妙なシンボルが表示されたのだ。それは、幾何学的な模様の組み合わせで、真木も見たことがないものだった。しかし、そのシンボルが消えた後、真木のシステムに、ごく短い、暗号化されたデータが送り込まれていることに彼女は気づいた。

「…っ!」

真木は、送り込まれたデータを解析する。それは、メッセージではなかった。それは、まるでパズルのような、意味不明なコードの羅列だった。しかし、そのコードには、ミレニアム特有の、高度な技術の痕跡が刻まれていた。そして、それは、真木のコンタクトに対する、ミレニアムからの「反応」であることを示していた。

返答はなかった。しかし、彼らは真木の存在に気づき、そして彼女の能力を測るかのような、挑戦的なデータを送りつけてきたのだ。

真木は、送り込まれたコードをじっと見つめた。危険を冒してのコンタクトは、失敗ではなかった。ミレニアムは、彼女からの呼びかけに応じたのだ。しかし、それは対話ではなく、新たな謎と挑戦の始まりを告げるものだった。

「…ミレニアム」

真木は、送り込まれたコードから目を離さずに呟いた。彼女の顔に、微かな笑みが浮かぶ。それは、恐怖の色ではなく、強大な敵に巡り会ったことによる、天才ハッカーならではの、好奇心と闘志の色だった。

危険な扉は開かれた。真木希は、伝説的なハッカー集団ミレニアムとの、デジタル空間における危険な駆け引きへと足を踏み入れたのだ。そして、このコンタクトが、世界を未曾有の危機から救う鍵となるのか、あるいはさらなる混乱へと導くのか、それはまだ誰にも分からなかった。

ミレニアムから送り込まれたコードは、解析によって膨大な量の、意味をなさないバラバラのアルファベット、数字、記号の羅列となった。まるで、ミレニアムが仕掛けた悪質なジョークのように、それはただ画面を埋め尽くす混沌だった。真木希は、あらゆる手法を試しても、そのバラバラの文字から何らかの意味を引き出すことができずに苦戦していた。

「何か、特定の法則で並べ替えられているはずなんだ…でも、それが分からない…」

真木は苛立ちを隠せずに呟いた。ランダムに見えて、そこに隠された規則性を読み解くことが、ミレニアムからのパズルを解く鍵なのだ。

その時、椎名遼が、静かに画面上の文字の羅列を眺めながら口を開いた。

「希、この文字の並び…何だか不自然なリズムを感じないか?通常の文章の流れとは違う…まるで、逆さまになっているような…」

椎名の言葉に、真木は首を傾げる。逆さま?文字の並びが?

「逆…まさか…」椎名の脳裏に、ある歴史上の人物の姿が閃いた。「レオナルド・ダ・ヴィンチだ」

「ダヴィンチ?」真木が聞き返す。

「ああ。彼は、自分の手稿を他人に盗み見られないように、鏡文字、つまり右から左に書く文字を使っていた。そして、それを読むには、鏡に映すか、左から右に読む必要があった…このバラバラの文字も、そうなんじゃないか?」

椎名の洞察に、真木の目が輝きを取り戻す。バラバラに見えたのは、単に並べ替えのルールが不明だっただけでなく、文字そのものの並び順が逆だったからかもしれない。ミレニアムのような知性を持つハッカー集団ならば、このような歴史的な暗号の手法を取り入れる可能性は十分にある。

「やってみる…!」

真木は、即座にプログラムを組み始めた。画面上のバラバラの文字を、通常の右から左ではなく、左から右へと読み直すためのプログラムだ。それは、データそのものを逆転させるのではなく、読み取る順番を反転させる、というシンプルな処理だった。

プログラムが実行される。画面上の文字が、一瞬にして再構成される。

そして、その結果がモニターに表示された時、真木と椎名は息を呑んだ。

バラバラに見えた文字は、もはや混沌ではなかった。そこには、完璧な文章とは言えないまでも、意味を持つ単語やフレーズが、驚くほど明確な形で並んでいたのだ。

『Central Park. Museum entrance. Fifth Avenue, Midnight. Key is inside.』

それは、英語の単語とフレーズの羅列だった。

「セントラルパーク…美術館入口…五番街、深夜…鍵はその中に…?」

真木が、震える声で読み上げる。

「これだ…これこそが、ミレニアムからのメッセージだ!」

椎名の顔に、緊張と共に、確信の色が浮かぶ。バラバラの文字の中に隠されていた情報は、次に何が起こるのか、あるいはどこに行けば次の手がかりが見つかるのかを示すものだった。ニューヨークのセントラルパーク、五番街に面した美術館の入口。そこで、深夜に何かが起こる。そして、「鍵はその中に」という言葉。

