深層の魔物と、英雄と、臆病者、そして「悪魔」
そうして、僕を襲った焦燥感なんて気のせいとでも言っているかのように、
三階層まで特に何のトラブルも無く(というか、魔物が一匹も出現すること無く)、
ごくごく平和に、このフロアの中でも、いちばん広大な空間へと出た。
行き掛けに3パーティで魔物を倒してしまったため、
ここまで全く魔物が出現しなかったこともあって、再試験の参加者にはどこか緩んだ空気が漂っていた。
僕はと言うと、さっき感じた変な焦燥感が残っていて、思い込みだってわかってても、
油断する気にはなれないけど……。
石川君、山吹さん、夏川さんに関しては、特にトラブルもなく、
参加者の全員が留年を回避できそうなのも、そんな空気を作るのを後押ししていたんだと思う。
そんな中…………ちらり、と七瀬さんを盗み見る。
相変わらず真剣な表情で緊張感を保っている七瀬さんは、
やっぱり僕たちとは探索に対する姿勢や態度が違っていて、
さすがAランクなんだなって……そんなことを思わされた。
そして……彼女の横顔が綺麗すぎて、僕は思わず見惚れてしまい……。
【石川】
「なんだ、久遠って七瀬のことが好きなのか?」
【彼方】
「いいいいいいっ!? い、いや、あのさっ……僕なんかが好きになったらっ、
七瀬さんに迷惑だしっ……」
石川君に視線を読まれて、僕は慌てて弁解するけど……弁解すればするほど、
七瀬さんのことを好きだって言っているようなモノだと思う。
【石川】
「何言ってんだよ、人を好きになるのは、相手に迷惑掛けない限りは自由だろ?」
そう言って石川君は僕に向かって笑いかけてくれるけど……。
【彼方】
「い、いや、そうかもしれないけどさ、えっと……僕なんかが七瀬さんのこと、好きになっても……」
【石川】
「留年寸前とAクラスだからって怯んでんのか?
俺たちってまだ十六歳だろ、これからいくらでも成長できる訳だしな、
自分の可能性くらいもう少し信じろよ」
どうやら石川君は、からかってる訳じゃなくて……本気で僕を励ましてくれている。
【彼方】
「うん、それはそうかもしれないけど…………」
石川君は……二階層すら満足に探索できない僕なんかが、
七瀬さんに似合うような、一流の探索者になれると思っているんだろうか?
そんなの……夢のまた夢すぎる。
だけど、ひとつわかったことがある。
石川君は、底抜けに「いい人」だ。
今回、いろいろとトラブルが多かったり、山下君に余計な恨みを買った気はするけど、
だけど……彼と知り合えただけでも、再試験に参加したのは全くの無駄じゃなかった。
―――――――――そんなことを考えた瞬間、フロア内がまばゆい光に包まれた。
【彼方】
「え……………………?」
……………………直後……フロアの真ん中に、どしん、と……重量感のある巨大な「何か」が、突然現れた。
砂埃が舞い……その中に現れた巨大な魔物に、僕は目を疑った。
――――――――サイクロプス。
ダンジョンの深層からしか生み出されない筈の、高レベル帯の魔物。
そんな強力な魔物が、三階層に出現するなんて……聞いたことが無い。
【小夜】
「今すぐ退避してっ、サイクロプスは深層の高レベルの魔物だからっ、距離を取ることを最優先にっ!」
そして……いちばん最初に出現した魔物に反応した七瀬さんの声が、フロア内に響いた。
直後……凄まじい圧力を持つサイクロプスが、僕たちのほうに接近してくる。
フロア内に悲鳴と怒号が響き渡った。
そして、サイクロプスは棍棒を振り上げ…………いちばん近くにいた夏川さんを狙い、
凄まじい速度で、頭に叩きつけ―――――
【小夜】
「――――ふっ……はぁああああああっ!」
突然の出来事にも関わらず、七瀬さんの反応は早かった。
夏川さんに叩きつけられる筈の棍棒を、七瀬さんの杖によって横から弾き、軌道を変える。
そのまま軌道が変化した棍棒は地面を叩き、サイクロプスの顔はがら空きになり……、
七瀬さんが凄まじい速度で杖を振るった。
サイクロプスが、その場に崩れ落ちる。
【小夜】
「夏川さんっ、大丈夫っ!? サイクロプスは私が相手をするから、今すぐ…………」
七瀬さんの言葉が、目の前の光景に思わず途切れた。
―――――――最悪なことに、魔法陣は次から次へとフロア内に発生し、
そこからぞろぞろと強力凶悪な魔物が、次々に出現する。
サイクロプスだけじゃない、魔物でありながら技術を使用するリザードマンメイジ、
凄まじい耐久力を誇るゴーレム、圧倒的な「力」で斧を振り回すミノタウロス…………。
