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猫に暁  作者: 七辻瑞歩
第参話
4/10

あおいと猫

 八鶏千歳(やとりちとせ)は、杉林(すぎばやし)の古びた石段に向かって気怠(けだる)げに右足を投げた。陽が傾き出した、午睡(ごすい)の頃である。先を(のぞ)むと、思わずため息が()れる。段数はそう多くない。ただ、これから会う人物のことを思うと、一段上がるにもかなりの労力を(よう)した。

 千聚堂(せんじゅうどう)が建つ前は、商店街と宿屋を繋ぐこの道が正路(せいろ)だった。すっかり(さび)れた今となっては獣道も同然の有り様で、雑草と木の根に食い荒らされた()(づら)は、足を置いただけでぼろぼろと崩れるほど劣化(れっか)が激しい。あえて通るべき道でないことは誰の目にも明らかである。しかし、鬼ノ目堂(おにのめどう)から千聚堂へ行くには、わざわざおかくれ通りまで迂回(うかい)するより都合がよかった。

 やっとの思いで石段を登りきると、本堂の裏側に出た。千聚堂は東西に長い入母屋造(いりもやづくり)である。正面へ回るには、まだ少し歩かなければならない。あー、めんどくさい。足元に敷かれた砂利がゆったりとしたリズムで鳴る。千歳はいつも、結局のところ迂回するのとどっちが早いだろう、とぼんやり思った。

 しばらくすると、正門がちらと姿を現した。観光客の姿もまばらに見える。彼らは案内図を片手にカメラを構えたり、或いはただぼんやり建物を眺めたりしながら、一様にこの地に語られる歴史を瞳の奥に浮かべている。

 千歳はそんな観光客たちには目もくれず、彼らの隙間をするする抜けて、真っ直ぐ本堂の向拝(こうはい)へ向かった。

 中に入ると、千体もの千手観音立像せんじゅかんのんりつぞうが出迎えた。観光客の目当てはもっぱらこれである。縦に十段、横に百列。整然と並んだ圧巻の光景に、「わあ」とか「ほお」とかいう感嘆詞だけが辺りをフワフワ(ただよ)っている。それ以上は誰も口を開かない。荘厳(そうごん)な雰囲気は人々を寡黙(かもく)にした。

 悠然(ゆうぜん)と見学する観光客に混じって、やがて千歳もある所でピタリと足を止めた。見上げた先で、いくつもの慈悲深(じひぶか)い目と視線が交わる。彼は黙ったまま、それをじいっと(にら)んだ。

「珍しいことがあるもんだな」

 そうして五回も瞬きをしたかどうかという頃になって、どこからか(しわが)れた男の声がした。「つい昨日にも顔を見たと思ったら、また現れやがる」

 千歳は菩薩(ぼさつ)柔和(にゅうわ)な顔を睨んだまま、一拍も置かずこれに応える。

「用事がなきゃ呼ばれても来るか」

「そうかい、そいつは態々(わざわざ)ご苦労さん」

 声は(わず)かにからかうような調子で弾んでいる。「用事はないから、帰るがよろしい」

「こっちにはあるんだよ、クソジジイ」

「わははは、クソジジイときたか」

 豪快(ごうかい)な笑い声が堂内に響き渡る。──完全に(もてあそ)ばれている。千歳は眉間の(しわ)を深く刻んで、露骨(ろこつ)に嫌な顔をした。

「手のかかる(わらべ)ほど、一人で育ったような顔するもんだ。なあ、千歳よ」

 やがて、視線の先がぐにゃりと歪んだ。歪みは波紋のごとく伝播して、菩薩の輪郭が曖昧になる。少しすると、向こう側からそろそろと何かが出てきた。目を凝らす。それは鼻であり、口であり、額であり、そして一人の老爺(ろうや)であった。

「さて、クソジジイに何の用かな」

 房主(ぼうず)恰好(かっこう)をしたこの老爺は、馬丞山鵲(ばじょうさんじゃく)といった。千聚堂を管理していた人物で、千歳とはかなり長い付き合いになる。彼は千歳と顔を合わせると、必ずこうしてからかって遊んだ。嫌がられていることなどは、当然、先刻御承知である。しかしもういくつも楽しみのない彼にとって、千歳をからかうことは唯一の娯楽と言ってよかった。