望月も、モニターに表示された文字を見て、その意味を理解した。それは、これから自分たちが取るべき行動を明確に示すものだった。

「ニューヨークだ…行かなければ」

黒田部長は、情報が明らかになったことに安堵しつつも、新たな危険が迫っていることを察していた。ミレニアムは、挑発するだけでなく、具体的な場所と時間を示してきたのだ。

「すぐに手配する。希、解析は続行だ。この情報以外にも、まだ何か隠されているかもしれない」

真木は、新たな使命感に燃えていた。バラバラの文字を並べ替えたことで、見えない敵の次の手が明らかになったのだ。ダヴィンチの鏡文字のように、逆転の発想が、行き詰まりを打破した。

しかし、時間は刻々と迫っている。メッセージが示す「深夜」まで、もはや猶予はほとんどない。

公安特殊技能部、次の舞台はニューヨーク。ミレニアムからの挑戦を受け、彼らは世界を救う鍵を見つけ出すために、真夜中の五番街へと向かうことになる。そして、「鍵」とは一体何を意味するのか。その答えは、セントラルパークの美術館の入口で、彼らを待っているだろう。

戦いは、新たな段階へと進んだ。そして、その先には、想像を絶する真実が隠されているに違いなかった。

ミレニアムから送り込まれたコードを解読し、「Central Park. Museum entrance. Fifth Avenue, Midnight. Key is inside.」というメッセージが明らかになった時、日本の公安特殊技能部に迷いはなかった。時間は刻々と迫っている。メッセージが示す「深夜(Midnight)」まで、もはや猶予はほとんど残されていなかった。

慌ただしい準備の後、彼らは深夜の羽田空港から、極秘裏に手配されたプライベートジェットに乗り込んだ。機内には、張り詰めた緊張感が漂っていた。長時間のフライトによる疲労はあったが、それ以上に、見えない敵の次の手が迫っているという焦燥感が彼らを突き動かしていた。機内で、黒田部長は改めてメンバーに任務の重要性を確認させ、椎名はニューヨークの地図と美術館周辺の情報を頭に叩き込み、真木は持参した機材の最終チェックを行い、望月は静かに目を閉じ、精神を研ぎ澄ませていた。

大西洋を越え、ニューヨークのジョン・F・ケネディ国際空港に到着したのは、現地時間の深夜近くだった。空港内は、テロへの警戒態勢からか、普段以上に警備が厳重だったが、彼らは特殊なルートで素早く空港を出た。

待機していた車に乗り込み、マンハッタンへと向かう。深夜の高速道路は、それでも交通量が少なくなかった。車窓には、摩天楼の光が流れていく。しかし、その煌めきの中にも、どこか異常なほどの静けさと、張り詰めた警戒の空気が漂っているように感じられた。連日の報道で、ニューヨーク市民は再び不安を抱き始めていたのだ。

車はセントラルパークの広大な緑に沿って北上し、やがて五番街へと入る。通り沿いには高級ブランド店が立ち並んでいるが、この時間はシャッターが下ろされ、ひっそりとしている。目指す美術館が、その荘厳な姿を現した。セントラルパークに面したその建物は、ライトアップされてはいるものの、深夜の静寂の中に威圧感をもって建っていた。

車が美術館の正面入口近くにゆっくりと停車する。周囲を見渡すが、人影はほとんどない。時折、遠くでパトカーのサイレンが聞こえるが、この美術館周辺には警察官の姿も見当たらない。まるで、意図的に人払いがされているかのような、不気味なほどの静けさだった。

黒田部長の合図で、メンバーは車から降りる。望月が真っ先に周囲を警戒し、高い位置から視界を確保できる場所を探す。椎名は、美術館の入口の構造や周辺の地理情報を確認し、真木は、何かデジタル的な痕跡がないか、特殊な機器でスキャンを開始する。

時計を確認する。メッセージで示された「Midnight」まで、あと数分。

彼らは、ミレニアムからのメッセージが示した場所、セントラルパークの美術館入口に到着した。しかし、そこに何があるのか、「鍵はその中に」という言葉が何を意味するのか、それはまだ分からなかった。

