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猫に暁  作者: 七辻瑞歩
第肆話
10/10

悪鬼

「あ、千歳さんだ」

 千聚堂を囲う筋塀(すじべい)の屋根がちらと見えてくると、真澄はその手前に二つの影を認めた。

 薄闇(うすやみ)と雪で視界不良の中、あおいもなんとか目を凝らす。ああ確かにあのシルエットは、とようやく判然としたとき、彼女の視線は千歳の隣に向いた。

「あの子、誰だろう」

 千歳(と思しき影)のすぐ横には、彼の胸辺りに届くかどうかという高さの影が、もう一つ並んでいる。

「瑞希さんだね。千歳さんの知り合い」

 真澄も少し目を細めながら答える。「子供じゃないよ。凛藤さんと身長変わらないくらいだし」

 もう一度確認して、あおいは納得した。隣が大きいだけだ。

「八鶏さんの知り合いってことは、あの人も鬼堕?」

「うん」

「……わかんないなあ」

 八鶏さんほど体躯(たいく)が大きいというのならまだしも。あおいは言いながら、首を傾げた。

 一方で、千歳と瑞希も坂を上がってくる二人の姿に気がついていた。

 ようやく来たか、と千歳は内心胸を撫で下ろす。相性が悪い相手と二人きり。会話が弾むはずもなく、彼は一方的に気まずい時間を過ごしていた。そこへ、待ちに待った潤滑油的存在の登場である。

 はあ、と無意識に安堵(あんど)の息が漏れる。

「よかったわね」瑞希は視線を遠くに向けたまま言った。

「……何が」

「さあ」

 千歳は苦々しい思いで彼女の横顔を見た。

 一体、この人は鬼堕でなくて「(さとり)」とかいう妖怪なのではないだろうか、という疑念が去来(きょらい)する。死んでも口にはしないが、そんな風に考えていることさえ悟られている気がした。


 豆粒のようだったあおいの姿は、やがてはっきりとした輪郭を伴った。鴇色(ときいろ)の髪は、夜の入り口でもよく映える。

「……誰だあれ」

 千歳は、おうい、とゆるやかに手を振る彼女の傍に、別の影を二つ見た。「真澄と……、何だ?」

 その影は、あおいと真澄の丁度間にちらちら見え隠れしている。

「鬼堕でしょうけど……」

「変な感じだな」

 言い知れぬ違和感が二人の中に湧き起こる。

「一応聞くけど、ネコじゃないよな」

 瑞希は一呼吸してから同情するように言った。

「ええ。あれは……、()()だわ」

 その鬼堕は、あおいと真澄の後ろを、ふらふらとおぼつかない足取りで歩いていた。すっかり脱力した頭が二人の間で揺蕩(たゆた)う。ゆらり、ゆらりと(くう)を泳ぐようにした後、やがてピタリと歩みを止めた。感情の掴めない顔が、のったりとこちらを向く。目は合わない。あんぐりと開いた大口は、何か声にならない叫びを上げているようにも見えた。

 突として、鬼堕の姿が不安定に揺らめいた。陽炎(かげろう)が立つ。人の形が崩れる。

 ──ああ、駄目だ。

 直感すると同時に、千歳は両脚に力を込めた。

「援護を頼む」

 ただそれだけを言い残し、彼は二人の元へ韋駄天(いだてん)がごとく駆ける。

 言葉を返す(いとま)もない。やや遅れて来た通り風が、瑞希の長髪を(さら)った。彼女は散らばった髪を押さえながら、千歳が向かう先を睨みつけるように凝視(ぎょうし)した。心は()いでいる。何が起ころうとしているのか、彼女にもわかっていた。

 一瞬、沈黙があった。あおいと真澄は、慌てた様子で駆けてくる千歳の姿に戸惑っている。その背後で、ぼお、と音がした、その時だった。

 鬼堕()()()()()が突如として猛火に包まれた。火柱が立つ。凄まじい燃焼音が叫声(きょうせい)のように響き、驚いたカラス達が次々と寝床から飛び出す。辺りは不気味な空気を(はら)みながら、昼間の明るさを取り戻した。

 あおいと真澄は、背後で起きている〝何か〟に驚いて、反射的に後ろを振り返った。ところが、状況を把握するより早く、強烈な光と熱に視界を奪われる。目を覆ったところで、何の役にも立たない。まるで太陽がご降臨なさったかと思われるほどだった。

 炎はみるみる勢いを増し、やがて塊と呼べるほどにまで膨れ上がると、うねりながらその形を変えた。

 ある時、叫声がピタリと止んだ。炎が何かの形を模している。

 それは、一体の巨大な(いぬ)だった。

 千歳があおいと真澄の元へ辿り着いたとき、炎の狗は大口を開け、今まさに彼女らを呑み込まんとする所だった。

 二人はこの危機的状況に気付かず、目を覆ったまま立ち(すく)んでいる。逃げられない。いや、逃げられたとしても到底間に合わない──。千歳は悟って、二人の襟首を乱暴に掴むと、力任せに引き寄せた勢いそのまま、後方へと思い切り投げ飛ばした。ぎゃ、という絶叫が響き渡る。

