3.図書室
パタパタパタと軽い足音が聞こえて、喜一はそちらに目を向けた。なんとなくだが、それは小森の足音に聞こえたのだ。
案の定、向かいの校舎の廊下を走っているのは小森だった。
最近では大勢の生徒がいる全校集会の場でも、すぐに彼女の姿を見つけることが出来るようになっている。恋をするとそんな特技まで身に付くようだ。
(ここまできたらただのバカだな。小森バカ)
自分でそう思って、思わず苦笑した。
だが、彼女が廊下を走る姿なんて珍しい。今は放課後で特に時間に追われているわけでもないだろう。友達を待たせているとか、そんな所だろうか。
施錠の為に図書室へ向かって廊下を歩いていた喜一は、小森の後ろから男性が廊下に出てきたのを目にした。
彼が出てきたのは社会科準備室。そしてその男性は吉川先生だ。彼は彼女を追おうとしたがすぐに足を止めた。何か言いたそうに彼女の後姿をじっと見た後、溜息をついて準備室へ戻り、そのドアが閉められる。
恐らく小森は吉川先生と一緒に準備室にいたのだ。それからそこを出て走っていった。
「…………」
確信は無かった。根拠も無い。けれど、喜一の足はそのまま図書室に向かっていた。
放課後の図書室に生徒の姿は無かった。試験期間中のこの時期はほとんど利用者がいなくなる。それに試験勉強の為、図書委員も通常より早めに仕事を切り上げ帰宅することが許されていた。
図書室の一番奥。図鑑ばかりが並ぶ陽の当たらない本棚の影に、小森の姿があった。彼女は床に体育座りをして、その膝に顔をうずめている。
喜一が声をかけると、彼女の細い肩がビクッと震えた。
「小森」
「…………」
そっと彼女が顔を上げる。その目は赤く、頬には涙の痕が残っていた。
「……坂上、君」
「ごめん。一人になりたかった?」
弱々しい彼女の声を聞いて、喜一は声を掛けた事を後悔した。けれど、彼女は首を横に振る。
喜一はそっと彼女の隣に腰を下ろした。ひんやりと冷たい床の感触が伝わってくる。
「俺さ、図書室って好きなんだよね」
喜一が言うと、彼女は目元を拭って少し目を細めた。
「本がこう、びっしり並んでる空間って特別な気がする。空気も違うような気がするんだ」
そう言って、喜一は目の前の本棚を見上げた。
上から下まで隙間なく並び立つ本の群れ。それらが今、自分を見下ろしている。落ち着く空間。いつもの喜一の場所。
「図書室ってさ、基本的には静かにしなきゃいけない場所だけど、でもそう決められてるからじゃなくて、本があるから自然と静かになる気がするんだ。なんか、本が余計な音を吸い取ってくれてるみたいな」
すると喜一の目線を追うように小森も顔を上げた。
「……私ね」
隣で聞こえてくる彼女のかすれた声に、喜一はじっと耳を澄ます。
「図書室に来ると、時々本がいつもと違うなって思う時があったの」
「……違う?」
言葉の意味が理解できなくて、喜一は静かに聞きなおした。彼女はそれを受けて小さく頷く。
「そう。時々、本の存在感が大きい日があるの。上手く言えないんだけど……。いつもただ本棚に置かれているだけの本の一つ一つが、自分達の存在を主張するみたいに、棚に並んでるの。胸を張ってるって言うか、そんな感じ」
「…………」
「……ゴメン。なんか、訳分かんないよね」
喜一の沈黙を困惑と受け取ったのだろう。そう言って、彼女は苦笑いを浮かべる。けれど喜一はしっかりと首を横に振った。
「いや。……違う。そんなことないよ。その……、なんとなく俺も分かる気がする」
その言葉に勇気付けられたのか、小さく微笑んで小森は先を続ける。
「実はね、私どうしてもそれが気になって、なんでそんな風に感じる日があるのか、こっそり確かめたことがあるの」
「……分かったの?」
喜一は驚いてそう問いかけた。他人に説明するのも難しい、自分の中だけの曖昧な感覚を確かめるなんて、どうやったのだろう。
「理由は分からなかったけど、原因は分かったよ」
「え?」
小森は本棚に向けていた目線を戸惑う喜一に向けた。そしてまるでいたずらっ子のように微笑む。
「それはね、坂上君だったの」
「……俺?」
