お祭り、鬼面、リンゴ飴
提灯に点った灯りが、視界の端でゆらゆらと揺らいでいた。
千聚堂へ繋がるおかくれ通りの両脇には色鮮やかな露店の屋根が立ち並び、空腹を誘う煙が、往来を散策するようにくゆっている。
月さえも眠る闇夜である。毎年十月のこの日に開かれる『百鬼行列』は、かすみ町がまちを挙げて行う大きな祭りであった。参列者はみな揃いの鬼面を着け、千聚堂まで約一キロメートル伸びるつづら折りの坂道を往く。ときどき露店に足を止めたり、休憩したり。はたまた来た道を戻ったり。そうしてようやくお堂に辿り着いた後、鬼面は火に焚べて、己の邪心と共に焼く。それが百鬼行列の習わしである。
凛藤あおいは、行き交う鬼たちの間を風のようにするする駆けた。
後ろからは制止する幼馴染の声が聞こえるが、今は返事をしている余裕もない。
──急がなければ。その事だけが、彼女の思考を支配していた。急がなければ、当日百個限定の〝オニリンゴ飴〟が売り切れてしまう!
二人は手を繋いだまま、一人抜き、二人抜き……そうして五分は走っただろうか。何せ祭りは最も賑わう時間帯である。人波をかき分け、時にかい潜り、時に飛び越え。やっとの思いで屋台の前までたどり着いた彼女は、ほっと息をついた。もはや鬼面は横を向き、きれいに飾った鴇色の髪は無惨な様子になっているが、気にしている時ではない。逸る気持ちを抑え、呼吸を整える。さて、目的のお品物はまだあるかしらん、そう思った、そんな時だった。
ふと、気がついた。
右手にあった感触がない。見ると、幼馴染と固く繋いでいたはずの手はぶらりとひとり遊んでいる。嫌な汗が額に滲む。急に肺が冷えたようになって、心臓がどくどくと早鐘を打ち始める。通りで賑わう人々の声が、やけにうるさく感じた。
恐る恐る、後ろを振り返る。しかしそこに幼馴染の姿はなく、代わりにぽつんと残された鬼面が、怨めしそうにあおいを見ていただけだった。
□
霞ヶ丘高等学校は、来る冬休みに向けてどこもかしこも浮足立っていた。
期末考査が終わり、ようやく全てのしがらみから開放された学生たちにとって、残された数日間は休みの予定を立てるために存在している。今や考えるべきは微分積分や仮定法過去完了についてではない。考えるべきは、「いかにして冬休みをエンジョイし尽くすか」ということなのである。
当然、一年三組の教室も例外ではない。休み時間になると必ず、クリスマスがどうのとか年末がどうしたとかいう楽しげな話題が飛び交った。もういくつ寝ると、なんて暢気な鼻歌がそこら中から聞こえてくる。
誰もが目前に迫った冬休みを心待ちにしていた。ただ一人、彼女を除いては。
「お昼ですが」
不意に頭上から声がかかって、あおいはハッとした。
弾かれるように周囲を見ると、クラスメイトは思い思いに昼食を摂り始めたところだった。
「大丈夫?」ベストタイムキーパーが、怪訝な表情であおいの顔を覗き込んでいる。
「敦子ちゃん。……ごめん、ぼうっとしてた」
「最前列でぼうっとできるなんて、もう才能だよねえ」
「褒めすぎ褒めすぎ」
「褒めてない。橋本先生落ち込んでたよ」
そんなに先生の授業はつまらないですか、って。敦子はモノマネを交えながら、当時の空気がいかに重苦しかったか説いた。
「ええ……。どうしよう、全然覚えがない」
「そうでしょうとも。あれは、なかなか芸術点の高いシカトだったね」
想像すると、背筋が凍った。そんなつもりなかったのに。あおいは弁当の包みを開きながら、胸の中で弁明した。
ただでさえ、教師陣からの心象はよろしくない。気弱で、のろまで、意志薄弱。あおいの評価は大抵がこれに尽きた。良い面といえば敵を作らない人の好さだが、そんなものは相性による。マイペースな人柄を「癒やされる」と言う人がいれば、「いらいらする」と言う人もいるだろう。
あーあ。また担任から小言を言われそうだなあ。口に放り込んだ卵焼きは、いつもより塩辛い味がした。
「まあ、あおいが抜けてるのなんて元々だし。気にしなさんな」
敦子はあおいの肩を軽く叩きながら、慰めるように言った。「気にしたところで今更だって」
「敦子ちゃんが言い出したのにヒドイ」
「冗談だよ、ジョーダン」
敦子はからから笑った。
「あおいは今それどころじゃないって、皆ちゃあんと分かってるから」
三谷町猫が行方不明となって、五十日が過ぎていた。依然として手がかりを掴めないまま冬を迎え、年を越そうとしている。
二日前にはかすみ町でも初雪が観測された。気温は日々最低を更新している。日を追うごとに着膨れしていくお天気キャスターの姿は、ただただあおいを不安にした。
「で、何か進展はあったの?」敦子はメロンパンを豪快に頬張ると、咀嚼しながら軽い調子で尋ねる。
「なーんにもなあい」
「百鬼行列のあの人混みでしょ? 目撃者が誰もいないってこと、ないだろうに」
「そうだよねえ。そう思うよねえ」
情報は、すぐにいくらでも上がってくるだろうと思っていた。決して、甘く考えていたわけではない。例年、百鬼行列にはこれを目的として全国から観光客が押し寄せる。祭りの参加者は年々増加傾向にあり、今年で言えば例年の二倍だとか三倍だとか言われていた。
そんな状態で、遅かれ早かれ事件は解決するだろうとどこか悠長に構えていたのは、あおいに限った話ではなかった。