「深層」と呼ばれる、二十階層以下にしか出現しない魔物が、次から次へと目の前に召喚される。
合計、四体…………。
……………………一体でも圧倒的な存在感だったのに。
四方を深層の高レベルの魔物に囲まれるという、
冗談としか言えないような光景が目の前に広がって……、
七瀬さんを除く全員が、恐れ、驚き……圧倒的な圧力に、何も言えなくなってしまう。
【??】
「な、なぁ……これも試験の一環なのかよ…………」
再試験組の誰かが、そんな希望的観測を口にしたけど……、
いくら何でもこんな魔物を学生の前に出現させる訳がない。
深層の魔物は……低レベルの探索者なんて、一撃で余裕で葬り去る。
そして……このケースは、以前に見たことある。
世界でも今までに数ケースしかない、「深層の魔物が突然、上階層に召喚される」という事故。
ネットの噂とか都市伝説が好きな僕は……たまたまこのケースのことを知ってるけれど、
こんなレアケース、普通の学生は知らないし、予想も出来ない。
そしてさらに、僕の目の前に、まるで瞬間移動でもしたかのようにサイクロプスが移動し。
――――――――僕に向かって、棍棒が振り下ろされた。
【小夜】
「久遠君っ!」
恐れおどろきおののくしか出来ない僕とは違い、七瀬さんの反応は早かった。
視界の隅で……七瀬さんが凄まじい速度で僕に駆け寄り、
そして……抱きかかえるようにしてサイクロプスからの一撃から庇ってくれていた。
【彼方】
「っ……けほっ……けほっ…………」
目の前の視界がめまぐるしく変化する、そして……七瀬さんに庇ってもらったことを、
数瞬してから理解した。
一方……みっともなく態勢を崩した僕とは違い、七瀬さんは一瞬で態勢を整えて僕の前に出る。
【小夜】
「久遠君、退路を探してっ!」
【彼方】
「う、うんっ…………」
完全にパニック状態の思考の中……なんとか頭のスイッチを入れ直して、懸命に退路を探す。
だけど……。
【彼方】
(っ…………ちょっと待って…………)
【??】
「お、おい……マジかよっ……おいおいおいっ…………」
誰かの声が聞こえた……いや、ここにいる全員がきっと、同じことを思った。
四体だけじゃない、再度、数えきれないほどの魔法陣が出現し……次から次に…………、
深層の魔物が目の前に召喚されていく。
数えたくないほどの圧倒的な圧力を持つ魔物達が現れ…………退路が…………、
僅かな時間の中で、あっという間に消失した。
四階層へと戻る道にも、二階層へ続く道にも……強力な魔物が立ちふさがっている。
…………絶体絶命。
そんな文字が頭の中に浮かんで……ガクガクと身体の震えが止まらなくなる。
しかも、まだ魔法陣の出現が止まらない、突然生じた魔法陣から、サイクロプスが出現とともに、
僕なんかには見えないレベルの速さで棍棒を横薙ぎして……。
――――――――叫び声をあげる暇もなく、三人、消えた。
【??】
「ああああああっ、お、おいっ、マジかよっ……」
【??】
「ちょ、ちょっと待てっ、ここ低階層だぞっ……」
三人がいた痕跡は、サイクロプスの棍棒に付着した血液と、周囲にまき散らされた肉片だけだ。
突然訪れた、目の前の「死」の光景に……七瀬さん以外の全員が、みっともなくうろたえてしまう。
――――――――――――――――ダンジョンは、何が起こるかわからない。
ハイリターン以上に、いつ、命が脅かされるかわからないリスクが、次から次へと押し寄せてくる。
探索者は、学園の授業で何度もそう教えられているが……こうして、実感させられたのは初めてだった。
ガクガクと身体の震えが止まらない、目の前が絶望で暗く染まりそうだった。
【石川】
「…………い、おい、久遠っ……………」
【彼方】
「ぅ、ぁ……石川、君…………?」
【石川】
「七瀬一人じゃ、無理だっ……俺も前に出て、せめて魔物を攪乱する……、お前も身体が動くなら、頼むっ…………」
【彼方】
「っ…………」
あまりの恐怖から、僕は半ば意識を失っていた。
そんな中……七瀬さんは孤軍奮闘で魔物達を牽制している、
そして、石川君もそのフォローに向かうつもりのようだった。
こんな時でも、石川君はしっかりとしていて……顔を青ざめながらも僕を統制してくれて、
先に自分は駆け出して、出来ることをしに行った。
男だったら……七瀬さんを守るために動くべきだって、自分でもわかってる。
【彼方】
「は……ぁ…………う…………うううううう……」
だけど……動かない。
僕の足はただ震えるだけで、一切動いてくれない。
