2.歴史小説
一度意識すればこれ程世界は変わるのか。
喜一は自分の生活の中に、驚くほど小森晶の存在があったことに改めて気付かされた。
隣のクラスという事もあって合同の授業も多く、廊下や昇降口で顔を合わせる機会も多い。また小森は一週間の内、放課後はほとんど図書室にいた。喜一が当番の日は必ずと言って良い程、本を借りにカウンターに来る。
喜一は彼女が見ていない内に、こっそりと貸出カードを改めて見た。するとずっと以前から彼女はここでマメに本を借りていた。
(どうして、もっと早く気付かなかったんだろう)
今では気付くことのなかった時間がとても惜しいものに思える。
だって、彼女を好きになってからの学校生活は以前とは全く違ったものだったから。朝が弱かった喜一が、目覚まし時計が鳴るより早く起きることがある程なのだ。それは何より小森に会いに学校へ行く為に他ならない。以前はうっとうしかった草太の恋バナも、今では自分から切り出すことさえある。
喜一は視界の隅に彼女の姿を捉えながら、今日返却された本を仕分けしていた。
ふと、目に付いたのは先日彼女が借りていた小説。何気なくそれを手に取り、パラパラと捲ってみる。挿絵も無いその分厚い歴史小説は女子中学生が借りるには少し堅苦しい感じがした。
「おや。坂上君、その小説に興味があるんですか?」
頭上から声を掛けられて顔を上げると、カウンターの向こうにいたのは社会科の教師だった。
大きめのフレームの眼鏡のレンズを通して、彼は穏やかに笑っている。三十代半ばの男性で、クラス担任は持っていないものの、見た目の通り性格も優しく生徒に人気がある。喜一自身、彼の授業は好きだった。
「いえ、ちょっと気になっただけなんですけど。吉川先生は、この本読んだ事あるんですか?」
「えぇ。僕の好きな本なんです。歴史の勉強にもなるし、何より話が面白いですから、坂上君にも是非おすすめしますよ」
「へぇ~」
「授業でもちょっとこの小説の話をしたことがあると思うんですが」
「え? そうでしたっけ?」
「おや、僕の授業聞いてませんでしたね?」
そう言ってからかうような笑みを浮かべる吉川先生に、喜一は曖昧に笑ってみせる。すると、ふと視線を感じてそちらに目を向けた。
「!?」
その先に居たのは小森。慌てて目線を逸らすと、吉川先生が窺うように喜一の顔を覗き込んだ。
「どうしました?」
「あ、いえ……」
「吉川せーんせ!」
突然割り込んできた女子生徒の声に二人の会話は遮られる。吉川先生の後ろから顔を覗かせたのは一年生らしき生徒だった。そこに二・三人の女子が集まってくる。
「先生も本借りにきたんですかぁー?」
「いえ。僕は図書委員も担当してるんです。今日は委員の子達の様子を見に」
「そうなんだぁ。先生、私達化学のレポートの資料探しに来たんですけどぉ」
「おや、何について書くんですか?」
「温暖化です。本ってどの辺にありますか?」
「あぁ。それなら……」
吉川先生の後をついてぞろぞろと生徒達が移動する。まるで親鳥の後をついて回るヒナみたいだな、と思いながら喜一はそれを見送った。けれどすぐに彼女のことが気になって、ちらりとそちらを盗み見る。
(あっ……)
彼女の目は先程の生徒達の方を追っていた。
彼女達に本の場所を教えていた吉川先生が、それを終えて小森が座っている席の横を通る。すると彼女はパッとその顔を下に向けた。一見本に目を戻したように見えるが、喜一の目にはそうは映らなかった。明らかに吉川先生から目を逸らしたように見えたのだ。
先生が通り過ぎると再びこっそり顔を上げてその背中を目線が追う。彼が図書室を出て行くまでそれは続いた。
一度意識すれば自分の世界は大きく変わる。それは自分が今まで気付かなかった事に目を向けるようになるからだ。しかしそこで気がつくのは必ずしも自分にとってプラス面だけではない。
喜一は気がついてしまった。彼女の事を意識して、彼女の事を知って、そして彼女の密かな想いを目にしてしまった。
(一目ぼれして、早々に失恋か……)
なんだか実感が涌かない。彼女は恐らく吉川先生のことが好きだ。けれどそれは単なる憧れに過ぎないのかもしれない。
(でも、少なくとも俺よりは先生の方が好きなんだよな……)
再び手元の本に目を落とした。もしかしたら、喜一が彼女を知るきっかけとなったこの本も、吉川先生が薦めたから彼女は借りたのかもしれない。彼女がマメに図書室に顔を見せているのも、先生に会う為なのかも。
そう思うと、出会いから吉川先生に負けている自分は、どう足掻いてもそれを超える事が出来ない気がした。
* * *
最近やたらに、一冊の本が目に付いた。
本を棚に並べていると、どうしても自分にとって用の無いその本が視界に入って苛々する。以前小森が借りたその歴史小説は、何度喜一が並べ直してもしっくり来なかった。
他の本はぴしりとすっきり立派に立っているのに、どうもその本だけは自分の幅を取り過ぎているような、他の本の邪魔をしているような気がしてならない。電車の座席で大股を広げて座っている若者の様な感じだ。もっと詰めれば、足を閉じればもう一人席に座る事が出来るのに、そいつのせいでそれが叶わない。
視界に入る度、喜一はその本を棚から出して入れ直した。しまう場所が間違っているわけでもないし、本が曲がっているわけでもない。
それでも駄目だと分かると、出来るだけ視界に入れないように努めた。すると自分がカウンターにいる時でも、窓の戸締りをしている時でも、その本に対して背を向けていると、じっとそいつが自分を見ている気がして更に喜一の苛々が募る。
お陰で最近は好きだった返却作業も気が進まない。そんなことを草太に言っても多分バカにされるか笑われるかのどちらかなので、誰にも言う気にはなれなかった。
その歴史小説と攻防を繰り広げている間にも、さりげなく喜一は小森の事を気にしていた。
委員の仕事の合間に彼女の姿を見つけては、その様子をそれとなく窺う。吉川先生に話しかけられて頬を染める場面も何度も見た。三人で話をした事もある。
その度に彼女の想いを再確認させられる事になるのだが、それでも喜一は小森の事が気になって仕方がなかった。
自分の目の前で頬を赤く染める彼女。ヒラヒラと制服のスカートを揺らして図書室を歩く彼女はまるで水槽の中の赤い金魚のようだ、と喜一は思った。赤い顔で本の波を行ったり来たり。そうして最後に辿り着くのは愛しい想い人。その相手は決して自分ではあり得ない。
教師と生徒の恋に偏見を持つつもりはない。けれど、それが叶う可能性は同世代同士の恋よりも難しい事も分かってる。彼女の恋が実ることはないのかもしれない。それが嬉しいのか悲しいのか、今の自分には判断できなかった。
生ぬるいドロドロの中にいるような、いつまでも目が覚めないような不快感。手を伸ばせば届くのに、それ自体が億劫で心も体も動かない。それらが喜一の力を奪ってく。
今の自分には彼女を先生から引き離す事も、想いを伝えて玉砕する事も出来ない。その力もない。
負ける力もないなんて、今の自分に一体何の意味があるのだろう。




