まつときしかば
同じ頃、霞ヶ丘高校は放課後に差し掛かっていた。下校したり、部活動に赴いたり、掃除を始めたり、おしゃべりを続けたり。校内は生徒達の話し声や足音で賑わっている。
終業式は、来週末に迫っていた。敦子は箒を空振りしながら、「あっという間にクリスマス、そして正月、新学期」と溜息混じりに歌う。「どうして一年ってこうせっかちなのかしら」
「敦子ちゃんが新学期のことまで考えてるからじゃないの」あおいは敦子の動線上で塵取りを構えた。
「それって、せっかちなのはあたしの方だって言いたいわけ?」
「そうじゃないけどお」
「そうじゃなかったら何なのさ」
それはさあ、と言ってあおいが立ち上がると、手にした塵取りから、かき集めた塵がはらはら落ちた。敦子は思わず声を挙げる。対してあおいはしばらく呆然とした後、およおよ、と声を漏らしながら、昇降口の辺りまで流されていった埃を追いかけた。
「あおいは、もっと先のことまで考えた方がいいんじゃない」
敦子は友人の間抜けな背中に向かって、そんな言葉を投げた。
「ねえ、そういえば」用具入れを適当に閉めながら、敦子が新たな話題を切り出す。「どうだったの? アレ」
「アレって?」
「アレよ、アレ。ほら、あの、ラブレター」
下駄箱を指差しながら言うと、ようやくあおいもピンときたようだ。「ああ、アレねえ」
「イケメン来た?」
「あ、うん」
敦子の顔はキラキラ輝いている。
「うそ、ほんとに? 何年? うちの学校の人でしょ?」
あおいは表情を変えずに首を横に振った。「大学生だったよ」
「大学生!?」
廊下中に、敦子の大音声が響いた。そんなに驚くこと? 疑問符を浮かべるあおいをよそに、彼女は顎に手を当てながら思考の雑音を排出するようにうんうん唸っている。そうして少ししてから、ようやく考察の一端を出力した。「それって、怪しくない?」
「なんで?」
「だって、うちの生徒じゃないってことは学校に不法侵入して下駄箱に手紙を入れたわけでしょ。顔見知りじゃないならクラスも何かで調べて。……結局、宛先は間違ってたけど。普通に変質者じゃん」
「……そう言われると、確かにそうだねえ。どうやって調べたんだろうねえ」
あまりに呑気な友人の反応に、敦子は頭が痛む思いがした。呑気が過ぎて、何事かに巻き込まれているのに気が付いていないだけなのではないか。十分有り得る話である。
「情報を渡したあたしが言うのも何だけどさあ、変な人に頼らないで大人しく警察からの連絡を待った方がいいんじゃないの? あの手紙の人が猫を拐った犯人って可能性も考えられるわけだし」
そのあたり、ちゃんとわかってるのかしら。敦子は自身の軽率な行動を後悔しながら、なんとかこのお気楽人間を正しく導かねばならないという使命感に燃えた。猫に代わり、自分がリードを握らなければ、と。一方で、あおいはタタラや千歳とのやりとりを思い出していた。いい人だったけどなあ、と言うと、傍から大きな溜息が聞こえてくる。敦子の顔には「だめだこりゃ」と書いてあって、それが何だか、猫の姿を想起させるようでおかしかった。
「あおいの〝いい人認定試験〟は、クリア要件が緩すぎて全くアテにならない」
敦子は顔の前で右手を振った。「カカポの方がまだ警戒心あるわ」
「そおかなあ」
「自覚がないんじゃ、いよいよ救いようがないね」
敦子は隅に放ったリュックを右肩に引っ掛けながら、上履きの踵を踏んづけた。それから少しの間、何か考えるように一点を見つめてから、再びそっと口を開いた。「……あたしが猫だったらさ」
「こんな危なっかしい子、放っておいたら心配だから、早く帰りたいって思うよ」
丁度よく、チャイムが鳴った。振り返った敦子はあおいと目を合わせてすぐ、照れくさそうに視線を泳がせた。
「あたしが思うんだから、猫もそうだよ。絶対に」
「うん。そだね」
口をもごもごさせながら言う彼女のかわいらしさに思わず笑って、あおいも踵を踏んづける。そして下駄箱から乱雑にスニーカーを引っ張り出す背中に、胸の中で「ごめん」と謝った。心配してくれる友人を無視して〝変な人〟と行動を共にするわたしをどうか許してね、と。そんなことはつゆも知らず、敦子はあくび混じりに帰ろうぜいと口ずさんで、火照った頬を吹き込む寒風で冷ました。