だって……視界の隅で、次から次に再試験の参加者が………潰されているから。
サイクロプスの棍棒で、ミノタウロスの斧で、リザードマンメイジの魔法で、ゴーレムの腕で、
命が……まるで紙のように吹き飛んでいく。
――――――――「死」の恐怖を、甘く見ていた。
こんなに怖い目に遭うんだったら、探索者なんて目指さなければよかった。
そう考えた瞬間……視界の隅で……石川君のほうに、リザードマンメイジが魔法を放った。
【彼方】
「あ、え――――――――――――――――?」
さっきまでそこにいた石川君が…………声を出すこともなく、あっさりと、消えた。
石川君だけじゃない……他の再試験の学生も、次から次へと……深層の魔物の攻撃で…………吹き飛ばされていく。
―――――――ぐしゃり……ぐちゃ……ぐちゃ……ぐしゃっっっ…………。
打撃音と水音が混ざった音が…………フロア内に響き渡る。
ごつごつとした「灰色の地面」に……あっという間に「赤」が広がる。
【彼方】
「ぅ、ぁ…………こんなの、嘘だ…………ぁ…………ぅ、ぁ…………」
……………………ここは、地獄だった。
僕は目の前の光景に絶望して……ただ、呟き震えることしか出来ない。
そして……そんな情けない探索者を、深層の魔物が見逃すはずがない。
ミノタウロスが凄まじい速度と重量感で接近して、僕に向かって斧を振り下ろした。
【彼方】
「ぅ、ぁ……待ってっ……ぁああああああああああっ!?」
恐怖のあまり、身体が動かない……。
頭部から一刀両断しようとする斧を、身体を強引に倒すことで回避することが、精一杯だった。
だけど……斧が掠め、その直後、掠めただけにも関わらず、僕は派手に吹き飛ばされ…………。
………………………………気が狂いそうな痛みが、僕の右足の先を襲った。
【彼方】
「ぁ、……ぁ、………………ぁあああああああああああああああっ!?」
右足の甲が…………失われていた。
それに気付いた瞬間、目の前がブラックアウトして、突然の失血状態に陥ってしまう。
【彼方】
「ぅああああああっ!? ぁあああああああっ、足がっ……ああああああっ!?」
四肢の一部を失った衝撃と痛みで……僕は叫び声をあげることしかできない。
そしてその叫び声が、サイクロプスの嗜虐心を刺激したんだろう、
嬉々として僕に近付いてきた…………。
【小夜】
「久遠君っ!」
今、僕に出来ることは……おとなしくサイクロプスに殺されることだけだ。
しかし――――――――
僕の目の前に……七瀬さんが現れた。
【小夜】
「っ…………ぁっ…………」
七瀬さんは僕をかばって…………サイクロプスの一撃を、右肩で受け……凄まじい速度で吹き飛ばされた。
【彼方】
「ぁあああっ……ぁ、ぅっ……ぁあああああああっ……ななせ、さんっ…………ひぐっ……」
【彼方】
(僕のせいだっ……僕のせいで七瀬さんがっ……ぁああああああっ…………)
僕を守らせて、七瀬さんは吹き飛ばされた。
彼女のことが心配で心配でたまらない感情は、僕の心の中に在る。
そして……応急処置でも、周囲の魔物から盾になることでも、囮になることでも、
なんでもいいから今すぐに足を動かして、行動しないといけないはずだった。
だけど……。
【彼方】
(どうしてっ……どうして僕の脚はっ、こんな状況なのに動いてくれないんだよっ、
このままだと七瀬さんがっ、ぁああああああっ!)
さっきからの止まない恐怖で、僕は身動きひとつ取れない。
そんな自分が、みっともなかった。
そして……こんな状況で身体が全く動かないのは、自殺行為以外の何物でもない。
【小夜】
「っ………はぁっ……久遠君っ……私なら大丈夫だからっ…………」
立ち尽くす僕に対して、七瀬さんは素早く起き上がって、僕に魔物が近付かないよう、杖を振り回し牽制してくれる。
【彼方】
「う、ぁ……………なな、せ、さんっ…………」
彼女が無事なことを確認して、僕は思わず安堵してしまい…………。
……………………魔物への警戒心を、途切れさせてしまった。
【小夜】
「ぁ…………久遠君っ……避けてっ…………」
【彼方】
「え、ぁ、ぅあ、ぁあああああっ!?」
次は…………リザードマンメイジの魔法が、すぐ僕の隣の地面を…………派手に抉った。
岩石が僕へと降り注ぎ、肌が抉られ衝撃を受けてしまう。
不幸中の幸いだったのは……他の魔物が僕より派手に巻き込まれて、僕から離れてくれたことだ。
だけど……そんな猶予時間もあっという間に消え去ってしまう。
視界の隅で、ミノタウロスが接近し……僕に斧を振り下ろす!