張り詰めた緊張感が、五番街の冷たい夜の空気を震わせる。次に何が起こるのか。ミレニアムは、ここに何を仕掛けているのか。

公安特殊技能部のメンバーたちは、暗闇に包まれた美術館の入口を前に、来るべき「Midnight」の瞬間を待ち構えていた。世界の運命をかけた、見えない敵との戦いは、今、この歴史的な場所で、新たな局面を迎えようとしていた。そして、「鍵」が彼らを、真実へと導くのか、それともさらなる罠へと誘うのか、それは、まだ誰にも分からない。


深夜零時、「Midnight」を迎えたセントラルパークの美術館入口周辺は、異様な静寂に包まれていた。公安特殊技能部のメンバーたちは、張り詰めた空気の中、「鍵はその中に」というミレニアムからのメッセージを手がかりに、美術館の入口周辺を注意深く捜索していた。望月は周囲を警戒し、真木はデジタルスキャンを行い、椎名は美術館の建築構造や、歴史的な特徴に目を光らせていた。

物理的な鍵穴や、明らかな隠し場所は見当たらない。ミレニアムが仕掛けた「鍵」は、きっともっと巧妙なものだろう。

真木が、入口の巨大なブロンズ製扉の近くの壁面に、特殊なスキャナーを向けた時だった。

「…ん?微弱な信号…ここだ!」

彼女の声に、椎名と黒田部長が駆け寄る。壁の、ほとんど気づかないような凹凸の近くから、極めて微弱なデジタル信号が発せられていたのだ。

「これ、ただの信号じゃない…何か、パターンを持ってる」真木は解析を試みる。「まるで…特定の情報を記録したデータのような…」

一方で、椎名は、その信号が発せられている場所の近くにある、壁面の装飾に目を留めていた。そこには、ギリシャ神話の登場人物や、ルネサンス期の意匠が彫り込まれている。

「この装飾…どこかで見たことがある…」椎名は記憶を辿る。美術館の収蔵品カタログ、あるいは美術史の資料…「これだ!」

椎名は、持参していたタブレットで、ある画像を真木に見せた。それは、レオナルド・ダ・ヴィンチの手稿の一部だった。手稿の中に描かれている装飾のスケッチが、目の前の壁面の装飾と驚くほど酷似していたのだ。

「この信号は…この装飾の中に隠された、ダヴィンチに関連する情報を示しているのかもしれない」

真木は、椎名の洞察を受けて、信号の解析を続行する。ダヴィンチに関連する情報が「鍵」となり、この信号データを解読するための「パスワード」となる可能性が高い。彼女は、ダヴィンチの作品名、彼の生没年、手稿に含まれる特定の単語などを組み合わせて、信号の解析を試みた。

数分間の緊迫した作業の後、真木が小さく息を飲む。

「…開いた…!」

信号データは、ごく短い、しかし明確なメッセージへと変換された。それは、音声ファイルでも画像ファイルでもなく、テキストデータだった。

『Wisdom lies not in words but in things. Seek the eye. The heart is the key. 41.8902°N, 12.4922°E』

それは、まるでレオナルド・ダ・ヴィンチ自身が語りかけてくるかのような、古めかしい響きを持つ言葉だった。そして、その末尾には、再び緯度と経度の羅列が付いている。

「…知恵は言葉ではなく、物事の中に宿る…眼を探せ…心臓が鍵だ…そして、この座標…」

真木が、震える声でメッセージを読み上げる。

「これは…レオナルド・ダヴィンチからのメッセージ、なのか…?」黒田部長が呟く。

しかし、椎名は、これが単なる過去からのメッセージではないことを悟っていた。

「違う…これは、ミレニアムがダヴィンチを媒体として仕掛けてきた、次のパズルだ。『知恵は言葉ではなく、物事の中に宿る』…つまり、次に探すべきは、言葉ではなく、目に見える何かだ。『眼を探せ』…これは、美術館の中の何か特定の『眼』を指しているのかもしれない。そして、『心臓が鍵だ』…これは、比喩か、あるいは…」

「そして、この座標…」真木が、座標を検索システムに入力する。「イタリア、ローマ…コロッセオだ」

ミレニアムは、ダヴィンチという知の巨人を媒介に、次の舞台と、そこで探すべきものを示してきたのだ。ニューヨークの美術館から、イタリアのローマへ。そして、そこで探すべきは、「眼」と「心臓」に関連するもの。そして、それは「物事の中に宿る」、つまり特定の作品や場所に隠されているのだろう。