 ゆえに、千歳はこの男のことが腹の底から嫌いだと思っていた。

「仕事の依頼だ」

「そうだろうな」

「手伝え」

「そういう話だろうとも」

 くつくつと喉を鳴らす山鵲を前に、千歳は握り締めた拳をわなわな震わせた。額には青筋が立っていた。

()が、釣れたんだよ」


          □


 翌日、あおいはまだ陽のあるうちに鬼ノ目堂(おにのめどう)を訪ねた。

 明るい時間帯の商店街には、不思議と人の姿がちらほら見えた。中心街なら一番(にぎ)わう時間帯。さしものゴーストタウンでも、帰宅を急ぐ人々の抜け道くらいにはなっているらしい。彼女は見慣れない光景に戸惑いながらも、果たして最盛期はどんな賑わいだったのかしらと想像した。

「お、凛藤(りんどう)さん。いらっしゃい」

 (かたむ)いた看板の文字を読み上げてから戸を叩くと、少ししてタタラが出迎えた。亜麻色(あまいろ)の髪とゴールドのピアスが陽に照らされて、きらきら光っている。

「……初瀬さんって、イケメンだったんですねえ」

 ぼそり、ため息()じりに漏れたあおいの言葉に、彼は釣りがちの目を細めて微笑(ほほえ)んだ。「なあに、突然」

「昨日は暗かったからよく見えなくって」

「そう? 俺はちゃんと見えてたけどね。美人だなあって」

「わあ。お世辞(せじ)

 店先でひとしきり笑ってから敷居(しきい)をまたぐ。昨日(さくじつ)少し慣れたかと思われた店内の香りが再び鼻腔(びくう)を刺激した。彼女は「くさい!」と表情で語るのを(こら)えられなかった。

「あ、ごめん。匂いキツイよね」

ひひへ、へひひへふ(いいえ、平気です)

「結構換気(かんき)してるんだけどねえ。俺はもう慣れちゃったからわかんなくて」

 彼は商品棚の影から〝最強消臭〟と書かれた消臭剤(しょうしゅうざい)を引っ張り出して、「やっぱり増設(ぞうせつ)するか」と呟いた。

「タバコですよね、八鶏さんの」あおいは開き直って、鼻を軽くつまんだ。

「そうだよ。よくわかったね」

「八鶏さんが吸い始めたら匂いが強くなったから」彼女は昨日の様子を思い浮かべながら、ぷかぷかやるふりをする。「カッコいいですよね、アレ。(なん)ていうんでしたっけ」

煙管(キセル)

「そう。キセル。使ってるとこ、初めて見ました」

「まあ見ないよね、今どき」

「おしゃれですか?」

「さて、どうかな」

 ふふふ。タタラはわたげを吹くように笑うと、空っぽの帳簿机(ちょうぼづくえ)を見ながら続けた。「唯一の楽しみなんだ。大目に見てあげて」

 あおいは(なん)だかよくわからないまま、そういうことなら、と(うなづ)くだけに留めた。


 鬼ノ目堂の店内は、明るい時間帯でも薄暗かった。左右の隙間なく建物が密集(みっしゅう)しているために、窓からは陽が入らないのだ。ひょっとすると、灯りが()いていない分、昨夜よりも暗いかもしれない。

 あおいは商品棚の近くまで寄って、一体何を売っている店なのかとまじまじ観察した。しかし、そこには店の外にでも落ちていそうな枯れ葉や、何に使うのかわからない道具があるばかりで、彼女の興味を引くものはひとつとして置いていなかった。ガラクタと何が違うんだろう。彼女は首を(かし)げた。

「そういえば、八鶏さんは?」

 彼女はふと、話題の人物がいつまで経っても現れないことに気がついた。呼びつけておいて、お寝坊ですか。彼らだっておりこうに出勤しているというのに。視線の先では、大物ニワトリが仲良く床を散歩している。

「今ねえ、ちょっと出かけてるんだよね」タタラは、気まずそうに視線を流した。「もう少ししたら帰ってくると思うんだけど……」

「出かけてるって、あんなに派手な格好で?」

「まあ、そうだね」

 驚きのあまり、あおいは一際高い声を響かせた。和服を着た長髪の巨人が街中を歩いていたら、絶対目立つのに。気づかないもんだねえ。彼女は小上がりにどっかり掛けながら、ぽてぽて歩く二羽に話しかけた。当然、返事はなかった。