【彼方】
「ぁ…………ぅ、ぁ…………ぁあああああっ…………」
守って欲しい……こんな怖い状況、嫌だ…………。
【小夜】
「久遠君っっっっ…………………」
そして……みっともない願いに応えるように、
七瀬さんは凄まじい速度で僕の目の前に現れ……振り下ろされた斧を、杖で弾いた。
直後……腕を引いて安全圏まで退避させてくれる。
普段だったらドキドキしてしまうような七瀬さんの行為も、今の僕には応対する余裕なんて無い。
だって、その安全圏も、周囲の魔物が少しでも近付けば安全じゃなくなる。
…………そして、事実、そうなった。
背後から、リザードマンメイジが再度魔法で僕を狙う………。
【小夜】
「っ……久遠君っ…………やぁああああああっ!」
直前、七瀬さんがリザードマンメイジの火炎に、火炎魔術を放ち、相殺する。
二つの火球が衝突、爆発し…………吹き飛んでしまいそうな爆風が、僕を襲った。
【彼方】
「ぅ、ぐっ………」
だけど、僕なんかより七瀬さんのほうが心配だ、
詠唱も予備動作もなく、強引に魔術を起動することは精神力の枯渇を起こしかねない。
僕なんかを守るより、七瀬さんが生存するために、精神力は保っておいて欲しい。
事実、強引な魔術行使により目眩がしたのか、彼女の身体が揺らぐ。
けれど、それも一瞬のことで………。
【小夜】
「守れなくて、ごめんね…………? 時間は私が稼ぐから……久遠君は、逃げて?」
僕の前に立って……七瀬さんは、守ろうとしてくれていた。
【彼方】
「な、七瀬さん……ぁ、ぅ…………ご、ごめんっ……」
七瀬さんが謝る必要はない、謝る必要があるのは…………何も出来ない、僕だ。
【小夜】
「ううん、気にしないで?」
こんな絶体絶命な状況にも関わらず……七瀬さんは、足手まといである僕を、
一ミリたりとも責めるような仕草も口調もなく、守ってくれていた、庇ってくれていた。
……安心させるような笑顔を向けてくれた。
…………こんな子を、僕なんかを守らせるために、命を落とさせる訳には行かない。
そう考えて、せめて他の誰かを助けて欲しいと……周囲を見回した。
だけど……。
【彼方】
「ぅ、ぁ…………ぁ……嘘、だ…………」
いつの間にか……生存しているのは僕と七瀬さんだけになっていた。
そして……僕なんかよりずっと冷静な七瀬さんは、その事実にとっくに気付いていたと思う。
そんな風に僕が戸惑い、モタモタしている間に……七瀬さんは振り返り……彼女は口にする。
【小夜】
「少しでも、魔物の数を減らすから……久遠君は、逃げて……?」
そして……いくら七瀬さんでも、これだけの数の深層の魔物に、敵うはずがない。
なのに、まるで僕を安心させるように、彼女は微笑んで……。
【小夜】
「やぁあああああああああああああっ!」
凛々しい声をあげながら……僕を守るように、駆け出した。
…………彼女は、英雄だった。
僕みたいに……今にも死にそうな弱小の探索者を守るために、何の計算もなく、
魔物の大群へ向かっていく。
数多くの屍を目の前にして……だけど、心折れることなく、
他者の命を少しでも長らえさせるために、魔物に挑み続ける……。
しかも……「探索者になる時に覚悟はしてる」なんてうそぶきながら、
右足を失ってみっともなくうろたえている僕なんかを助けるために。
どっちの命が価値があるなんて、わかってるはずだ。
…………僕の未来は、小金を稼いで毎日をなんとか暮らすことが精一杯の底辺探索者だ。
でも、彼女は違う、現段階でも国内でも有名な探索者で、Aランクも目前の女の子だ。
将来的には、世界の安定を担う探索者になることは間違いない、
僕なんかより、ずっとずっと価値がある人間のはずだ。
……………けれど、そんな損得勘定なんて、彼女は考えていなかった。
僕が子供の頃になりたかった英雄が、目の前にいた。
彼女は…………英雄だった。
【小夜】
「ぁあああああああああああああっ!」
英雄と呼ぶに相応しい凛々しさと神々しさを備え、
呼気とともに、彼女の杖が凄まじい速度で縦横無尽に奔る――――――――
背後から襲い掛かるサイクロプスの棍棒を弾き、ミノタウロスの斧を回避し……、
反撃の一振りで吹き飛ばす。
小柄で細い身体のどこに、魔物を吹き飛ばす程の力があるのか、予想も想像もつかない。
リザードマンメイジの詠唱を止めるために、助走をつけ、槍投げの要領で杖
凄まじい速度の杖が正確に、リザードマンメイジの頭部に衝撃を与え、詠唱を中断させる。
しかも……後ろで怖がっている僕に、魔物が接近しないように七瀬さんは動いている。
完全に、足手纏いだった……僕が何の助けにもならないどころか、
僕を守るために完全に七瀬さんは自由を失っている。
そのことを理解していても……僕の身体は、情けないことに……動いてくれない。
ただ見ていることしか出来ない僕の目に……さらなる最悪な光景が飛び込んできた。
空中に紫色の魔法陣が生じ、その数瞬後……新たな魔物が現れた。
――――――――ワイバーン。
深層の空中を高速移動する、鳥型の高レベル帯の魔物。
空中に突然現れたワイバーンは、七瀬さんに急速に接近し……そして……彼女の肩を、爪で抉った。
【小夜】
「っ…………」
その衝撃で杖を落とし……その隙を、魔物達が見逃す筈が無かった。
次から次へと現れたワイバーンが、七瀬さんに凄まじい速度で接近し、
七瀬さんの白い肌を傷つけていく。
だけど……白い柔らかな肌が…………魔物の爪で切り裂かれても、七瀬さんは、怯まない…………。
そして…………僕を守るような位置で、彼女は……また、素早く杖を拾い上げ、
身体中の傷なんて気にする様子もなく…………戦い続ける。
【彼方】
「あああああああああああああああああっ!」
自分の情けなさに、思わず叫んでしまう。
【彼方】
(何やってるんだ……何やってるんだ……何やってるんだ……僕は何をやってるんだっっっっ!?)
