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猫に暁  作者: 七辻瑞歩
第参話
7/10

氷と炭

 かすみ町の上空には、厚い雲がかかっていた。

「夜には雪が降るかしらねえ」

 降るならいっそ、どっさり積もってほしいものだわ。瑞希(みずき)はおかくれ通りを(くだ)りながら、一面(いちめん)白に(おお)われた町並みを想像した。横を通り過ぎる木々は白粉(おしろい)で化粧して、一歩進むたびざくざく心地よく地面が鳴る。降る雪が墨色の着物に花を付ける。肌に止まるとひんやり冷たい。心が踊る。彼女は雪が好きだった。

 グレーのポンチョコートをはためかせながら坂を下りきると、一般道を挟んだ向こうに海景(かいけい)が広がった。夏や秋には海遊びに祭りにと人でごった返すエリアで、百鬼行列の夜は歩行者天国となった道路にも露店が並ぶ。そういう時期の(にぎ)わいを思えば、真冬なぞはすっかり忘れ去られたようで物寂しい。

 瑞希はそんな冬の海を瞳に映しながら、は、と白靄(しろもや)を吐いた。

 彼女の目的地は、沿道(えんどう)から海に向かって伸びる石橋。の、その果てにある孤島であった。『祈告島(きこくとう)』と呼ばれるその島は、面積が約一万九千平方(へいほう)メートル程度で、大人が三十分も歩けば一周できてしまうほど小さい。元々は千聚堂に次ぐ観光名所となる予定だったのが頓挫(とんざ)して、今ではすっかり、浜から撮られた写真に納まるだけの島である。

 だからこの日も、瑞希の他に石橋を渡る者は一人としてなかった。

 潮風に至極(しごく)の長髪が(なび)く。一歩進むたび、チャンキーヒールと軽快な音楽を奏でる橋には、砂埃の堆積(たいせき)こそあれ人が歩いた形跡などほとんどない。十八年前に架橋(かきょう)された当時のまま全く使われていないに等しいほど状態が良く、それがまた、祈告島に(まと)った(わび)しさに拍車(はくしゃ)をかけるようだった。

 橋を渡りきると、今度は草木に覆われた石段を十二段上がる。もちろんこの階段も、完成してからほとんど使われていなければ、一度も手入れされていない。苔むした踏み面に、行く手を遮る雑草。虫。虫。そして虫。

 ジャージで来るべきだった──。彼女は一歩進む度、強く後悔した。わかっていたのに。せめて靴を脱いで裸足(はだし)で登ろうかしら、と思ったが、野蛮(やばん)なのは彼女の美学に反する。足を滑らせないよう気をつけて、多少着物が汚れるのは我慢することにした。我慢してでも、島の内部へ行くにはこの道を通る他なかった。


 ……やがて、波の音がかすかに聞こえるかどうかという頃合いになって、ようやく目的地が見えてきた。

 ふう、と小さく疲労の塊を漏らす。コートや着物の(すそ)にしがみついた植物の種を見ないふりして、彼女は最後の一段を上った。

 果たしてその先は、一面雑草畑。それから、()ちて緑に()まれた大きな木片がぽつりぽつりと立っていた。一部には屋根らしきものの残骸(ざんがい)がくっついているのもあるから、この辺りに建物が建っていたのかもしれない。原形はもはや分かりようもなかった。しかし瑞希は一番手前に立つ木片の隣まで来ると、──一体それが何なのか知っているかのように──(うやうや)しく頭を下げてからそれを横切った。

 木片の向こう側には、やはり手つかずの雑草地が広がるばかりだった。木々は遠慮したように四隅(よすみ)に固まって、広々とした土地は(ひら)けている。

 彼女が膝元まで伸びた雑草を分けて奥へ進むと、小さな(ほこら)が見えてきた。周囲の木片とは異なり比較的新しく、綺麗に手入れされている様子で、放ったらかしの島の中で異質な雰囲気を纏っている。

「やっと着いた」

 祠の前で足を止める。その(かたわ)らでは、目的の人物──鬼ノ目堂の八鶏千歳(やとりちとせ)が、すうすう寝息を立てていた。

「……何の用」

 瑞希が近くへ寄ると、千歳はまどろみの中でかすかに口だけを開いた。

「ここ、いつ来ても静かでいい所ね。草むしりくらいしたらいいと思うけど、好きな場所だわ」

 見当違いな返事に、彼は渋々(しぶしぶ)瞼を半分だけ持ち上げる。「……何の用かって聞いたんだけど」二歩先で風に靡いた毛先をじっとり睨む様に、いつものような不遜(ふそん)さはない。