彼女の言葉を飲み込めない。どういう事か目だけで問うと、彼女は言葉を続けた。
「そう。私が本を見てそう感じる時はね、必ず坂上君が本を棚に並べた日だったの」
「あ……」
喜一が好きな本の返却。本達の居場所を作る作業。並べて、揃えて、整える。それが、こんな風に他人に気付かれていたなんて。
「それから、少し坂上君のこと気になってた。私が、図書室に来てじっと坂上君のこと見てたなんて知らなかったでしょ」
目を細めて彼女が笑う。喜一は初めて聞かされる事実に顔が熱くなるのを感じていた。彼女は自分が彼女に気がつくずっと前から、喜一の事を知っていたのだ。
「全然……、知らなかった」
「やっぱり。坂上君、私がカウンターに行っても全然顔見ようとしなかったもん。私が坂上君に気がついていても、坂上君にとって私は利用者の一人でしかないから仕方ないよなぁって思ってた」
「…………」
それは喜一も小森に対して思っていたことだ。自分は図書委員の一人でしかないのだと。話ができたからといってもそれは委員の仕事の範囲内であって、坂上喜一としてではない。そう思っていたのに。
「俺は……。小森の事、金魚みたいだって思ってた」
「え?」
すっかり涙の渇いた目で、小森は喜一を見返した。
「真っ赤な顔して、嬉しそうに吉川先生の所へ泳いでいく金魚」
「あ……」
「ごめん。からかってる訳じゃないんだ。ただ、羨ましかった」
「…………」
小森は少し悲しそうな顔をしている。瞳には困惑の色が浮かび、唇は言葉を紡ぎ出せないでいる。
言葉にしたら、きっとこの顔がもっと困った表情になるのだろう。そう分かっていても喜一は口を閉じなかった。今を逃したら、きっともう口にする機会は無いと思ったから。
「本当は吉川先生じゃなく、俺の所に来て欲しかった。……小森の事、好きだから」
ハッと、息を飲む音が聞こえる。両の手が硬く握られ、彼女は喜一から目を逸らしていた。
「ごめん。返事は分かってるからいらないし、単に言いたかっだけ。自己満足だから」
「…………」
彼女の目から再び涙が溢れる。喜一は静かに微笑むと席を立った。
「もう、閉める時間だから。出よう」
静かに立ち上がり、図書室の中をぐるっと見回す。図書室の中が夕焼けでオレンジ色に染まるこの時間は喜一が好きな瞬間だったが、長居する気にはなれなかった。
辛いわけじゃない。一度は伝える事を諦めたこの想いを、無駄にせず言葉にすることが出来た。喜一にはそれで十分だった。ただ、失恋の悲しさは胸に張り付いてすぐには離れそうにない。
ゆっくりと図書室内を見回りする。生徒の忘れ物はないか、本のしまい忘れはないか、窓の戸締りはしてあるか。ひかれたままの椅子があればそれを戻した。
それらが全て終わるとカウンターへ行って、引き出しの中からカギを取り出す。鞄を持って出入口へ向かった。
「小森」
喜一が見回りしている間もずっと座ったままだった小森に一度声を掛けた。
彼女は何も言わずに喜一の顔を見る。涙は流れていなくても、その顔は泣いているようだった。
「帰ろ」
喜一が笑ってそう言うと、彼女も立ち上がる。けれどすぐに鞄を持とうとはしなかった。その代わりその両手をぎゅっと握る。
「坂上君」
震えていてもはっきりと彼女の声が喜一に届く」
「……ごめんね。ありがとう」
笑っている喜一の目元が熱くなる。段々と小森の顔が歪んで見えなくなると、頬に生暖かいものが触れた。反射的にそれを左手で拭う。手に付いたのは自身の涙だった。
「うっ……」
嗚咽が漏れる。かっこ悪いと分かってはいても、一度出たものはもう止められなかった。
(あぁ、良かった……)
胸の中の冷たい塊が、小森の一言で溶かされ、涙となって外へ出て行く。
もし、あのまま彼女の言葉を聞かずに別れていたら、自己満足なんてかっこつけて終わっていたら、喜一はきちんと失恋する事が出来ずに、曖昧に感情をもてあましたまま過ごす事になっていたのかもしれない。
彼女のお陰で喜一の恋心が昇華されていく。涙となって。悲しい、という確かな感情となって表に現れる。
喜一の最初の恋が終わった瞬間だった。