目の前が怒りによって真っ赤に染まる。
けれど、それは魔物への怒りじゃない……僕自身への怒りだ。
…………いくら魔物が怖くても、受けた傷が痛くても、
好きな女の子を矢面に立たせて自分はただ見てるだけなんて、そんなの、最低最悪すぎる。
【彼方】
(動けっ……動け動け動けっ……どうして震えることはできるのにっ、どうして動かないんだよっっっ……)
自分が情けなくなった僕は…………残った勇気を強引に奮い立たせて、七瀬さんと一緒に戦う決意をした。
そして…………やっとのことで、全身が震えながらも、魔物へ向かって一歩だけ……足を踏み出せた。
…………けれど、それはもう遅かった。
背後から七瀬さんに近付いたサイクロプスが……七瀬さんの細い体に、棍棒を振り下ろした。
直後…………七瀬さんの身体が…………吹き飛ばされた…………。
――――――――七瀬さんは、動かない。
【彼方】
「あ、え…………? 七瀬、さん…………? ちょっと、待って…………」
……………………現実を、認めたくない。
――――――――七瀬さんの身体のいたるところが、おかしな方向に折れ曲がっている。
目の前の光景が、嘘であって欲しい。
――――――――ダンジョンの地面に、七瀬さんの「赤」が広がっていく。
【彼方】
「ぅ、あ……あああああああああっ……七瀬、さん…………っっっっっっっっ!?」
目の前の光景に心が引き裂かれている最中に……いきなり……死角から吹き飛ばされた。
何の魔物に、どんな攻撃をされたのか、全くわからない。
ただ…………七瀬さんの死を悼む暇も、悲しむ暇もなく……死角からの魔物の一撃で、
派手にダンジョンの壁に叩きつけられ、痛みで一瞬、思考力を失ってしまう。
その直後………………突然、辺りが眩い光に包まれ、爆発音と「ぐしゃり」という……、
肉がつぶれる音がした。
【彼方】
「……………………え?」
……リザードマンメイジが得意気に……七瀬さんがいた辺りを見ていた。
――――――――そして…………さっきまで倒れていた七瀬さんは、どこにもいなかった。
【彼方】
「…………………………………………………………………………、ぅ、ぁ…………こんなの…………嘘、だ…………」
七瀬さんが今の光でどうなったのか…………考えたく、ない…………。
けれど……考えなくても、感情が理解してしまう。
【彼方】
「ぁ…………ぁ、ぁああああああああああああっ!」
何をされても怒りを覚えることが無かった僕は……この時初めて、「怒り」という感情を理解した。
怒りで、目の前が真っ赤に染まる。
けれどその怒りは、目の前の「魔物」に向けられたものじゃない。
七瀬さんに守ってもらったのに、けれど、何も出来ない自分自身に対しての怒りだ。
…………どうして僕はこんなに弱いんだ。
…………どうして僕は今日まで努力しなかったんだ。
もし今日って日が来ることがわかってたなら、僕は死ぬ気になって、必死になって努力して。
こんな弱い自分で居る気なんて、無かったのに。
毎日頑張っていない僕なんて、七瀬さんに守ってもらう価値なんて無かったのに。
殴りかかりたい、斬り殺したい……敵わなくても、せめて一矢は報いたい。
【彼方】
「はぁっ……はぁはぁはぁっ……はぁっ…………あああああああああああああっ!」
そして…………今更になって、やっと僕の脚は動いてくれた。
だけど…………………………………………………………。
――――――――――――――――もう、遅かった。
【彼方】
「く、そっ……くそぉおおおおおおおっ……」
…………なんで僕は、こんなに弱いんだ。
…………なんで僕は、もっと本気で努力しなかったんだ。
…………なんで僕は、必死になって生きなかったんだ。
分不相応の望みなんて抱かない、そんな風に嘯きながら、弱いままの自分を肯定してたっ!
バカみたいな夢を抱いても、バカみたいに努力して、バカみたいに頑張ればよかったっ!
