ラスベガスの糾弾
ep.1 ラスベガスの糾弾
ネオンの海が煌めく砂漠の蜃気楼、ラスベガス。その中心に鎮座するMGMグランドアリーナは、今宵、沸騰寸前の熱気に包まれていた。数万の観衆の怒号にも似た歓声がアリーナ全体を揺るがし、その中心に据えられた四角いリングの上で、二人の男が運命の対峙を迎えようとしていた。
世界ライト級タイトルマッチ。王者はこの階級に君臨し続ける絶対王者、リュウ・サワムラ。無敗のレコードを持ち、冷静沈着なスタイルから「氷の処刑人」と呼ばれる彼に対し、挑戦者は無尽蔵のスタミナとアグレッシブなファイトでランキングを駆け上がってきた若き猛牛、ホセ・ロペス。
リュウは控え室で、静かに目を閉じていた。肌にまとわりつくような湿気と、遠くから聞こえる観衆のざわめきが、これから始まる戦いの重圧を物語っている。数時間前まで聞こえていたカジノの賑やかな喧騒は嘘のように消え失せ、今はただ、リングへと続く暗く長い通路の先にある光だけが、彼の意識を惹きつける。
「時間だ、リュウ」
セコンドの声に、リュウはゆっくりと目を開けた。グローブの感触を確かめ、深呼吸をする。張り詰めた空気の中、彼は立ち上がった。
入場曲が鳴り響くと同時に、アリーナのボルテージは最高潮に達した。リュウは、セコンドと共にゆっくりと花道を歩く。降り注ぐスポットライト、フラッシュの嵐、そして自分を呼ぶ歓声。この景色も音も、もう何度も経験しているはずなのに、いつだって新鮮な高揚感と、背筋が凍るような緊張感がない交ぜになる。
リングに上がると、挑戦者のギラついた視線が突き刺さる。ゴングまでの短い時間、二人はリング中央で向かい合い、最後のアイコンタクトを交わした。ロペスの目に宿る飢餓感と闘志。それを受け止め、リュウは静かに微笑んだ。
そして、運命のゴングが鳴り響く。
試合は序盤から激しいものとなった。ロペスは触れれば爆発するかのような勢いで襲いかかり、リュウは得意のフットワークでそれを捌きながら、正確なジャブとストレートで牽制する。2ラウンド、ロペスの右フックが顎をかすめ、一瞬視界が揺れた。観衆の悲鳴が聞こえる。ここで引いてはいけない。リュウは冷静に態勢を立て直し、ボディワークで距離を詰めるロペスにショートアッパーを突き上げた。
中盤、ロペスの手数と圧力が増す。ロープ際に追い詰められる場面が増え、会場からはロペスを応援する声が大きくなる。額から流れる汗が目に染みる。息が苦しい。挑戦者の勢いに、王者の威厳が揺らぎ始めているように見えた。
だが、リュウは経験が違う。このリングで幾度も修羅場を潜り抜けてきた王者は、焦りを見せることなく、冷静に相手の動きを観察していた。ロペスの猛攻の中に、微かな隙を見つける。スタミナに自信があるとはいえ、これだけ飛ばしていれば必ずガス欠になる瞬間が来る。
8ラウンド。ロペスの動きにわずかな鈍りが見えた。ここだ。リュウは一気にギアを上げた。それまでの冷静なボクシングから一転、鋭い踏み込みからのコンビネーションを叩き込む。ジャブ、ストレート、フック。ロペスのガードをこじ開け、顔面にパンチが突き刺さる。
ロペスが後退する。会場の空気が変わった。劣勢だった王者の反撃に、観衆のどよめきが起こる。リュウは追撃の手を緩めない。ダメージを負った挑戦者に、容赦なくパンチの雨を降らせる。
そして、その瞬間は訪れた。リュウの放った左フックが、ロペスのテンプルにクリーンヒットする。ロペスの体が硬直し、糸が切れたようにリングに崩れ落ちた。
レフェリーが駆け寄り、カウントを始める。1、2、3……。ロペスは朦朧とした意識の中で起き上がろうとするが、力が全く入らない。9、10!