ミレニアムの仕掛けの巧妙さに、メンバーは舌を巻いた。歴史と技術、そしてパズルを組み合わせる彼らの手口は、あまりにも予測不能だ。

「ローマへ向かうぞ」黒田部長が即座に指示を出す。「時間は待ってはくれない」

ダヴィンチからの伝言は、新たな謎を孕んでいた。しかし、それは同時に、行き詰まっていた捜査を大きく前進させる、決定的な手がかりだった。深夜の五番街、美術館に隠された鍵は、世界を救うための、そして見えない敵「ミレニアム」の正体に迫るための、次なる扉を開いたのだ。そして、その扉の先には、ローマのコロッセオという、歴史と謎に満ちた場所が待っていた。

ダヴィンチからのメッセージとして、ローマのコロッセオを示す座標が現れた時、公安特殊技能部には一瞬の興奮が走った。行き詰まっていた捜査に新たな、そして明確な手がかりが得られたのだ。彼らは直ちにローマへの移動準備を開始しようとした。

その時、椎名遼が、強い違和感を覚えていた。彼は、解読されたメッセージ、そしてそれまでの事件の経緯を脳内で反芻していた。ラスベガスの世界王者、ニューヨークの金融街、フランスの街角、日本の原発、アメリカ西海岸の電力網…そして、ミレニアム、アメリカの隠された秘密、ダヴィンチ、美術館…そしてローマのコロッセオ。

何かが、出来すぎている。

椎名が、他のメンバーを制止した。

「待ってください」

彼の声に、黒田部長や真木、望月が顔を向ける。彼らの顔には、次の行動に移ろうとする前の、張り詰めた緊張と期待が浮かんでいた。

「この情報…おかしい」椎名はモニターを指差した。「ダヴィンチ…美術館…秘密…そしてローマのコロッセオ。この組み合わせ…」

椎名の視線が、メンバーの顔を一人ずつ捉える。

「…『ダヴィンチ・コード』だ。あの有名な小説のプロットに、あまりにも似ている」

その言葉を聞いた瞬間、部屋の空気が凍り付いた。メンバー全員が、ハッと息を呑む。言われてみれば、あまりにも酷似している。ルーヴル美術館から始まり、歴史的な暗号を辿りながら、秘密結社や隠された真実を追っていく物語。その舞台はパリからローマへと移る。

「まさか…そんな…」真木が愕然とした表情で呟く。

「ミレニアムが、意図的にこのメッセージを『ダヴィンチ・コード』に似せて作った…?」黒田部長の声に、疑念の色が滲む。

あまりに有名なフィクションとの類似性は、偶然であるはずがない。これは、ミレニアムによる、周到に仕組まれた「ミスリード」である可能性が高い。彼らは、捜査当局が「ダヴィンチ・コード」という既知のパターンに飛びつくことを見越して、この偽の情報、あるいは捜査を誤った方向へ向かわせるための罠を仕掛けたのだ。

「なぜだ?なぜ、奴らは我々をローマへ誘い出そうとする?」望月が鋭い視線で椎名に問いかける。

「捜査を撹乱するため…あるいは、我々のリソースをローマへ分散させておいて、別の場所で何かを仕掛けるつもりか…」椎名は考え込む。「奴らは単なる物理的なテロリストじゃない。情報戦、心理戦の達人だ」

ミレニアムの目的は、単にアメリカの秘密を暴露することだけではないのかもしれない。彼らは、世界中の捜査当局を翻弄し、混乱させることそのものに目的があるのか。あるいは、この「ミスリード」の先に、さらに深い、真の罠が隠されているのか。

黒田部長は、重く息を吐き出した。せっかく得られた手がかりが、まさか偽物、あるいは罠かもしれないとは。

「ローマへの移動は、一時保留だ」黒田は決断を下す。「メッセージの再解析が必要だ。希、頼む。このメッセージの中に、ミスリードのための情報、あるいは逆に、真の意図を示す別のヒントが隠されている可能性がある」

真木は、自身の天才的な解析能力をもってしても見抜けなかったミレニアムの巧妙さに、悔しさと同時に、新たな挑戦への意欲を感じていた。ダヴィンチの文字を逆読みするというヒントは、最初のパズルだった。そして、「ダヴィンチ・コード」の模倣は、次の、より悪質なパズルだったのだ。

バラバラの文字から現れたメッセージは、彼らをローマへ導くものではなかった。それは、ミレニアムからの、知的な、そして冷酷な「騙し絵」だった。そして、その騙し絵の中に隠された真実を見つけ出すことこそが、今、彼らに課せられた新たな使命だった。

世界を救うための戦いは、物理的な行動ではなく、見えない敵の仕掛ける情報戦、そして心理戦へと、さらに深く沈み込んでいく。そして、その先には、想像を絶する真実、あるいは、ミレニアムの真の目的が隠されているに違いなかった。

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