教室の隅で、誰かに笑われないような毎日を生きるよりも。
みっともなく努力して、自分自身を成長させることが出来れば……こんなことにはならなかった。
こんな日が来るってわかってたら、僕はもっと必死になって努力してた。
こんな思いをするってわかってたら、死ぬ物狂いでダンジョンに潜って、
才能なんてなくても毎日必死に努力して、
七瀬さんを守れるような人間になれるよう、少しでも頑張るべきだった。
才能がない癖になんで努力してるんだって、笑われてもよかった。
なんで僕は笑われることを怖がっていたのか、過去の自分を殴りたくなる。
後悔が次々に押し寄せてくる、けれど……魔物は待ってくれない。
時間を無駄にしたことに、強い後悔を抱いていても……時間は戻ってくれない。
そんな風にみっともないことを考えいる間も……目の前にサイクロプスが接近してくる。
普段の僕だったら……きっと、押し寄せる恐怖心によって、何もできなかったと思う。
けれど、今の僕は……自分自身への怒りで目の前が真っ赤に染まってる。
【彼方】
「ぁあああああああああああああっ!」
怒りに身を任せ、自暴自棄になりながら……僕は……巨体へと貧弱なナイフを振り下ろした。
【彼方】
「っっっっっっ…………」
岩のような硬度のサイクロプスの皮膚で、僕のナイフはあっさりと欠ける。
サイクロプスは煩わしさを感じたのか、乱暴に腕を振り回す。
ナイフが吹き飛ばされる、同時に僕の身体も吹き飛んでしまう。
それでも怒りが止まらない……吹き飛ばされる身体を、強引に、無理矢理に動かして、
地面を両足で踏みしめる。
右足の甲を失っているため、強い痛みが走るけど、構っていられない、
そして……怒りに身を任せ、僕はダンジョンの床を蹴って……サイクロプスへと駆け出した。
こんな時なのに……今までに経験がないほどに、僕の身体は動いてくれた。
接近する僕を、サイクロプスの棍棒が迎撃しようとする、けれどその叩きつけの一撃を回避し……、
そして、手にしたナイフで……。
――――――――会心の、一撃。
実力不相応な一撃を、サイクロプスの急所である心臓に放った。
その一撃は……きっと低階層の魔物だったら、一撃で葬れたと思う、
僕の探索者として活動する中でも…………最高最強の一撃だった。
けれど……深層の魔物は、レベルが違いすぎた。
【彼方】
「ぅ、あ……………」
僕のナイフはサイクロプスの表皮に少しだけ食い込んだに過ぎず、
衝撃なんて全く受けていない様子だった。
そして、サイクロプスは棍棒で僕という煩わしい小物を、棍棒も使わず腕を払い吹き飛ばす……、
何メートル飛んだのかわからない勢いで、僕の身体は吹き飛ばされた。
手足が引っ付いているのが不思議なくらいの衝撃だった。
【彼方】
「は、ぁっ……ぐっ……ぐううううううううっ……」
けれど、それでも……僕の怒りは止まらない。
目の前の魔物達への怒りが収まらない僕は、右足は甲の先がなく、左足は完全に折れていて……だけど、そんなことに構っていられない。
アドレナリンが、全身の痛覚を麻痺させてくれる。
だからボロボロの身体でも、今の僕は動ける、勝手に身体が動いてしまう。
動けなかったら、じっとしていたら……自分への怒りで狂いそうだった。
人間の体の構造の予想外の頑丈さに感謝しながら……僕は魔物に立ち向かった。
地面を蹴り、怒りに身を任せ、いちばん近くのリザードマンメイジに斬りかかる。
―――――――だけど……渾身の一撃は、届かない。
背後から、僕以上の速度で突進してきたミノタウロスが……遊びのつもりなのか、僕を素手で殴りつけた。
武器を手放し、地面を転がり……けれど、痛みは感じない……、
そのかわり、怒りと、悔しさと、情けなさが止まらないっ!
【彼方】
「ぁああああああああああああああああああああああああああっ!」
僕は絶叫しながら、ここが最後の瞬間だということを理解させられた。
気付いたら身体のいたるところが完全に感覚をなくしていて……、
どうやったら立ち上がることが出来るのかも、忘れ去っている。
だけど……僕はもう、負けるわけにはいかない。
負け続けた僕は…………現実にも、魔物にも、誰にも、何にも負けない…………。
そう思いながら、最後の瞬間まで……僕はサイクロプスから目を離すことなく、睨み続ける。
凄まじい恐怖が僕を襲いながらも、最後の瞬間だけは勇敢でいようと……、
僕はサイクロプスから目をそらさない。
もう、何もかも遅いことはわかっていながら……僕はサイクロプスを睨みつけながら、
最後の瞬間を迎えた。
棍棒が振り上げられ…………僕の頭部めがけて、振り下ろされた。
――――――――けれど、最後の瞬間は訪れなかった。
突然、世界の全てが静止した。
【彼方】
「………………………え?」
目の前の光景に、自分の目を疑うことしか出来ない。
視界の中にいる魔物全てが、その動きを静止させている。
空中を浮遊しているワイバーンまで……微動だにしていない。
まるで時が止まったような……いや、文字通り「時が止まっているとしか思えない」光景に、