ゴングが鳴り響き、試合終了が告げられた。KOタイム、8ラウンド2分45秒。
一瞬の静寂の後、アリーナは割れんばかりの大歓声に包まれた。観客は総立ちになり、リュウの名前を叫んでいる。セコンドがリングに駆け上がり、リュウに抱きつく。
リュウは膝をつき、リングマットに額をつけた。全身から力が抜け、安堵と達成感が波のように押し寄せる。この重圧から、解放された。
やがて、彼はゆっくりと立ち上がった。リングを見渡す。倒れたままの挑戦者、熱狂する観客、そして眩しいスポットライト。この全てが、彼が掴み取った勝利の証だ。
リュウは、セコンドに促されることもなく、自らの足でコーナーロープに向かった。ロープを跨ぎ、ターコイズブルーのマットの上に立つ。
見下ろすアリーナは、まるで生きているかのように脈打っている。数万の顔、無数の叫び声。それは、彼が乗り越えてきた壁であり、彼を支えてくれた声でもあった。
両手を高々と掲げる。ライトがその姿を照らし出し、ベルトのゴールドが鈍く光る。指先に感じるロープの感触、肺いっぱいに吸い込むアリーナの空気。その全てが、自分が世界の頂点に立っていることを教えてくれる。
これが、ラスベガスの夜。
これが、王者の咆哮。
リュウは、勝利の絶頂の中で、次なる戦いを予感していた。ベルトを巻く重み、そして守り続けることの難しさ。しかし今はただ、この瞬間を噛み締める。コーナーポストの上から見下ろす世界は、これまでで一番輝いて見えた。
リュウはコーナーポストの上に立ち、両手を高々と掲げていた。割れんばかりの歓声が地鳴りのように響き、フラッシュの光が星屑のように降り注ぐ。ベルトの重みも、体の痛みも、今は遠いものに感じられた。ただ、この圧倒的な光景と、自分が世界の頂点に立っているという揺るぎない確信だけが、彼の全身を満たしていた。汗と疲労にまみれた顔に、達成感と、そしてほんのわずかな安堵の表情が浮かぶ。
勝利の味。それは何物にも代えがたい、麻薬のようなものだ。このために、血を流し、魂を削ってきた。この瞬間のために、全てを犠牲にしてきた。コーナーポストから見下ろす観客の顔は、興奮に歪み、彼を讃える叫び声が波のように押し寄せる。
その時だった。
耳をつんざくような、乾いた破裂音がアリーナの轟音の中に響き渡った。一瞬、何が起こったのか理解できなかった。まるで遠くで風船が割れたような、あるいは破片が弾けたような、場違いな音。
リュウの眉間に、熱い、鋭い痛みが走った。
視界が、一瞬にして赤く染まる。頭の中に、万華鏡が弾け飛んだような、形容しがたい光と色が散乱する。体が、重力から解放されたかのように、ふわりと浮き上がる錯覚に襲われた。
次の瞬間、彼は体が言うことを聞かなくなったのを感じた。勝利のために張り詰めていた全ての力が、あっという間に失われていく。コーナーポストの上に立っていたはずの体が、ゆっくりと、しかし確実に、傾いていく。
観衆の歓声が、悲鳴へと変わるのが聞こえたような気がした。セコンドが何か叫んでいるのが見えたような気がした。しかし、全てが遠い。音も、光も、意識も、急速に彼から離れていく。
痛みは、もはや感じなかった。ただ、額の熱と、世界がゆっくりと暗転していく感覚だけがあった。コーナーポストの冷たい感触が、最後に彼の肌に触れたものだった。
リュウ・サワムラの体は、観衆の目の前で、勝利の象徴であるコーナーポストの上から、マットへと崩れ落ちた。
熱狂と興奮に満ちていたアリーナは、一瞬の静寂の後、凄まじいパニックと混乱の渦に呑み込まれた。悲鳴、怒号、駆け回る人々。誰もが、数秒前まで世界の王だった男が、唐突に倒れ伏した光景に、ただただ呆然としていた。
ラスベガスの夜。王者の咆哮は、あまりにも早く、血の臭いと共に掻き消された。何が起こったのか、誰がやったのか、それはまだ誰にも分からなかった。だが、一つだけ確かなことがある。
この夜、ラスベガスのリングで、世界王者はその命を散らしたのだ。勝利の絶頂から、一瞬にして奈落へと突き落とされて。
ラスベガス市警とFBIが動く
歓声が悲鳴へと変わり、パニックの波がアリーナを席巻した後、数分も経たずに青と赤の閃光がMGMグランドの周辺を染め始めた。けたたましいサイレンの音と共に、ラスベガス市警(LVMPD)のパトカーが次々と到着し、混乱のるつぼと化した会場周辺を瞬く間に封鎖していく。興奮から一転、恐怖と不安に凍り付いた観衆は、警官隊によって出口へと誘導され、アリーナ内部には徐々に張り詰めた静寂が訪れつつあった。
