3-5
サキュバスは農耕民族である。
花の栽培を生業とする花の都キルシュブリューテの端っこにある村の出身で、こちらが扱う植物は華やかさこそないが人の腹を満たすという重要な役割を担っている。
主に農作物を取り扱い、中でも名産はジャガイモとタバコ。
日々農作に勤しむため手は傷だらけで、その細腕からは想像できぬくらいに力強い。
それは体質か、あるいは極限まで絞り込まれた筋繊維がなせる技であるとも言われている。
そんなサキュバスの手が人形の頭を包み込む。
五本の指でしっかりと。さながら猛禽類が肉を歯で咥えるかの如く。
万力のごとく締め上げて、厚い綿の奥にある木製の骨格が大きく軋む。まるで指に噛みちぎられているかのような。
そのまま異質な音を立てて、骨格が引き摺り出されていく。
人間に例えるなら素手で腸を引き抜くような蛮逆。
可愛らしかった熊の人形は、フレームやら配線やらが引っ張り出され、それはそれはグロデスクな外観をさらけ出していた。
ミナーヴァはまるで獲物を捕まえた猛獣の如く佇んでいる。もしくは太古の野蛮人か。
シマウマとライオンを入れた檻の中に迷い込んだらこんな情景に居合わせるのかもしれない。
正直言ってむちゃくちゃ怖い。
それはイオリが思っていたことだし、クレイアもそう思っていたし、それ以外の全員も同じ思いだった。
そもそもどうして彼女はここにいるのだろう。
確か小さなゴーレムを相手にしていたはずだ。
ところどころがボロボロになっている様子を見る限りーー皆殺しにしたと考えるのが妥当だろう。
そんな中、ミナーヴァはみんなに振り返ると口を開いたではないか。
にこやかに、しかし目はガンギマリに輝かせながら。
「殺しちゃったぁー。うっかりぃー。てへ」
「そんな低い声の「てへ」初めて聞いたな」
ユータスが真っ当なツッコミを入れた。
ミナーヴァは怒るわけでもなく「確かに」と割とまともに受け止める。
するとミナーヴァはものすごい嗅覚で振り返る。
睨みつけた先はユータスか? 否。
相手はさっきの野次馬だった。イオリを指さして嘲笑していた三人組。
彼らは不審げにミナーヴァを見つめていたのだ。おそらくその視線を嗅ぎとったのだろう。
それがまずかった。
ミナーヴァは人形の残骸を引きずりながらまスタスタと歩く。
おもしれえじゃねえか。どこのどいつか知らねえがガンたれてくるたァいい度胸だ。歯をむき出しにして浮かべた笑みが、サキュバスの感情を雄弁に物語っていた。
三人組は逃げようにもミナーヴァに睨まれていて動けないようだった。
完全に逃げるタイミングを失い、面と向かい合う形になってしまう。
「おい」
サキュバスの第一声がそれだった。ひどく低く、静かな怒りを含んだ声。
「こっち見てたろ?」
相手は答えない。
無視してミナーヴァは残骸を掲げる。
「ほら見ろ。もげちゃった。ハァープニィーング」
ミナーヴァは唇をゆがめ、恐ろしく凶悪な目つきで相手を威嚇している。三人組は気まずそうにしているが、視線を反らそうなんて舐めたマネは彼女の視線が許さない。
三人は金縛りにあったかのように硬直し、背中から脂汗をたらしていることだろう。
ミナーヴァはなおも殺したばかりの獲物を男の鼻先にちらつかせて脅している。女は顔面が蒼白になっていてストレスでふらついているし、隣の男にいたってはもう泣きだしていた。
「ウケんだろ? 笑えよ。なァ。さっきの女の子には笑ってたじゃん。背中指差してたのあたし見たよ? なぁに? おとなしそうな女の子は格下扱いにするくせに、ピアスつけてタトゥーまみれで、いかにも噛みついてきそうなヤバい女にはダンマリ決めちゃうわけ? 何? 馬鹿にしてんの? ほら笑いなよ? 泣いてないで指差しなよ。泣いても許さねーぞ。今度は真正面からどーぞ? ねえ――」
鼻息がかかるだろう距離まで顔を寄せて、告げる。
地獄の窯底のような低い声で――
「ほら。笑えよ」
怖っ。
イオリは腹の底から恐怖を感じた。
恫喝。威嚇。
額に青筋を立てて迫るその姿は、もはや金をせびるチンピラの類である。正直三人組の方が可哀想になってきた。
もはや生きる希望も何もかも消え失せて一生閉じこもって暮らすようになるかもしれない。
こんなのに話しかけられる奴なんているわけない。
「ミナーヴァ、ちょっといいか?」
いたよ。
ユータス・アルテニカだった。
背中に突き刺さった言葉に反応して、ミナーヴァがゆっくりと振り返った。
「……ん?」
振り返るミナーヴァの声は、話の腰を折られたにしては穏やかな声色で問いかける。
「…………」
ユータスはゆっくりとイオリの前に立つ。
三人組をイオリの視界から隠すように。
そして言の葉を紡いだのだ。
「もっと言ってやれ」
ミナーヴァは完全に虚を疲れた顔になり、やがて凄惨な笑みを浮かべる。
まるで楽しいおもちゃを渡された子供みたいに。
もしくは、思う存分嚙みついていい骨を放られた犬のように。
「イイの?」
「頼む」
イオリが止める間もなく、喜んでとミナーヴァは前に進む。
「いいか聞けこのクソ野郎、」
ことさらに声を張り上げ、相手のメンタルを豪快に削り落としてくる。
この先の顛末をイオリは忘れることにした。
わかったことと言えば怒鳴るのは怖いこと。その度に近くのものを蹴飛ばすのはもっと怖いこと。そんな人と目と向かって罵詈雑言を受け止めるのはもっと怖いということだった。
ふと、イオリの中で新たな迷いが鎌首をもたげる。
あの人と戦うの、諦めようかな、と……。