百鬼行列
学校からおかくれ通りまでは、海沿いの国道をまっすぐ歩いても三十分ほどかかる。大変な距離ではないから歩いてもよかったが、二人は国道の側を走る私鉄で向かうことにした。
ホームに到着すると、しばらくして電車がゆっくりと入線した。焦らすような間が空いた後、呼息と共にドアが開く。そこから流れ込む暖かい空気は、二人の体をやさしく車内へ招いた。
雪がちらつき始めていた。
中央に立って窓の向こうを眺めると、寒々とした海を背景に、背を丸めた人の姿が次々流れていく。丁度、帰宅の頃合いである。郊外を走る鉄道とはいえ県都に直接続いているから、この時間帯の人通りは昼間よりもずっと多い。
「ねえ、そういえばさ」
あおいはリュックを抱えながら、隣に並ぶ真澄を見上げた。近くで見ると、彼の頬にはうっすらそばかすが散っている。
「わたし、初瀬さんから連絡が来るって聞いたような気がするんだけど……」
メモアプリを確認すると、確かに『はつせさんからの連絡をまつ』とある。思い違いではなかった。まあ、どうでもいいことなんだけどね。画面を提示しながら付け足す。
「ああ、それは……正確に言うと、千歳さんから連絡を受けたタタラさんから連絡がありました、だね」
真澄は淡々と答えた。
より正確に言うと、千歳から依頼を受けた瑞希から連絡を受けたタタラから連絡が来た、となるが、あまりにややこしいため黙っておく。
「千歳さんはスマホ使えないんだよ。覚えられないんだって。だから連絡が来るときは、いつもタタラさん経由」
「うちのおじいちゃんみたい」
あおいがからから笑う。
「千歳さんって、結構そういうとこあるから」
言い終わるのを見計らったかのように、車内アナウンスが次の停車駅を告げた。『おかくれ通り前』と言ったのを聞いて、二人はドア付近に移る。
「何ていうか、変わってるよね」真澄は呟くように言った。
「八鶏さん?」
「うーん、いや、どっちもさ」
真澄は脳裏に鬼ノ目堂コンビの顔を思い浮かべた。
千歳もタタラもいい人だ、とは思う。真澄にしろあおいにしろ、よく知らない他人にここまで目をかけてくれるというのだから、〝いい人〟という点においては文句の付けようがない。しかも、これが公的機関や商売でないというのだからどうかしている。ただ純粋な善意だけでここまでできる人は、普通いない。何かの詐欺や人拐いの類いである可能性も完全には否定できないが、そういう雰囲気もなさそうなところを見ると、底抜けにいい人なのだろうと思う。
しかし、それとこれとは話が別である。
「ちょっとわかるかも」これにはあおいも同意を示した。
「八鶏さんの変は見てすぐにわかるけど……、見た目も派手だし。でも初瀬さんは、なんか……、変な八鶏さんを普通に受け入れてるところが、変?」
「全くそう」
真澄は絶妙な表現を噛み締めるようにして頷いた。
勿論、今日に至るまでの間に様々な積み重ねがあろうことは想像できる。初めから今のような関係ではなかっただろうし、あらゆる苦難、あらゆる舌戦、そして妥協を乗り越えてきたに違いない。そうであってほしい。そうでなければおかしい。そう思いながらも、どこか初見からこうだったのではないかと思わせる自然さが、初瀬タタラという好青年を「変」たらしめた。
無意味に路線図を眺めながら、あおいは「でもさあ」と続ける。
「あの二人って、最近知り合いになったばっかりなんだって。真澄くん、知ってた?」
「……いや」
真澄は癖のある黒髪をゆるやかに振った。
「わたしは子供の頃から仲良しなんだろうなって思ったんだけど、違うんだって。でね、わたしと猫は幼馴染だけど、あの二人みたいな関係じゃないなーって、余計なこと考えちゃって、勝手にショック受けたりしたんだけど……。そう思うと、向こうが変なだけだったかもだねえ」
あおいはつい先日の自分を嘲るように笑った。
「真澄くんの相手はどんな人なの?」
「相手?」
「うん。結の」
あおいはほんの雑談のつもりで尋ねた。しかし、真澄は質問の意図が掴めないといった様子で、きょとんと目を見開いている。
「真澄くんも誰かの結なんだよね? 鬼ノ目堂でお世話になってるって、そういうことでしょ?」
「いや、僕は千歳さんと──」
言いかけたところで、電車が停車した。霞ヶ丘高校前と同様の無人駅。下車したのは、あおいと真澄の二人だけだった。
日が暮れかけていた。改札を出ると、すぐ目の前につづら坂。反対側には祈告島が小さく見える。
通りの脇で二人を迎える杉林のアーチが、雪混じりの風に煽られてさわさわと鳴いた。この付近に住宅地はない。駅の利用者層は概ね観光客だから、平日の、とりわけ夕方ともなると、人の往来は自然と減る。──はずだった。