「八鶏さんって」カラスの鳴き声を二度ほど聞いてから、あおいが再び口を開いた。脳裏では、あの特徴的な長髪が揺れている。「……正直に言ってもいいですか?」

「どうぞ」

 タタラも彼女の隣にゆったり掛けた。

「最初、けっこう怖かったです。こんな近くで、『このガキか』って」

 あおいは右手を目の前に掲げて、千歳の顔がどれほど近い距離にあったか示した。オバケかと思った、と言うと、タタラは笑いながら彼女に同意した。

「俺も、最初は怖かったなあ。あんな見た目だし、愛想はないし、口も悪いし、デカいし」

「そう、なんですか。……なんか意外です」

「そう?」

 あおいは小さく肯定した。「二人は何だか、すごく仲がいいように見えたから」

「仲がいいかは……どうだろう。俺達は友達じゃないからね。ぶっちゃけ、何考えてるかわからないことの方が多いし。四六時中()()なんだから」

 タタラは頬杖をついて、ほとほと呆れたように言った。社交性ってモンがまるでないのよ。──実際、彼の言うことはもっともだった。あの数時間のうちに千歳はただの一度も口角を上げなかったし、他人を「おい」だの「お前」だのと呼んで、態度はまったく暴君のそれであった。

 彼らを称するとすれば、横柄な無頼漢と気の良い優男。このデコとボコのような二人が仲良しだなんて、普通は信じられない。とはいえ、単に店長とバイトという関係にもしっくりこない。あおいには、何故だか二人が深いところで通じ合っているように見えたのだった。

「友達じゃないなら……、兄弟とか、親戚とか?」

「違う違う」タタラの右手がひらひら踊る。「それどころか、知り合ったのもつい二年くらい前の話だよ」

()()()()()()的な間柄(あいだがら)では?」

「全くないねえ」

「全くですか?」

「全くだねえ」

 なんてこった。彼女は愕然とした。力を失って半開きになった口元からは、魂がもう腰の辺りまで出てきているようだった。友達とは──。彼女の脳内では、猛スピードで辞書が引かれた。一体、その関係性を決定づけるのは、重ねた年月ではなく、ハンドシェイクを交わしたかどうかなのか? おしりを嗅いだら即親友なのか?

「男子って、もしかしてみんなそうなんですか……?」 

「さあ……。それは人によるんじゃないかなあ」

 タタラは可もなく不可もない回答を提示した。

「俺とせんはほら、持ちつ持たれつなところがあるから。俺はあの人に助けてもらったし、あの人は俺がいないとこの仕事を続けられない、って具合に」

「持ちつ、持たれつ……」

「一体何を悩んでいるんだい?」

 お兄さんに相談してごらんなさい。そう言わんばかりに、タタラは姿勢を正して胸を張った。胡散臭いなあ、という印象は、とうに消えていた。あおいは躊躇(ためら)うことなく、ぽそりと答えた。

「お二人が持ちつ持たれつなら、わたしと猫の場合はわたしの持たせすぎ、……みたいな」

「何だそれ」重たい空気を払うように、タタラは努めて明るく振る舞った。

「毎日一緒に登下校して、服屋さんでもドーナツ屋さんでも、どこでも一緒に行ってくれて、困ったら助けてくれて……。もちろん感謝してたけど、代わりに何を返してたか考えたら、何も……。甘えたまんまで、何も返してなかったなって」

「二人は幼馴染なんだっけ」

「そう、ですけど……。知り合って二年しか経ってないお二人より、仲良しじゃ、なかった、かも」

 あおいはそう言って(うつむ)くと、唇を一文字にきゅっと結んだ。

 真実、あおいは猫のことを何より好きだった。何でもわかっているつもりでいたし、何でも言い合える仲であるつもりだった。当然、猫もそうだと思って疑わなかった。ところがどうか。猫が姿を消してからというもの、そんな自信はすっかり消えてなくなってしまった。あの瞬間、彼女は何か言おうとしなかっただろうか。あの瞬間、嫌そうな顔をしなかっただろうか。あの瞬間、自分は彼女の気持ちを考えただろうか──。考えたところで詮ないことが、脳味噌の中を無限に泳いでいる。そうしてそのうちに、長い思い出のどこを切り取っても、自分が彼女に対して悪いことをしたような気がした。

「比べるもんじゃないよ」

 小さく丸まった背中を見つめながら、タタラは続けた。

「俺達はたまたまそういう相性だっただけだよ。せんは誰に対しても──良くも悪くも気を遣わないから、俺もあの人に対してはそうしてるだけ。男とか女とか関係なくさ、どういう関係になるかは、時間じゃなくて相性の問題じゃないかなあ。それに、人間関係のことは一人であれこれ悩んだってしょうがないよ。相手がいてはじめて成り立つものだから」

「……です、よね」

 タタラは尚も気落ちした様子の彼女の顔を覗き込んだ。そしてニヤリと口角を釣り上げて、わざとらしく悪い顔をした。

「知ってる? そういうの、〝一人相撲〟っていうんだよ」

「……ちょっと、イラッとしました」

「あははは、その調子その調子」

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