「仕事の話に決まってるじゃない。それ以外で私があなたに会いに来ると思う? タタラ君がいるならまだしも、いないとわかっているのに。わざわざ。あなたの気配を探して」

 彼女はだんだんと語気を強めながら千歳に詰め寄った。意地でもこの男の狭い視界に入ってやろうと身を(かが)めると、ようやく飴色の瞳と視線が(まじ)わる。が、しかしそれも一瞬のことだった。彼はさっと目を(そら)らして口をへの字に曲げてから、むりやり絞り出したような声で小さく「いいや」とだけ答えた。これが彼の精一杯。千歳は彼女、雉間瑞希(きじまみずき)のことが心底苦手なのであった。

「ネコが見つかったなら、タタラに連絡して、って、言ったじゃん……」

 (ひる)むように身を(よじ)る彼の言葉は、瑞希のそれとは反対に、徐々に尻すぼみになっていった。心臓が、嫌な鳴り方をしている。

「あのねえ、彼はあなたのお手伝いさんじゃないのよ。それに、鬼ノ目堂はあなたがやりたくて始めた仕事でしょ。私に会いたくないからって、自分の仕事を代わりに押し付けるのは無責任ってものよ」

 後半は、無意識に耳を塞いでいた。表情筋で「もうやめてくれ」と訴えることを(こら)えられず、反抗期の子供のように、ただ押し黙って嵐が去るのを待つ。

 千歳としても、彼女が直接自分を訪ねてくる可能性について、全く予想していないわけではなかった。当然、これまでの傾向を考慮しながらあれこれ逃げる算段を立て、いかにして不愉快な状況を回避するか、最良の結果を導き出そうと苦心した。しかし結局、余計なことはしない方がよいと悟った。

 一言えば、百の正論が豪速球で返ってくる。千歳が彼女を苦手とするのは、(ひとえ)にこれが理由であった。

「俺は、できるだけ会わない方が互いのためと思って……」

「何でよ」

「……瑞希さん、俺のこと嫌いだろ」

 二人の間では既知(きち)の事実であったが、千歳は一応、(しゃく)(さわ)らないよう注意を払って言葉を選んだ。

 果たしてその努力は、全くの無駄であった。

「それは私の都合であって、他の誰にも関係のないことでしょ。そんなどうでもいいことをいちいち仕事に持ち込まないわよ」

 馬鹿にしないで、と言いかけたところで、瑞希は言葉を()き止めた。こんな話をしに来たんじゃなかった。嫌悪感丸出しの顔を見て我に返る。彼女は、胸の中に敬愛する山鵲(さんじゃく)の顔を思い浮かべた。「うまいことやってくれ」と、しわくちゃの顔が綻ぶ。

 ──仕事をしよう。

「三谷町猫は、まだ見つかっていないわ」

 本題に無理矢理(かじ)を切りながら、瑞希はコートの裾についた植物の種を(つま)んだ。

「正確に言うと、見つかってはないけど目星はついたってところ。わかっていると思うけど、特定の鬼堕を正確に探し出すなんてことは、そもそもほとんど不可能なのよ。特にこの町ではね。鬼堕が多すぎて、どれが誰の気配かなんてわかりゃしないもの」

 そうだろうな、と千歳は思った。

 雉間瑞希は、鬼堕の気配を探す能力に長けていた。これは彼女が鬼堕たるルーツによるもので、千歳に同じ芸当はできない。そのため鬼ノ目堂で鬼堕探しをするとき、とりわけ急を要するときには、山鵲を(かい)して彼女に協力を仰ぐ。それでも、ピンポイントで発見できるのはごく稀であった。彼女の言う通り、大抵は当たりを付けるだけに留まる。決して万能ではない。だから今回も見つけるには至らないだろうということは、はじめからわかっていた。

「それで?」

 聞きたいのはそんなわかりきったことじゃない、そう言外に含ませて千歳は続きを促した。

「……ひとつ、運がよかったわ」

 瑞希は左手に溜めた種を潮風にのせて(ほう)った。

「悪鬼がおかくれ通りの辺りをうろうろしているのよ。恐らくその近くに、三谷町猫はいる」

「やっぱりな……」

「悪鬼の方も、十中八九、三谷町猫を堕とした奴でしょうね」

 千歳の頭の上では、瑞希が放った種が新たな住まいを定めようとしていた。

「悪鬼の相手をするのは確定か」

 彼はうんざりした様子で呟いた。「めんどくせ」

「『鬼ノ目堂』は鬼堕と結を引き合わせるための窓口なんでしょ。人が堕ちる理由の半分は悪鬼のせいなんだから、こんなのはよくあることじゃない」

「ガキを連れて相手するのは、大変なんだよ」

 ふてくされたように千歳が言う。

「仕方ないわよ。あなたがやりたいことって、そういうことなんだから」

 瑞希は彼の頭を軽く(はた)いて、髪の毛にしがみつく種を払ってやった。そして頭の上がすっかりきれいになったことを確認すると、最後にもうひと(はた)きしてから(きびす)を返した。……