僕は戸惑いの感情を抱かずにはいられない。
そんな中…………。
――――――――こつ、こつ、こつ、こつ……。
【マリア】
「やっほー彼方、元気してる~? 昨日ぶりだね♪」
軽い足音と、能天気で場違いな声が、ダンジョン内に響いた。
そして……、動きを静止させている魔物の間をすり抜けるようにして、目の前に……黒いドレスの少女…………マリアが、現れた。
【彼方】
「う、あ…………な、なんで、ここに……それに、あぶな…………」
【マリア】
「心配しなくても大丈夫だってば~、ほら♪」
彼女が手近にいた魔物を指で突っつくと。
そのままの姿勢で、リザードマンはまるでバランスを崩したフィギュアのように……転がった。
【彼方】
「ほら、大丈夫じゃん♪」
三メートルを超す巨大な魔物が、女の子が指一本で触れるだけで崩れ転がる様は……、
冗談にしか見えない。
【彼方】
「も、もしかして……時間を止めた……? 君、が……?」
【マリア】
「そだよ♪ ボクが世界を『再開』するまで、時間止めたままだから、
魔物のことは気にしなくていいってば」
信じ、られない…………。
ダンジョンのマナの影響で能力が向上して、
探索者の中には特殊能力を持つ人間が多数存在するのは知ってる。
神尾先輩のスキル「雷撃」も、そのうちの一つだ。
けれど……「時間を止める」なんて、圧倒的で無茶苦茶な能力を持つ存在がいるなんて、信じられない。
そんなこと可能だったら、それこそ何でもアリの世界なのは間違いなくて。
【マリア】
「どしたの、彼方? こんな状況なのにボクの可愛さに見惚れちゃってる~?」
こんな状況にもかかわらず、マリアはのほほんと冗談を口にしていて……。
当たり前だけど、今の僕に冗談に対応する余裕なんて全くない。
ともかく……何が何だかわからないけど、時間が止まってるうちに、魔物をどうにかしたい……。
けれど……身体に力が入らない、両手両足の骨が砕けていて、歩くことすらままならない。
いや…………もし、マリアがこんな強い力を持ってるなら……時間を止められるなら……。
【彼方】
「じ、時間を止められるなら……な、七瀬さんを…………助けて欲しいっ……」
世界の理をひっくり返すような力を持ってるなら、今からでも、七瀬さんを助けられるはず……。
次から次へと、自分勝手な論理が勝手に組み上げられ……。
【彼方】
「な、何でもするからっ、な、七瀬さんを助けて欲しい…………」
気付いたら僕は、みっともなくマリアに懇願していた。
【マリア】
「んーとね、残念だけどボクは世界一可愛いだけで、なんでもできるわけじゃないんだよね~、
この世界から退場した女の子を生き返らせるとか、そーゆーのは無理だってば、それにさぁ……」
マリアは続ける……僕に対して、残酷なひとことを紡ぐ。
【マリア】
「自分が弱いせいで死んだ大好きな女の子をさぁ、
自分より年下の美少女に生き返らせてもらうつもり? それってすっごく格好悪いじゃん♪」
【彼方】
「っ…………」
マリアの言葉は、僕の心臓に、ぐさり、と……突き刺さった。
その通りだと思う、けれど……彼女は僕なんかと違って、間違いなく本物の英雄だ、
世界を変えることが出来るような……そんな人間を、僕のせいで失ってしまうなんて、
そんなの耐えられない。
【マリア】
「っていうかさぁ、七瀬ちゃんは再試験がんばってるみ~んなのこと心配してぇ、
さらには好きでも何でもない彼方のために、命を失ったのに、
彼方は七瀬ちゃんのことしか、心配してないんだ~?」
【彼方】
「う、ぁ…………」
マリアに言われて、気付いた。
…………僕は、どこまでみっともないんだろう。
七瀬さんとの差は、才能とか、能力とか、そういう「小さなモノ」の差じゃない。
自分だけのために生きるのか、自分が好きな人間しか救う気がないのか……、
それとも、他人の為に打算なく生きることが出来るのか、どんな相手でも、心から救おうと出来るのか。
自分と……自分の感情に基づいた事象にしか見えていなかった僕は……、
どう考えても英雄なんかにはなれそうに無い。
実力不足とか、身体能力とか、そういうチャチなものじゃない。
僕は………………………英雄になんて為れない、なる資格もなかった。
【マリア】
「あはは、冗談だってば♪ 現実的なことを言うとさぁ、自分が大好きな女の子と、
大して仲良くないクラスメイトだったらさぁ、大好きな女の子を優先するに決まってるじゃん♪」
いや……違う、…………僕は、情けない、自分が情けなくて、消えたくなった。
石川君だって、圧倒的な恐怖の中、自分に出来ることを頑張って、そして…………死んだ。
なのに……ただ震えて、守られて、みっともなく生き残った僕は、
七瀬さんのことだけしか見えてない、そんな小さな男だった。
【彼方】
「…………………」
でも……別に自分の命が大事だからこんな風に考える訳じゃないけど、僕は、
ここで死ぬわけにはいかない。
七瀬さんが必死に守ってくれた命だから、ここで死ねない。
どんな状況でも……今、自分に出来ることを考えて、絶望しない。