リング上では、数分前まで世界の頂点を極めた男が、血溜まりの中に横たわっていた。セコンドや関係者が茫然自失としてその場に立ち尽くす中、初動対応を終えた制服警官に続いて、私服の捜査官たちが冷静な足取りでリングに近づいてくる。彼らの顔には驚きよりも、重大事件に立ち向かうプロフェッショナルとしての厳しさが浮かんでいた。
「現場保存だ!誰も余計なものに触るな!」
鋭い声が飛び交い、鑑識班員が到着する前に現場の状況を確認する作業が始まった。写真撮影担当者がフラッシュを焚きながらあらゆる角度から写真を撮り、捜査官たちは被害者の倒れていた位置、額に残された傷口、そして周辺に何か不審なものがないか、注意深く観察する。リングサイドの観客や関係者たちは、動かないように指示され、別室への誘導が始まった。彼らは皆、潜在的な目撃者であり、あるいは容疑者となりうる。
「信じられん…よりによって、こんな場所で」
主任刑事らしき男が、固い表情で呟く。観衆数万人の中で起きた、現役世界王者の射殺事件。これは単なる殺人事件ではない。ラスベガスの治安、ひいてはアメリカの顔に泥を塗る、国際的なスキャンダルに発展しかねない凶悪事件だ。
事件の重大性から、捜査は即座に連邦レベルへと引き上げられた。数十分後、黒いSUVがアリーナの裏口に到着し、連邦捜査局(FBI)の捜査官たちが降り立った。LVMPDの捜査責任者が彼らを迎え入れ、簡単な挨拶を交わした後、状況の説明が始まった。
「被害者は世界ライト級王者、リュウ・サワムラ。勝利直後、コーナーポスト上で射殺されたと思われます。単発のようです。恐らくライフルか、精度が高いハンドガンからの狙撃でしょう」
FBIの主任捜査官、冷静な眼差しを持つブロンドの女性が、無駄のない動きで現場を見渡す。
「狙撃ポイントは特定できているか?」
「まだ断定はできませんが、角度から見てアリーナの最上階、あるいは天井付近の構造物、VIP席などが考えられます。ただし、あれだけの騒ぎの中、犯人がどうやって凶器を持ち込み、発砲し、逃走したのか…全くの手がかりがありません」
LVMPDの担当者が、歯噛みするような表情で答える。数万人の人間が一斉に動けば、一人の人間が紛れ込むことなど容易い。凶器の発見も絶望的かもしれない。
FBIとLVMPDは合同捜査本部を設置することを決定した。アリーナの監視カメラ映像の回収、観客全員の身元確認と聞き込み、被害者であるリュウ・サワムラの周辺人物や過去のトラブルの洗い出し。あらゆる可能性が検討され、捜査は多角的に展開された。
なぜ、王者は狙われたのか?強盗?怨恨?それとも、彼の背後に何かがあったのか?賭博、組織犯罪、あるいは国際的な陰謀…?憶測が飛び交う中、ラスベガスの夜は、世界の頂点から転落した王者の血と、動き出した巨大な捜査機関の影に覆われていた。
捜査は始まったばかりだ。しかし、この前代未聞の凶行が、ラスベガスの、そして世界の暗部を白日の下に晒すことになるかもしれない、という予感が、捜査員たちの胸に重くのしかかっていた。
ラスベガスでの世界王者射殺事件のニュースは、瞬く間に地球を駆け巡った。まだ夜が明けきらない東海岸でも、主要なテレビ局は特別番組を組み、ネット上では推測と陰謀論が嵐のように渦巻いていた。あのラスベガスの華やかな舞台で、世界の頂点に立つアスリートが白昼堂々(いや、夜だったが)、何万人もの観客の前で射殺されたという事実は、あまりにも現実離れしていて、多くの人々はまだその衝撃から立ち直れていなかった。LVMPDとFBIが合同で捜査を開始したというニュースも流れていたが、犯人の手がかりは皆無だという報道が不安を煽る。
そして、ラスベガスの事件からわずか十数時間後、世界経済の中枢であるニューヨークにも、深い影が忍び寄っていた。
ウォール街の朝は、いつも通り慌ただしかった。トレーダーたちがカフェイン片手に足早に行き交い、ビジネスマンたちが書類を小脇に抱えて摩天楼の谷間を縫って歩く。ニューヨーク証券取引所(NYSE)の重厚な建物の前では、観光客が記念撮影をし、警備員が鋭い視線で周囲を警戒している。開場前の静けさの中に、これから始まるであろう取引の活気が微かに感じられた。
午前9時を少し回った頃だった。
突如として、NYSE(ニューヨーク証券取引所)の建物の一部から、地獄の咆哮のような轟音が響き渡った。
ドォォォォンッッッ!!!
