猫さがし
謎の毛玉X改め大物ニワトリのおかげで暖を取ることに成功したとき、それまで二羽のスポットライト以外に光源のなかった店内を、橙色の明かりが包んだ。せいぜい常夜灯が点いた程度だったが、急に視界が明瞭になったので、あおいには朝日でも登ったかのように思われた。
「何だ、人間のガキじゃねえか」
チカチカする視界を慣らしていると、不意に頭上から聞き慣れない低音が降ってきた。一瞬、二羽が喋りだしたのかと思ったが、そんなことあろうはずもない。──では誰が。
顔を上げると、すぐ目の前で、身長二メートルはあろうかという和装の大男があおいを見下ろしていた。二羽がいそいそと逃げる。尾長鶏の尾羽根を想起させる特徴的な長髪が、ベールのように二人を外界から切り離した。この世の者ではない、ように見えた。あおいは思わず悲鳴を上げた。
「うるせえな。おい、タタラ。このガキか?」
「お客さんに向かって『ガキ』はないだろ。見下ろすのもやめろ。ただでさえデカくて怖いんだから」
大男の影からタタラが顔を覗かせた。一つだけ湯呑みを乗せた盆を手に、大男を牽制する格好で間に割り込む。
「ごめんねえ。この人、八鶏千歳。この変な店の店長で、これから凛藤さんの力になってくれる人だよ」
千歳はタタラの紹介に眉を顰めた。「勝手に決めんな」
「そうは言っても、目的は一緒なんだから」
「一緒かどうかはまだわかんねえだろ」
「ああ、そんな態度じゃ一生かかってもわからないだろうね」
何だと。やんのかこんにゃろ。二人をはあおいを置いてけぼりにして、子供のケンカじみた応酬を繰り広げた。奇抜な見た目の大男と今どきの大学生が口論する様は、あまりに奇妙な光景である。「あのお……」
「すみません、わたし話が全然見えなくて……」
やがておずおず挙がった手によって、試合終了のゴングが鳴った。タタラは心底すまなそうに割って入った彼女の顔を見て、早々にファイティングポーズをやめた。
「ごめんごめん、こんなことをしてる場合じゃなかった」
□
「わかってるだろ、真澄の大手柄だ。立派なお客さんなんだから、シャキっとしろよ」
一人さっさと奥の小上がりに移動した千歳は、帳簿机に肘をついて煙管をぷかぷか蒸し始めた。タタラをじいっと睨んだまま、肺というよりはもはや胃に届くのではないかという勢いで煙を呑んでいる。ふう、とそれを吐くと、店内の香りが一層強まった。ははあん、原因はこれか。あおいは密かに探偵を気取った。
「で、ネコが何だって?」
彼女がタタラに促されるまま来客用のパイプ椅子に掛けると、それを見届けてから千歳がめんどうくさそうに尋ねた。実にめんどうくさい、と半分だけ開いた目が語っている。ようやく本題に入る気になったのかな? あおいが確認するようにタタラへ視線を送ると、彼はゴーサイン代わりにウィンクを飛ばした(どちらかといえば、説明を求めたいのは呼び出されたあおいの方である)。
独特な雰囲気を纏う大男は、戸惑うあおいを無言のままじいっと見つめていた。何を言うでもなく、何をするでもない。獲物を狙う鷹がごとし。彼女は恐る恐る口を開いた。
「ええっと、この前の百鬼行列に二人で行って、はぐれちゃって……」
「……」
「それから、行方不明っていうか……。二ヶ月も探したけど、見つからなくって」
「……」
「け、警察からも、目撃情報とかまだ何にも……ないって、言われてて……」
「……」
「……そ、んな感じ、です」
言い終わると同時に、鬼ノ目堂は沈黙した。
千歳の顔を盗み見ると、表情を変えないまま相変わらず煙を呑んでいる。果たしてこの顔は続けろということか、それとも黙れということか。何を考えているのやらとんと掴めない。あおいはとりあえず口をつぐんで、「この空気をどうにかしてくれ!」と言わんばかりの視線を以ってタタラに助けを求めた。しかし今度は彼の方も深刻そうに一点を見つめて、うんともすんとも言わなかった。
大物ニワトリの二羽がちょっと歩いては床を啄く音だけが響いている。そうして五分は経っただろうか。最初に口を開いたのは千歳だった。
「行列は何日前だ?」
「え、あ、に、二ヶ月前……くらい?」
「正確に」
「──ちょうど、五十日前だね」
あわあわ慌てるあおいの代わりに、タタラが答える。彼はスマートフォンのカレンダーを見つめながら、あちゃあ、という表情を隠せない。かたや千歳は半開きの目をさらに細めると、ため息ついでに呟いた。「アタリだな」
「お前」
「〝凛藤さん〟」
「リンドウ、俺はネコについて多少の情報を持ってるし、探し出すのも……まあ、そう大して難しいことじゃない」