「……本当はさあ、みんな知ってるんじゃない? 猫がわたしに愛想尽かしていなくなっちゃったのを、本当はみんなして隠してるんじゃない? ウソついてない?」
「また始まった」
「わたしには黙ってろって、猫に頼まれてるんじゃないの?」
なーんて、思っちゃうくらい。何にもないのよねえ。項垂れながら、あおいは敦子に視線を送った。冗談めかしながらも僅かばかりの期待が乗ったそれは、ひらひら踊る敦子の手の平によって無念にもスープジャーへと墜落する。
焦燥感ばかりが募っている。
当初、〝同じ学校の生徒が行方不明〟という衝撃的なトピックは平凡な生活を送る学生たちを一気に非日常へ誘った。事件直後は一に挨拶二にミヤマチといった具合で、もはや霞ヶ丘高校に彼女を知らぬ者はないという程話題をさらったものだった。幼馴染であるあおいの元へ、マスメディアかぶれの野次馬たちがなだれ込んだことも一度や二度ではない。しかしそれもほんの一時のこと。はじめこそ意欲的に捜索活動や情報収集を手伝っていた生徒たちも、ひと月経てば飽き始め、日を追うごと一人また一人と数を減らした。校内の至る所に掲示した捜索願いのチラシなどは、もう誰も足を止めて見ない。
行方不明のミヤマチ事件は、早くも過去の出来事になろうとしていた。それがあおいには耐え難く恐ろしかった。はやく見つけなければ。誰もが猫を忘れてしまう前に。そういう焦燥感ばかりが募っていた。
「本当にそうだったら、どうしよう」
「そうって?」
「だからその、わたしのことが嫌になっていなくなったんだったら……」
口ごもるあおいに、敦子ははっきり答えた。「ナイでしょ」
「どうして言い切れるのよう」
「だってあたしは当事者じゃないから」
「薄情者……」
「失礼な。これはね、冷静な他人からの客観的見解なのよ」
気がつくと、最後の卵焼きは敦子の口に放り込まれるところだった。敦子はごちそうさまと言わんばかりにウィンクをひとつかますと、「じゃ、あたしは委員会だから」とそそくさ席を立った。
「言い逃げはんたあい!」
「言い逃げはあたしの信条」
あおいはぷりぷりしながら、華麗に去っていく敦子の背中を見送った。あんな風に言うけれど、誰よりも手を貸してくれる大事な友人である。何よりも、気が急いて後ろ向きになりがちな今のあおいにとって、敦子のさっぱりとした物言いはちょうどいい薬であった。
「そういえば、言い忘れたことがあったんだった」
スープジャーに口をつけたちょうどその時、見送ったはずの敦子が戻ってきた。
「委員会は?」
「ちょっとくらい平気平気」
敦子はブレザーの右ポケットを探ると、小さなメモ紙を取り出した。「そうそう、これこれ」
「なあに、これ」
「これがさあ、今朝あたしの靴箱に入ってたのよ」
「ええ、いまどきラブレター? 敦子ちゃんもてるんだねえ」
どこに呼び出し? あおいは興味津々に尋ねる。が、敦子は首を横に振った。
「あたし宛だったらわざわざ戻ってまで報告しないよ」
「じゃあ、誰宛?」
敦子は黙ったまま、メモ紙をあおいに差し出した。
あおいはメモ紙と敦子の顔を交互に見比べながら、目をぱちくりさせている。しばらくそうした後で、ひぇ、と形容し難いへんてこな声を挙げた。
「ないない、おかしいよ。敦子ちゃんの靴箱に入ってたのに、どうしてわたし!?」
「知らないよ、間違えたんじゃないの。『凛藤あおい様』って書いてあるし」
あたしは凛藤あおい様じゃあないからねえ。じゃ、そういうことで。敦子は言うだけ言って、今度こそ本当に去っていった。
得体の知れない何者かからのメッセージを託されたあおいは、どうしたものかと頭を悩ませた。今はこんなことで悩ませている場合ではないのだが、一応悩ませた。充分に悩ませたあとで意を決すると、丁寧に二つ折りされた5×4センチを恐る恐る開く。生唾を飲み、極めて慎重に行われる様はさながら爆弾処理である。果たして処理された先には、次のようなことが書いてあった。
凛藤あおい 様
本日十七時、旧霞商店街の南門前までお越しください。
三谷町猫さんについてお聞きしたいことがあります。
鬼ノ目堂 初瀬
「き……のめどう、しょせ?」
なんてへんてこな名前! あおいは思わず口にしかけたのをぐっと堪えた。胸の辺りがふつふつ沸騰している。一体、このありふれた紙切れ風情の中に、五十日間血眼になって探し求めた手がかりが眠っていようなどと誰が考えたであろうか。なんてすてきな天恵か。彼女は、もう誰彼構わずこの喜びを分かち合いたくてたまらなかった。何ならこの場で狂ったように叫び散らして、声の届く範囲にいるすべての人間に、今どれ程喜ばしいことが起きているかということを知らしめたかった。
「十七時だから……、急がなくっても間に合うかな」
メモ紙を折り目通りに畳むと、失くさないようスマートフォンケースの中に挟み込む。時計を見ながら、十七時までの予定を立てた。〝きのめどう〟さんって、おじいさんかしら。いくら考えてもへんてこな名前。くつくつ笑いがこぼれる。しかし送り主の名前などは、この際どうでもよいことだ。そして、この誘い文句がいかに胡散臭いかということもまた、同じくらいどうでもよいことだった。
借りられるものは猫の手でも借り、掴めるものは藁でも掴む。これが凛藤あおいの信条なのである。