 十歩ほど進んだところでちらと視界の端を見やると、千歳がのそのそ立ち上がって彼女の跡を辿(たど)っているところだった。

「付いて来るの?」そう尋ねると、彼は鼻の付け根にうっすら皺を作った。

「冗談よ。本当に面白みのない人ね」

「冗談に聞こえねえよ」

「受け取り方の問題じゃないかしら。あなたって、何でも悪い方向に(とら)えるんだもの」

 それについてはあんたが特異なだけだろ。千歳は胸の中で悪態をついた。決して、口には出せない。代わりに先ゆく彼女の揺れる髪を睨む。

 そんなことはつゆ知らず、瑞希は時々、草を刈りなさいと文句をたれながら来た道をどんどん戻った。そうしてある時、ふと思い出したように振り返って言った。「そうそう」

「このままおかくれ通りへ行くでしょう? タタラ君には私から連絡しましょうか」彼女の表情は、わかりやすく期待に満ちていた。

「……本当にあいつのこと好きだな」

「ええ、好きよ。でも私に限らず皆そうでしょう、彼はいい子だし」

 やや呆れ気味な千歳の様子を一切気にせず、瑞希はあっけらかんと答える。

 本人が自覚する通り、瑞希はタタラに対して格別の情を抱いていた。涼やかで嫌味のない顔立ちや、高すぎず低すぎない中音域の声音はもちろん、彼の人となりが彼女のハートを掴んで離さない。これは断じて、男女の間に芽生える(たぐ)いの甘い感情ではなかったが、初瀬タタラという好青年の存在は、彼女の意思決定に少なからず影響を与えていた。(すなわ)ち、鬼ノ目堂の為に動く理由の半分は山鵲、もう半分はタタラにあると言ってもよい程に。

「他人事みたいに言うけど、あなただって同じじゃないの。好きでしょ、彼のこと」

 瑞希は心を見透かすように意地悪く目を細める。

「……そういうのじゃねえよ」

 短く返事をした後、千歳は唇を結んでそれ以上何も言わなかった。

 なんて会話し甲斐のない男なのかしら。瑞希は無愛想な態度に苛立ちを覚えつつ、表には出すまいとどうにか平静を装った。意識して、声のトーンをわずかに上げる。

「ああ、そう」

 長い付き合い、この苛立ちをそのままぶつけたところで(ろく)なことにはならないということは、既に了解済みである。

「それで? 私から連絡していいのかしら」

「別にいいけど……」

「けど何よ」

 問われて、千歳はしばらく言い(にく)そうに口をもごもごさせた。そして意を決したように、初めて自分から瑞希と視線を合わせた。

「目星がついたって連絡入れるだけにしてくれよ。アイツは現場に連れて行かないんだから」

「ああ……」

 そうだったわと溜息混じりに吐き出した言葉には、落胆の色が(にじ)む。

 ──すっかり忘れていた。

 八鶏千歳という男は、自分の結が悪鬼と鉢合わせないよう常に徹底して注意を払っていた。便宜(べんぎ)上、〝結〟と呼称し区別しているだけで、結局は彼らもただ一人の人間。初瀬タタラが悪鬼の手に掛かり、鬼堕となってしまうことを危惧(きぐ)してのことだった。

「呼ぶつもりだっただろ」咎めるような視線が瑞希に向けられる。

「あなたも当然そういうつもりだと思っていたの。忘れていたのよ」

「あっそ」

 呼ばないなら後のことはどうでもいい、とでも言うように、千歳は再び会話を早々に切り上げた。どうしても、長いラリーをしたくないらしい。瑞希は今にも飛び出しそうな暴言を必死に噛み潰し、その代わりとして、苦々しい思いをこれでもかと視線に込めた。しかし彼はもうこちらを見もしなかった。この調子では、どちらがどちらを嫌っているのやら分かったものではない。

「くそ朴念仁」

 憂さ晴らしに呟いた悪口すら、届いたかどうか判然としなかった。

「ねえ、だけど、凛藤あおいさんは同行させるでしょう。あなたは悪鬼の相手で手一杯になるだろうし、彼女を一人放っておくのも危険じゃないかしら」

「それはタタラがいたところで同じだろ。ただの結であるアイツにできることなんて、何もないんだから。守らなきゃならない人数が増えるだけだ」

「まあ、それはそうなんだけど」

 いつの間にか、千歳の方が瑞希の前を先行していた。見上げるほど大きな背中の向こうから、微かに波の音が聞こえてくる。

「難儀ねえ……」

 彼女はもどかしい思いを視線に込めて一息、ぽそりと呟いた。

 その声は誰に届くこともなく、潮風に溶けた。

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