分厚い窓ガラスが、一瞬にして粉々に砕け散り、金属片やコンクリートの破片が爆風と共に四散する。立ち込める黒煙、そしてオレンジ色の炎が瞬く間に噴き上がった。建物の前を歩いていた人々は、吹き飛ばされるか、耳を塞いでうずくまる。爆心地に近い場所からは、悲鳴ともつかないうめき声が聞こえてきた。
一瞬の静寂の後、ウォール街は阿鼻叫喚のパニックに包まれた。人々は我先にと逃げ出し、転倒する者、助けを求める者でごった返す。どこからか自動火災報知機や緊急車両のサイレンが鳴り響き始め、混乱に拍車をかけた。
NYSE内部でも、爆発の衝撃は凄まじかった。トレーディングフロアは騒然となり、モニターは火花を散らし、天井の一部が崩落する。職員たちは悲鳴を上げながら、煙と粉塵の中を出口へと殺到した。
刻一刻と状況を伝える速報が、テレビやインターネットを通じて世界中に発信される。「ニューヨーク証券取引所で爆発発生」「原因不明」「複数個所か?」「テロの可能性」…断片的な情報が飛び交い、混乱を深める。
当然ながら、金融市場は瞬く間に反応した。株価は急落し、為替レートは乱高下する。世界経済の心臓部が襲われた衝撃は、計り知れない。
そして、人々の脳裏に、前日のラスベガスでの事件が蘇る。
「まさか…これも、関係が…?」
「偶然じゃない…テロだ!」
「誰が?なぜ?」
世界王者の射殺。そして、世界経済の象徴である証券取引所の爆破。あまりにも異なる場所で起きた事件だが、その異常性と、立て続けに発生したタイミングは、これが単独の犯行ではないことを強烈に示唆していた。
ウォール街に立ち上る黒煙は、単なる物理的な破壊の跡ではなかった。それは、アメリカ全土、いや、世界中に向けられた、見えない敵からの挑戦状のようにも見えた。恐怖と不安が、摩天楼の谷間を吹き抜ける風に乗って、人々の心に深く突き刺さっていく。
ラスベガスに続き、ニューヨークでも非常線が張られ、市警とFBI、そして国土安全保障省など、あらゆる捜査機関が総動員され始めた。前代未聞の連続攻撃の犯人を追う、時間との戦いが、今、静かに幕を開けたのだ。
ニューヨークで生した爆発のニュースは、まるで疫病のように瞬く間に世界中に伝播した。前日のラスベガスでの事件の衝撃も冷めやらぬ中、経済の中心が襲われたという事実は、単なる犯罪を超えた、何らかの意図を持った攻撃であることを強く示唆していた。主要国の首脳は緊急会談を招集し、金融市場はパニックに陥り、世界中の都市で警戒レベルが引き上げられた。
そんな緊迫した空気が世界中を覆う中、地球の裏側、太陽がようやく昇り始めたヨーロッパでも、新たな悲劇の幕が開こうとしていた。
フランス。歴史と文化、そして自由を愛する国。いつものように、パリのカフェでは人々がクロワッサンを頬張りながら新聞を広げ、街路では観光客が賑やかに散策し、地下鉄は通勤客でごった返していた。ニューヨークでの爆発のニュースは、多くの人々の会話の端々に上ってはいたが、遠い異国の出来事として、どこか現実味を伴わずに語られていた。
その平穏が、突如として破られたのは、午前中の最も人出の多い時間帯だった。
賑わう駅の構内、あるいは大きな商業施設のフードコート、あるいは観光名所の近くの広場。複数の、あるいは一人の男が、隠し持っていた自動小銃を取り出した。
乾いた、そして耳をつんざくような銃声が、立て続けに響き渡る。
「パン!パン!パンッ!」
一瞬、人々は何が起きたのか理解できなかった。しかし、次の銃声、そして倒れ伏す人々の姿を目にした時、恐怖が津波のように押し寄せた。
「キャアアアアアアッ!!!」
「逃げろ!逃げろ!」
パニックに陥った人々が、出口を目指して殺到する。椅子やテーブルが倒され、商品が散乱する。犯人は、まるで獲物を狩るかのように、無差別に銃弾を浴びせ続けた。煙と硝煙の臭いが充満し、現場は血と悲鳴に染まった。
通報を受けた警察や国家憲兵隊が、現場に急行する。防弾チョッキを着用し、アサルトライフルを構えた治安部隊が突入し、犯人との激しい銃撃戦が始まった。一般市民を避難させながらの制圧作戦は困難を極める。