「じゃあ……!」
「が、お前に協力するかどうかは、お前の目的次第だ」
空気がぴりつく。指先ひとつ動かすことさえ憚られるようだった。少し前とは打って変わって、鋭い眼光があおいを射抜いていた。
「単刀直入に聞く。お前の目的は何だ」
「目的……」
「どうしてウチに来た」
「それは……猫の情報を、少しでも得られるんじゃないかって、思って」
「情報を得てどうする」
「……探す、に、決まってるじゃないですか。……何が、言いたいんですか?」
一瞬、千歳がタタラに何か確認するような視線を送った。それから煙管を置き台に立てて、飴色の双眸は再び真っ直ぐあおいを捕らえた。
「俺達の目的は、ネコを見つけ出したその先にある。つまり見つける必要があるんであって、べつに救けたいわけじゃない。はっきり言うと、ネコがどうなろうが俺達には知ったこっちゃねえわけだ」
「俺はそんなふうには思ってないけどね」
「……だから、お前がこの件をすべて俺達に委ねるつもりなら、ネコの無事は保証できない。──が、お前が命張れるってんなら話は変わってくる。どの道お前にその気がなきゃあ、救けるも何もないしな」
あおいには、彼の言い分の半分も理解ができなかった。要するに協力しろと言っているのだろうという所までは理解ができる。しかし、それがどうして命を張るだの何だのという話になるのか。彼女の頭上には所狭しと疑問符が浮かんだ。千歳は構わず続ける。
「こっちの都合だがお前の意思を先に聞いておきたい。ネコの為に命を懸ける覚悟はあるか?」
息を呑む音がした。あおい自身だったか、他の誰かだったかはもうわからない。じわじわと腹の底から広がっていく緊張感が、彼女とその他との境界を曖昧にする。突然目の前に現れた〝命〟の一文字はそれくらい衝撃的で、何がわからなくとも深刻な状況であろうことを理解するには充分な重さであった。
遠くで時報が鳴る。四つの目が、瞬きもせずあおいの回答を待っている。彼女には状況が少しもわからない。それでも、何を答えるべきかを迷う余地はなかった。
「猫を救けられるなら。わたしの命くらい、いくらでも」
「よし」千歳は満足げに頷いた。
「たった今から、俺達は協力関係だ。ネコを見つけ、救出するまで俺は俺の持てる全てを惜しまない。だからお前も、ネコに関する情報は出し惜しみせず全部渡せ」
「い、命はどこで賭けたら……」
「お前には説明しなきゃならないことが山程ある。……だが、今から説明してたら日付変わっちまうから、明日、またうちに来い」
気がつくと、時刻は二〇時を回っていた。スマートフォンには母親からの着信が三件。あーあ、これは説教コースだなあ。あおいは渋い顔で液晶を睨む。
窓の向こうは果てのない暗闇。室内は辛うじて表情がわかる程度の薄ら明かり。これでは時間の感覚など掴みようがない。仕方なかったんだ。帰宅後の情景を想像しながら、弁明を考える。
「遅くなっちゃってごめんね」
タタラはそんな彼女の顔色を伺いつつ、無造作に放置したままの上着を羽織った。「お家の人、何て?」
「大丈夫。遅くなるかも、とは言ってあるから、たぶん『何時に帰るの?』っていう連絡だと思います」
「そっか」タタラは内心ほっと胸を撫で下ろす。
「まあ、何にせよとっとと帰ろう」
「おい、お前は帰るなよ」
「お先に失礼しまーす」
「おい」
「冗談冗談。凛藤さんを家まで送ったら戻るって」
「え、いやいや大丈夫ですよ。そんなわざわざ……」
「未成年をこんな時間に一人で帰すわけにいかないでしょ」
世の中こういう不審な人もいるんだよ。千歳を指差しながら言うと、あおいはふっふっと息を弾ませて笑った。
二人肩を並べながら外へ出ると、雪が降っていた。
通りで寒いわけよねえ。わざとらしく吐いた白靄が夜に解けていくのをぼんやり眺める。寒い。あっという間に体が冷えていく。彼女は震えていないだろうか。何をしていても猫のことが頭を過ぎる。金の髪、ハネた毛先、横顔。笑うと右目だけつぶれる癖。努めて思い出さなければ、自分も忘れてしまうのではないか──そんな恐怖がつきまとっていた。
「あの、八鶏さん」
明滅する電球に雪が触れた。あおいは冷たい空気を肺へ送り込むと、店先で空をじっと見つめる千歳に深々と頭を下げた。
「どうぞ、よろしくお願いします」
「……おう」
少しの間を置いて短く返事をした後、千歳は黙って店内へ引っ込んだ。
彼の背中を見送ってから、あおいとタタラも揃って帰路についた。商店街を出ると次第に家々の灯りがまばらに見えてくる。ふと気がつくと、雪はやんでいた。