二人がそれぞれに複雑な気持ちを抱えたまま昇降口を出ようとした時、背後から声をかける者があった。
「凛藤さん!」
振り返ると、土間に敷かれた簀子の端で、大人しそうな雰囲気の男子生徒が身を乗り出している。あおいは彼とばっちり目が合った。
「いま、凛藤って言った?」
「言ったね、たぶん」
敦子に確認を取ってから、「わたし?」と己を指差して見せ、男子生徒と無言のうちに意思疎通を図る。すると彼は、ああよかったと言わんばかりに安堵の表情を浮かべながら頷いた。
「帰るとこだったのに、悪いね」
二人が男子生徒の元へ戻ってくると、彼は長身に見合わずやわらかな声で謝意を述べた。
あおいは「いいのいいの」と返事しながら、その足元をちらりと見た。上履きの側面には青いラインが入っている。──同い年か。
実のところ、あおいはこの男子生徒が誰であるか全く分かっていなかった。顔には見覚えがある気がするが、一体いつどこではじめましての挨拶を交わしたのだったか一向に思い出せない。もしも彼が先輩だったら、そんな状態で会話をするのは危険すぎる。そう心配したが、杞憂であった。同い年ならば気を遣うこともなかろう。
あおいは本題に入ろうと酸素を吸った男子生徒を右手で制止すると、「これからすごく失礼なことを聞きます」と前置きした。
「ゴメン、何くんだっけ」
当然、二人の間には何とも言い難い妙な空気が漂う。かに思われた。ところが実際には、敦子の「マジかこいつ」が外耳道を通り抜けただけだった。
すごく失礼なことを聞かれた張本人は、至って平然と、ごく自然に己が何者であるか名乗った。
「一組の新真澄。中三のとき同じクラスだったよ」
流石のあおいも、これには顔を引き攣らせる。敦子などは、顔を手で覆って「信じられない」とばかりに首を振っている。
「ええ、うそ、ほんとに? ……ショックかも」
「ショックなのは彼の方でしょ」
「そうだよね、ゴメンね」
「大丈夫。慣れてるから」
真澄は笑いながら言った。言葉の通り少しも気にしていない風で、むしろ気を使わせて申し訳ないといった雰囲気すら漂わせている。
「それより──」本題に入りたいんだけど、と言いながら、彼は敦子を横目で見た。
「あ、あたし居ない方がいい?」
真澄が首肯する。「申し訳ないね」
「いいよ。普段から一緒に帰ってるわけでもなし、……譲った方が、徳も積めそうだから」
じゃ、そういうことで。敦子はあおいの肩をぽんと叩いて、鼻歌交じりに場を離れた。何だかあらぬ誤解をしているな、と思ったのは、真澄だけであった。
「それで、何だっけ?」
「ああ、うん」
真澄は人通りを気にして、やや声を潜めた。
「さっき、千歳さんから連絡があって」
「……千歳さんって、八鶏さん?」
「うん。八鶏千歳さん」
ふうん、と飲み込みかけたところで、あおいは何か引っかかる感じを覚えた。
「何で八鶏さんのこと知ってるの?」
「あ、僕ちょっと鬼ノ目堂でお世話になってるから」
真澄はやはり平然と答える。
「ちなみに、鬼ノ目堂に凛藤さんと三谷町さんのことを教えたのも、手紙を下駄箱に入れたのも、僕」
いやあ、うまいこと転がってよかったよね。控えめに興奮する彼に、あおいは上辺だけの返事をした。
まさか同級生に共通の知り合いが居ようとは。どうして誰も教えてくれなかったんだろうか。教えてくれれば、こんな恥ずかしい思いせずに済んだ、かもしれないのに。あれこれ考えているうちに、手紙の宛先が間違っていたことを伝えそびれた。
「で、千歳さんからの連絡なんだけど、『目星がついたからおかくれ通りに集合』──だって」
「目星って、……猫の?」
「だと思う」
彼の返事を聞き終えるか終えないかといううちに、あおいの中で何かがむくむくと膨らんでいくのがわかった。期待感というべきか、高揚感というべきか、或いは不安か緊張か。とにかく、そういったものが一斉に身体中を駆け巡った。言葉は出なかった。代わりに四肢を思うままに動かして、無常の喜びを表現した。
「よかったね」
真澄は彼女の喜びようを見て目尻を下げた。花時を思わせる穏やかな笑みに、思わず目頭が熱くなる。
「今日、このまま行ける?」
あおいは、言葉の体を成さない音をとりあえず出して、力いっぱい頷いた。