きっと……七瀬さんだったらそうするだろうから。
【マリア】
「あれ~、彼方、ボーっとしてるけど、どしたの? もしかして眠ってる~?」
【彼方】
「…………時間、動かしていい」
【マリア】
「どしたの~? にゃんかいきなり雰囲気変わらなかった~?」
【彼方】
「僕は…………ここから逃げる、必死になって逃げる…………」
何がなんでも生き延びて、ダンジョンから地上に戻って……。
そして、低階層で高レベル魔物召喚が起こったことを、少しでも早く学園に報告して……対処してもらう。
そうしないと、学生が戻ってこないことを心配してやって来た先生達や、
まだ五階層にいる神尾先輩と、黒霧先輩、山下君……さらにはダンジョンが解放され、
探索を始めた一般の探索者……さらなる犠牲者が出てしまう。
それは……七瀬さんが望むことじゃない。
弱い僕に出来ることは、立ち向かってあっけなく死ぬことじゃない。
ここから逃げて、逃げて……そして、低階層での高レベル魔物召喚が行われたことを知らせて、
犠牲者が出ないように、地上に戻ることだ。
それが……僕が今、唯一出来ることだ。
【マリア】
「そだね♪ これだけ多くの魔物、彼方ひとりでどーにかするなんて絶対無理だし、
うんうん、自分のすべきことわかってるみたいだし、いー顔してるじゃん♪」
…………褒められるようなことじゃない、僕は、自分が馬鹿だってやっと気付けただけだ。
僕は…………本当に馬鹿だ。
【マリア】
「じゃあ、カウントダウン始めちゃうよ~、5、4、3…………」
マリアのカウントダウンに合わせて、僕は頭の中で魔物をすり抜けるルートを、頭の中に思い描く。
もちろん、想定通りになんていかないことを考えて、幾通りもルートを考える。
このルートが全て潰されれば……
…………僕が無事、地上に戻るには、奇跡なんかじゃ足りない。
数十億分の一の奇跡を、数十億回くらい重ねないと、到達できない。
だけど……今ここで、挫けるわけにはいかない。
だって僕は……何があっても、もうあきらめないって決めたんだから。
【マリア】
「にー、いち、はい、再開♪」
―――――――そして、世界がまた動き出した。
【サイクロプス】
「;udsa0@bnba@u9ugdnka@unlk;a」
魔物達の咆哮に、向けられる敵意に、足が竦みそうになる。
けれど……死ねない、七瀬さんが救ってくれた命は、こんな場所で無駄に出来ない。
僕は、ボロボロの脚を必死に動かして、魔物達の間を駆け抜けた。
【彼方】
「っっっっ……ぁああああああああああっ!?」
ずしゃり……と……何かがつぶれる音がした。
同時に両足に強い痛みが走り……気付いたら下半身がなくなっていた。
両足が切断されて、二本の足じゃもう歩けない…………。
…………だったら這ってでも逃げる、そして、犠牲者が出ないように、警告くらいはできるはず。
命を懸けてでも、戻ってみせる。
だけど……そんな決心は……非情な現実の前で全くの無力だった………。
―――――――――どすん、と……何かが僕の腹部を貫いて、地面に縫い付けられた。
【彼方】
「げ、ふっ…………は、ぁ………ぁ、ぅっ…………ぐ…………」
何が僕の腹部を貫通しているかは、わからない。
這ってでも地上に戻ろうとしても……気付いたら腕すらもなくなっている。
残ったのは首だけだ……それでも僕は懸命に首を動かして、少しでも地上に近付こうと足掻く、藻掻く。
だけど……胴体が残っていない状態では、動くことも、這うことも出来ない。
首から上だけだと……いくら感情が昂っても……文字通り、「身体がついて来ない」。
【彼方】
「ぅ……っぁ…………ぁあああっ……ううううううううううううっ!」
自分自身の不甲斐なさに……拳を握り締めようとした、けれど……今の僕はそんな動作すらも出来ない。
【彼方】
「ぁ…………ぅ…………ぁ…………」
みっともなく身体を動かそうとしても……全く動かない。
気付けば首も動かなくなって……胴体すらもどうなったのか、見ることも出来ない。
視界が少しずつ、黒に染まり……変化する…………。
意識が…………少しずつ失われていく…………。
【マリア】
「ざんねん~、キミの冒険はここで終わってしまった♪」
どこからともなく……マリアの声がする。
…………僕は、七瀬さんが助けてくれた命を、どうすることも出来なかった。
もう一度があるなら、もう一度この人生をやり直せるなら、次こそは必死に努力して、
必死に成長して努力するのに。
死ぬ物狂いで……七瀬さんを助けるために、自分自身を鍛え直すのに。
今まで何もしてこなかった自分自身が恨めしい、お願いだから、
もしこの世界に神様が存在するなら、
一か月でいいから、時間を巻き戻して欲しい。
――――神様でも、悪魔でも何でもいい、過去に戻れるなら、なんだってする、
どんな代償だって払う、だから…………。
…………………………もう一度だけ……七瀬さんを、いや、みんなを助けるチャンスが欲しい。
最後の瞬間に僕が願ったのは、そんな非現実的な願いだった。