テレビのニュース速報が、フランスでの銃撃事件を報じ始めたのは、ニューヨークの爆発からまだ数時間しか経っていない頃だった。現場からの中継映像には、規制線、集まるパトカー、そして恐怖と混乱に顔を歪める人々の姿が映し出されていた。
「フランス、パリ近郊で銃撃事件発生。多数の死傷者が出ている模様です」
アナウンサーの声が、緊迫感を伴って響く。
ラスベガス、ニューヨーク、そしてフランス。
立て続けに発生したこれらの事件が、もはや偶然ではないことは明白だった。これは、世界中の人々が抱いていた漠然とした不安が、現実のものとなった瞬間だった。 coordinated attack. 組織的な、そして計画的な、大規模なテロ攻撃。
世界中の指導者たちは、即座に非難声明を発表し、テロとの戦いを誓った。各国は空港や主要施設の警備を厳重にし、情報機関は緊急態勢に入った。インターネット上では、事件の映像や情報が錯綜し、恐怖と怒りの声が溢れかえる。
平和な日常は、脆くも崩れ去った。ラスベガスの砂漠の熱気、ニューヨークの金融街の喧騒、そしてフランスの穏やかなカフェの空気。それぞれ全く異なる場所で起きた悲劇が、一本の暗い線で結ばれた時、世界はかつてないほどの危機に直面していた。
一体誰が、何のために、このような凶行に及んでいるのか?犯人の正体も、その目的も、未だ闇の中だ。
しかし、確かなことが一つだけあった。
世界は、大きく、そして決定的に変わってしまったのだ。
フランスでの銃撃乱射事件のニュースが世界を駆け巡り、主要各国の首脳が緊急の声明を発表している頃、太平洋の向こう、日本列島では夜を迎えようとしていた。ラスベガスの事件、そしてニューヨークでの爆発、立て続けに起こる凶行に、日本でもテロへの警戒感が急速に高まっていた。テレビでは専門家がコメントし、インターネット上では不安の声が飛び交っている。
そんな中、ニュース速報のテロップが画面下を走り抜けた。
『速報:志賀原子力発電所でシステム異常。緊急アラーム作動』
その文字列を目にした瞬間、日本中に新たな緊張が走った。ただのシステムトラブルであることを願う声と、まさかという不安の声が混ざり合う。しかし、続く報道が、その不安を決定的なものにした。
「志賀原子力発電所より入った情報によりますと、先ほど、原子炉の制御システムにおいて、通常ではありえない異常値が検出され、これに伴い緊急停止システムが作動した模様です。原因は現在調査中ですが、複数の専門家からは、外部からの不正アクセスの可能性が指摘されています」
テレビ画面に映し出された原子力発電所の外観と、緊迫した表情のアナウンサー。日本列島を襲ったのは、物理的な破壊行為ではなかった。見えない敵による、より巧妙で、より恐ろしい攻撃の可能性だった。
日本の官邸では、危機管理センターに明かりが灯り、首相以下、関係閣僚や専門家が集められていた。モニターには志賀原発から送られてくるデータの一部が映し出されているが、その全てが異常を示している。
「どういうことだ!?ハッキングだというのか!?」
首相の厳しい声が響く。
「現時点では断定できませんが、システムログに不審な通信記録が見つかっています。極めて高度な手法が使われている可能性があり、解析に時間がかかっています」
担当者の声は震えていた。原子力施設のシステムは、通常、外部ネットワークから厳重に隔離されているはずだ。それを突破したということは、犯行グループが並外れた技術力を持っていることを意味する。
志賀原発周辺の自治体では、住民への避難指示が検討され始めていた。原子力災害への恐怖が、人々の心に暗い影を落とす。もし、制御不能な事態に陥れば…その先を考えるだけで、背筋が凍る。
この日本の事件もまた、瞬く間に世界中に報じられた。ラスベガスの射殺、ニューヨークの爆破、フランスの銃撃。そして、日本の原発へのサイバー攻撃。明らかに異なる種類の攻撃でありながら、全てが短期間に連続して発生しているという事実は、これが単なる偶然ではないことを強く示唆していた。