「……なんか、人多くない?」
駅舎を出て、あおいは唖然とした。
全くの無人を想像していた通りには、老若男女問わず人の姿がちらほら見える。百鬼行列や蚤の市といったイベントが催されている時ほどの人出ではないが、それでも平時に比べれば考えられない光景である。
「千歳さんと会ってから来るの、初めて?」
質問の意図が掴めないまま、あおいはとりあえず「うん」と返事した。
真澄は、目の前の人混みを見つめながら言う。
「半分くらいは鬼堕だよ」
耳を疑った。あおいは驚きのあまり、目も耳も開け放して真澄の方を見る。目が合うと、彼は哀感に満ちた表情を浮かべていた。
「多いんだって、この辺」
言われて、もう一度人々の姿を確認する。薄暗いためはっきりとは見えないが、形、身なり、表情とどれをとってもただ普通の人に見えた。
はた、とあおいは思い至る。そういえば、八鶏千歳もあの姿で鬼堕だと言っていたのだった。そうだった。鬼堕とは、自分と何ら変わりない人の姿をしているのだ。そしてきっと、自分はこれだけ大勢の存在に、今まで少しも気付かずにいただけなのだ、と。
呆気にとられるあおいをよそに、真澄は黙って坂を登り始めた。あおいも慌てて後を追う。そのさなか、すれ違う鬼堕達は、やはり普通の人に思えた。──ただ、ちらほら聞こえてくる会話の内容がどうしてか理解できなかったことを除いて。
「凛藤さんは、百鬼行列が何の祭りか知ってる?」
道すがらそう問いかけた真澄の声音は、どこか張り詰めたような雰囲気が漂っていた。
「……秋祭り、じゃないの?」あおいは怪訝に思いながらも、思った通りに答える。
しかし真澄はこれに返事せず、聞いた話だけど、と言って続けた。
「昔、この辺りに住んでた人全員が一晩で失踪する事件があったんだって。直前まで生活してた形跡は残ってるのに、殺されたり、逃げたりしたような跡は何もない。まるで突然フッと消えたように、何百人という人が、恐らくほとんど同時にいなくなって、帰ってこなかった。どうして消えたのか、どうやって消えたのか、それは今でも分かってないし、大した記録も残ってないらしい。──表向きはね」
真澄は立ち止まると、背を追うあおいを振り返った。雪が睫毛を湿らせる。緊張したように瞬きする彼の瞳には、暁の色が滲んでいた。
「本当は、たった一人の悪鬼に堕とされて、全員鬼堕になったって話。子供もお年寄りも、善人も悪人も関係なく、全員。……百鬼行列っていうのは、悪鬼を先頭に、夥しい数の鬼堕が列を成して歩いた、その事件のことを言うんだって。祭りとしての百鬼行列は、その鎮魂祭」
「鎮魂……」
途方もない話に、あおいはしばらく息をすることさえ忘れた。
非日常に思われた自分の現在地が、町の歴史と交差する。突飛な話だと一笑に付すこともできないのは、この町に鬼堕という存在が確かにあることを、彼女はもう知ってしまったからだった。
ふと我に返った時、すぐ傍を通り過ぎる人と、一瞬、目が合って、すぐに離れた。果たして彼は人なのか、それとも鬼堕なのか。あおいにはわからなかった。
「その、堕とされた人たちは、どうなったの?」
あおいが恐る恐る尋ねた。頬が引き攣って、上手く表情を管理できない。
真澄は黙って視線の先を指差した。
「このうちの……、どうだろう。半分くらいは、当時の人なんじゃないかな」
「……当時、って」
「いつの話なのかは僕も詳しく知らないけど、この辺りが『村』だった頃って聞いたから、百年や二百年じゃ利かない、とは思う」
全身が粟立つと同時に、体の内側が底から冷えていくような感覚を覚える。冗談だよね、と祈るように絞り出した言葉は、雪風に呑まれるほどか細い。
──鬼堕のまま、数百年を過ごしている人がいるかもしれないなんて。
彼女は全く、想像だにしなかった。いいや、今でさえ容易なことではない。
「……ちょっと、信じられない、よね」
「僕も百パーセント信じてるわけじゃないけど……。でもさ、もし本当のことだとしたら、僕らが信じてあげなきゃ、すまないような気がするんだよね。もし本当にあった歴史だとしたら、自分や大事な人の身に起きたことをなかったことにされるなんて、どれほど悔しいだろうって」
思わない? そう問われて、あおいは思い至った。もしも、このまま猫を救うことができなければ──。待っているのは、彼の言う通り永遠にも似た時間なのかもしれない。そう思うと、心臓が掴まれたように切なく痛んだ。
「本当かどうかは知らないけどさ、少なくとも僕は、信じて、忘れないでいたいと思うんだ」
「……うん」
それきり、あおいと真澄は口を噤んでただひたすら歩みを進めた。何を言おうにも、上手く言葉にならない。そうして、二人の間にだけ長く心憂い沈黙が流れた。