3-13
醤油は白花由来の調味料である。
大豆や小麦を混ぜて発酵させる。
調味料は腐りかけた肉を誤魔化すためのものであると言われている。
しかしうまい料理人が使えば大豆の消臭作用によって肉の臭みを打ち消して、小麦の甘味が独特の味わいを奏でるのだ。
ティル・ナ・ノーグの闘技場には東西の調味料が揃えられている。それは世界中から訪れる要人の舌を満足させるためだ。
酒、スパイス、塩、砂糖、蜂蜜……。
先ほどの醬油も薄口から濃口まで、さらにいくつもの種類が揃えられている。
そのあたりの小売店で手に入るものもあれば、遠い国から取り寄せた貴重品まで幅広い。
だから本来この調味料を使う場合は専用の手続きと使用料を支払う義務があるのだが、ミナーヴァ・キスにはその全てをすっ飛ばす権限があった。
「はい、どーぞ」
赤褐色の液体が入った瓶を軽く振る。
ミナーヴァは軽い気持ちで振っているが、運送や調理の手間などを考えれば銀貨3枚分の価値はある代物だ。
しかし肝心のミナーヴァが気楽に扱っているので、クレイアもその価値に気付かないまま、ありがとうと笑って瓶を受け取った。
今、クレイアとミナーヴァはキッチンで隣り合って調理に励んでいる。
厨房はイーストエリアとウエストエリアの二つしかない。
それをイオリとクレイアで分け合っていたのが、ミナーヴァの割り込みでクレイアと折半して使うことになったのだ。
後ろではユッカが材料の吟味と味付けを行っている。クレイアがその仕上げをしているようだ。
漂ってくる脂の香り。意外なことにクレイアが挑戦しているのは菓子ではなく普通の料理だった。
どちらかというとユッカの領分であるはずだ。
「ホントに良かったの?」
ミナーヴァはそんなことをつぶやいた。
「ちゃんとユッカさんとは話し合ったよ」
「そっちじゃなくてさぁ」
ミナーヴァはつぶやきながら、竈から焼けたばかりの生地を取り出した。オレンジピールとナッツの甘ったるい香りが充満する。
「イオリのこと。どうしてわざわざ再戦したいなんて言ったの?」
クレイアは答えない。だから別の質問をすることにした。
頭一つ小さい彼女と目線を合わせるために腰を屈める。
「クレイア、そこのケーキナイフ取ってくれない?」
やはり答えない。だけど聞いてはいるらしく壁に吊るされている器具に手を伸ばしてくれた。
吊るされているのは肉切り包丁、出刃包丁……。その中からクレイアはのこぎり刃のついたケーキナイフをつかみ取った。
器用に刃のない部分だけつまんで、ミナーヴァに柄を向ける。
「はい」
ありがとうと言ってミナーヴァは柄を握る。
しかしクレイアは離さない。
「……どうしたの?」
クレイアはやはり答えない。
しかしそのキッと睨んだその瞳が、雄弁に物語っていた。
「面倒だとか言わないわよね?」
そんなこと言わないよ。
だけどミナーヴァはそれを口にはしなかった。
代わりにこう言ったのだ。
「エレリア・イーズナル」
クレイアの表情が凍り付く。
「何の話?」
「エレリア・イーズナル。妹さんの名前だよね? 病弱で、優しくて、イオリに似てる」
「イオリが病弱? 目がおかしくなった?」
五十年くらい後にはそうなるかもね、とミナーヴァは苦笑する。
「あの歳にしては手足が細すぎる。一時期栄養が行き届いてなかった人に多い体型だよ」
クレイアは答えない。
だけそ今度は明らかな動揺が見えた。
(図星……というか“やっぱり”自覚ナシか……)
ミナーヴァの視線が揺れる。
イオリと目があったのだ。
おそらく材料を取りに行くのだろう。
ミナーヴァが笑顔で手を振ると、そっぽをむかれてしまった。
「……嫌われた」
「ミナーヴァ。あんた、何したの?」
今度はミナーヴァが言いよどむ番だった。
だけど決意して、恥ずかしい過去を打ち明ける。
「ビンタした」
さすがにクレイアがぎょっとした。
「殴ったの? パー? それともグー?」
「おっぱい」
クレイアから肩の力が抜ける。納得したような顔をしていた。
「……前にアクチェが顔面骨折した“アレ”やっちゃったの?」
「そう」
「そのまま窓割って3階から落っこちちゃった“アレ”?」
「そう。そのまま川に流されて、あたしがクロールで助けに言ったやつデス……。その節はご迷惑おかけしました……」
ミナーヴァはがっくりと項垂れた。
クレイアは「あとでちゃんと謝りなよ」と話してくれたし、ミナーヴァは「うん。ちゃんと謝る」とつぶやいた。
気まずくなったのか、クレイアは話題を切り替える。
「何作ってるの?」
「シュトレン。故郷のお菓子」
生まれ故郷であるキルシュブリューテ――正確にはさらにその奥のアナトリアという区画なのだけれど――ではごくありふれた焼き菓子だ。
ウイスキーを練り込んだパン生地にナッツやオレンジを入れる。
酒を入れるのは消毒作用があるからだ。おかげで1か月以上日持ちする。農作業が多いサキュバスにとってこの上ない間食なのだ。
とはいえ今回は勝負用なので少しだけ“よそいき”に飾り立てている。
白い粉砂糖をまぶせば完成なのだけれど――
「粉砂糖がない」
しばしミナーヴァは考える。
解決策はすぐに見つかった。
「片栗粉でいっか」
良いわけないだろとクレイアが突っ込む。
「アンタってほんといい加減だよね! こないだロールキャベツのキャベツないからってレタス使ってたし!」
「似たよーなもんじゃん! それに! 片栗粉なら生で食べても問題ないし」
「そうじゃなくって! レシピ通りに作れって言ってんの! 代わりなんてないんだから」
「イオリも妹さんの代わりじゃないよ?」
クレイアは答えない。
ミナーヴァは、思う。
妙にクレイアがイオリに親身になっていると思ったから勘ぐってみたが、そういうことかと得心がいく。
(やっぱり……自覚ナシだったか)