「これは、世界のインフラ、そして人々の心臓部を狙った、組織的なテロだ…」
海外のニュースキャスターが、険しい表情で語る。特に、原子力施設への攻撃は、その潜在的な被害規模から、国際社会に計り知れない衝撃を与えた。核テロの可能性が、現実味を帯びて囁かれ始める。
見えない敵は、物理的な破壊だけでなく、高度な技術力をも駆使して、世界の秩序を揺るがし始めていた。ラスベガスの熱狂も、ニューヨークの経済も、フランスの日常も、そして日本の安全神話も、全てが一瞬にして崩れ去ろうとしていた。
世界は、混沌の淵へとゆっくりと、しかし確実に引きずり込まれていく。そして、この一連の事件の背後に潜む闇は、ますますその深さを増していくのだった。
フランスでの銃撃事件、そして日本の原発での緊急アラームのニュースが世界を駆け巡り、混乱と不安の波が広がっていた。各国政府は警戒レベルを最高度に引き上げ、情報機関は必死に事件の関連性や犯人の特定を進めていた。世界が、見えない敵の次の攻撃を固唾を呑んで待っていたその時、それは起こった。
今度は、アメリカ大陸の西海岸だった。
夕暮れ時、あるいは夜が始まったばかりの西海岸の主要都市。ロサンゼルス、サンフランシスコ、シアトル…活気に満ちた街々は、無数の光を放ち、まるで地上の星空のようだった。人々は仕事を終え、家路につき、あるいはレストランやバーで談笑している。日本の原発のニュースを不安げに見守っている者もいれば、遠い出来事として気に留めていない者もいた。
その無数の光が、一瞬にして、消えた。
街全体を覆っていた煌めきが、まるで誰かが巨大なスイッチを切ったかのように、一斉にブラックアウトしたのだ。高層ビルの窓の明かりが消え、街路灯が消え、信号機が機能を停止する。家庭のテレビやパソコン、エアコンの音も消え失せ、不気味な静寂が、耳鳴りのように響いた。
最初の数秒間、人々は何が起きたのか理解できなかった。単なる停電か?しかし、これほどの規模は経験したことがない。ビルの中にいた人々は、突然の暗闇とエレベーターの停止に戸惑う。車に乗っていた人々は、消えた信号機に混乱し、渋滞が発生する。
そして、静寂はすぐにパニックへと変わった。
「何だ!?どうしたんだ!?」
「電気が消えたぞ!」
「携帯もつながらない…!」
通信網も機能不全に陥り始めていた。携帯電話の電波は不安定になり、インターネット回線も繋がりにくい。情報が遮断されたことによる不安が、人々の恐怖をさらに煽る。暗闇に包まれた街では、誰かが叫び、誰かが助けを求める声が響き渡った。
電力会社や当局からの発表は、非常に限定的だった。「大規模な電力供給システム障害が発生」「原因は現在調査中」「復旧の見込みは不明」といった情報が断片的に流れるのみ。しかし、このタイミングでの、これほどの広範囲にわたる停電は、単なる事故であるとは考えにくかった。
ラスベガス、ニューヨーク、フランス、そして日本の原発での不審な動き。立て続けに発生している異常事態は、もはや偶然の一致では片付けられない。西海岸全体が闇に沈んだことで、多くの人々の脳裏に、これが一連の、高度に連携された攻撃の一環であるという疑念が確信へと変わった。
見えない敵は、都市の機能、経済の基盤、そして人々の安全を、物理的手段とサイバー攻撃の両面から狙っていたのだ。その手口は巧妙で、その目的は不明。しかし、その破壊力は、世界中の人々に、自分たちの日常がいかに脆弱な基盤の上に成り立っているかを突きつけた。
闇に沈んだ西海岸の街並みは、まるで巨大な墓標のように静まり返っていた。星空だけが、遥か彼方で瞬いている。しかし、地上にいる人々にとって、その光は慰めにはならなかった。見えない敵の影が、暗闇の中で蠢いているように感じられたからだ。
世界は、予測不能な恐怖に支配され始めていた。そして、この漆黒の闇の先に、一体何が待ち受けているのか、誰にも見当もつかなかった。