 彼は視線で(もっ)て、二人をうまく現場から遠ざけられたことを確認する。その次の瞬間、狗は狙い通りの位置に噛みついて、千歳の姿は瞬く間に猛炎へと呑み込まれた。


             □


 後方に飛ばされたあおいは、瑞希に受け止められて何とか事なきを得ていた。すぐ傍では、温情を受けられなかった真澄が転がっている。

「ごめんなさい。流石に二人は受け止められなかったの」

 瑞希が声を掛けると、彼は臀部(でんぶ)をさすりながら大丈夫です、と返した。

「なにが……」

 あおいは立ち上がって辺りを見回した。何かに投げられて空を飛んだような気もするが、正直記憶がない。気がついたときには瑞希に抱えられていた。

「鬼堕が、悪鬼に化けたの」

 瑞希は半ばパニック状態のあおいを落ち着かせるような声音で言った。

 彼女が指差す方を見やる。そこには、轟々と燃え盛る炎の塊があった。

 ──あれが悪鬼。あの熱と光はあれのせいだったのか。

 あおいはようやく状況を把握する。話を聞いて想像していたものとは大分様子が違った。あまりの現実味のなさに、地獄ってこういうものがいっぱいいるのかしら、などと取り留めのない妄想が(よぎ)る。

 その最中(さなか)で、はた、と思い至る。千歳の姿がどこにもない。確かに、瑞希の隣にいたはずだったのだが。

 不思議に思いながら狗の周辺を観察していると、突然、鳴き声のような、金切り音のような、どちらともつかない音がした。短く、ひと鳴きするような音だった。

 出所はすぐにわかった。狗だ。狗が悲鳴を上げたのだ。

 炎が痛みを表象するように歪む。そうかと思えば、次第に狗の首が不自然にずれ始めた。

「……あ」

 思わず声が漏れる。

 首はそのまま胴から離れると、重力に従ってひとり落下した。地面に接触する。土煙は大して上がらなかった。代わりに、(すす)のような粒子がさらさらと立ち上り、狗は霧散(むさん)し始めた。

 その向こうで、見慣れた長髪が靡いていた。

「八鶏さん!」

 あおいは思わず駆け寄った。彼女の声に反応して、千歳がゆらりと振り返る。その表情はどこか悄然(しょうぜん)としていて、いつもの彼でないように思われた。

「火、大丈夫ですか!?」

 少しの間を空けてから「ああ」とだけ返事した姿は、今の今まで炎に包まれていたとは思えないほど落ち着き払っている。

「お前こそ、あれに触ってないだろうな」

 千歳は視線だけであおいの様子を確かめながら言った。

「あ、はい。ヤケドとかはないみたいです」

「ならいい」

 返事を聞くなり、千歳はすぐ視線を彼女の奥へやった。

 瑞希さん、と声を飛ばす。急な大声に、あおいの肩が少し跳ねた。

 瑞希と真澄が近くまで寄ってくると、千歳は右手に握った物を彼女に投げ渡した。

「ちょっと、丁寧に扱いなさいよ」

 瑞希はクレームを言いながら、受け取ったものを大事そうに両手で包む。

「なにを投げたんですか?」不思議に思って、あおいが尋ねる。

「骨だ」

「骨!?」

 千歳は何でもない風に答えた。

 骨って何の、と彼女が再び問う前に、瑞希が溜息を吐きながら補足してくれる。

「悪鬼が死ぬと、最後に一片の骨が残るの。《《私達》》はその骨を預かって、丁重に供養しているのよ」

 あおいと真澄は、ほら、と差し出された(てのひら)を覗き込んだ。初めて生で見る本物の人骨に、二人からは「わ、骨だ」と至極当たり前の感想が漏れる。

 白く、所々煤けたその骨は、坐禅する仏像のようにも見えた。

 これを大事に──。咀嚼して、あおいはむむむ、と唇を尖らせた。頭上に大きな疑問符が浮かぶ。悪鬼は悪い鬼堕だと聞いている。だのに、そんな悪者の骨を大事に取っておくのか、と。

 瑞希は彼女の言わんとする所を察して、確かにね、と続けた。

「関係ない人を堕とすのは悪いことよ。自分を大切にできなかったことも悪いことだわ。……だけど、この世に生まれた尊い命だったことには変わりないだろうって、山鵲さんの考えなの」

「えっと……、千聚堂の、お坊さん……?」

「そうよ」

 微かに口角を上げた瑞希の表情を見ながら、あおいは想像する。猫を堕とした悪鬼もこうして大事に扱われるんだろうか、と。

「なんか……、ちょっとイヤな感じかも」つい、本音がぽろりと漏れる。彼女は慌てたように取り繕う。

「あ、いや、なんとなくそう思うだけっていうか。なんでも大事にするのはいいことだと思うんですけど」

「いいのよ、言い訳しなくて。正しい感想だもの。あなたからすれば、仇敵(きゅうてき)庇護(ひご)されるようで気持ち悪いわよね」

 理解を示す彼女の眼差しに、あおいはほっと胸を撫で下ろした。

「安心して、と言うのもおかしいけれど」瑞希は骨に視線を落としながら言った。

「供養なんて、所詮は気休めよ。せめて同じ痛みを知っている私達くらいは孤独な魂に寄り添ってあげたいっていう、いわば自己満足に過ぎないんだもの。祈りには、祈り以上の意味も価値もないわ。悪いことをした分の罰は、ちゃんと、あるんだから」

 ね、と言い聞かせるように言うと、彼女は骨をやさしく懐に入れた。

 なんだ、そぉか。あおいは言葉の最後の方を反芻(はんすう)しながら、安心したように息を吐く。不意に、真澄と視線が交わる。彼も釈然とした表情(かお)で頷いている。千歳は話を聞いていたのかいないのか、遠く海の方を向いて、雪の降るのを見ていた。

 




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