* * *
「何それ」
真っ青に晴れた初夏の空。昼休みに屋上で昼食を食べていた草太は、喜一の話に耳を傾けていた。だが理解不能と顔に貼り付けて、親友の顔を見る。
「小森も先生にフラれたんだろ? だったら、もうちょっと待てば良かったじゃん。そしたらフレれる理由なんてないじゃんか」
その言葉に、喜一は眉を下げて小さく笑う。
「そんなことないよ。別に小森に好きな人がいなくたって、フラれないとは限らないだろ?」
「そうかぁ~? でもその方が、上手くいく可能性は大きいんじゃないの?」
「さぁ、どうだろうな。でも、そんなこと言ってももう遅いだろ?」
そうだけどさぁ、と言って草太は唇を尖らせた。わざわざフラれる為に告白したような喜一の行動が理解できないらしい。
(単に、勇気が無かっただけだ……)
自分から見ても吉川先生はいい人だと思うし、男として勝てるも所なんてない。真っ向勝負なんてする気はなかった。
あの時はただ、自分の事を知っていてくれた彼女に、自分の気持ちを打ち明けたいだけだったから。
「まぁ、喜一がいいなら、いいけどさ」
「あぁ。サンキュ」
心の底に悲しい気持ちは残ってる。それでも、喜一は今の自分を後悔してはいない。
だって、見上げる空はいつもより綺麗に見えるから。この恋を失っても自分の世界はそれほど悪くなってはいない。そう確信できた。
本の匂いが好きだ。
古くて分厚い辞典の上に積もった埃を軽く手で払うと、喜一は本の山を持ち上げた。山の一番上の本の背表紙を見る。下部に張られたシールを確認すると、該当する棚へ移動した。左手で本の山を器用に持ったまま、右手で本を棚へ戻す。
なんだか今日は調子がいい。本を返却する場所も迷わずに、順調に作業が進んだ。
最後に徳川家康について書かれた小説を棚に戻すと、ふと目がある本に留まった。それはあの歴史小説。先日まで喜一の苛立ちの元になっていた本だ。
だが今日は違った。喜一の調子が良いせいなのか、それとも違う要因があるのか。その本は他の本達と同様、静かに棚に収まっていた。それを見て自然と喜一の口元に笑みが浮かぶ。
吉川先生が薦めてくれた通り、その本を読んでみてもいいのかもしれない。そう思って、喜一はその本を手にカウンターに向かった。分厚いその小説は片手で持つには少し重い。けれど、心地の良い重さだ。
坂上喜一と書かれた貸出カードを取って、今日の日付を記入した。本の背表紙を開けると、カードを取り出して自分のクラスと名前を書いていく。すると、小森晶の名前と並んだ。彼女が借りた後、誰もこの本を借りていなかったのだ。
「すいません」
ぼーっとその名前を眺めていると、頭の上から声がかかった。喜一が顔を上げると、そこに立っていたのは小森だった。
「あ……、はい」
突然の事に言葉が続かないでいると、控えめに小森は微笑んだ。本を借りにカウンターに来たにしては、彼女は何も持っていない。
「図書委員さんのオススメの本って、ありますか?」
「え?」
そう言うと、彼女は少し照れくさそうに喜一から目を逸らした。その頬がほんのり赤く見えるのは気のせいではないのだろう。
騒ぎ出す自分の鼓動の音を聞きながら、喜一は「はい!」と笑って席を立った。カウンターを出ると小森と共に本棚へ移動する。
二人は微笑みながら本棚を見上げ、二人を囲む本達はいつものように胸を張り静かにその様子を眺めている。
ほら。やっぱり喜一の世界は悪くない。
完
図書室という本が沢山ある空間が好きです。
橘。本人はそれほど多くの本を読む人間ではありませんが、それでも本が並んでいる空間は自分にとって特別な場所でした。
皆さんにとって、図書室とはどんな場所なのでしょうか?
ここで『図書室の赤い金魚』はお終いとなります。
喜一と晶の関係がこれから友情となるのか、それとも新たな恋愛になるのか。それは書き手である橘にも分かりません。
けれどどちらに進んでもきっと、喜一の世界は幸せなものである筈です。
最後までこのお話を読んでいただき、ありがとうございました。
2009/12/27 橘




