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ゴーレムとは「赤子」の意味である。
その図体にそぐわず人の命令に従うしかできず、しかも時々意に反する動きをする点は、確かに未熟な子の印象はある。
しかしながら今迫っているのは拳一つ分程度のサイズ。赤子というよりネズミに近い。
もはや人の言葉も聞かず本能に従って動いている。
皮肉なことに最も生物らしいと言えるだろう。
さてさてさて。
そんなゴーレムが親のゴーレムの腹から溢れんばかりに出てきている。
床を這いずり回る黒。
さながら波のようにゆっくりと、しかし着実にイオリたちに迫りつつあった。
「マズいな。こっちにくる」
ユータスが流石に焦った声を出す。
隣にいるミナーヴァのこめかみから一雫の汗が流れていた。焦っているのだ。
「どうしよう。生贄も尽きちゃったし」
ミナーヴァ今何言った?
投げたの? 全員爆殺したの?
「しょうがない」
意を決したように呟くと、ユータスに一言謝ってから何やらつかみかかる。
イオリが何か訴える前に、
「ぃよいしょぉぉおお!」
気合を入れて担ぎ上げた!
相手の腋の下から自分の首を差し入れた後、肩の上に相手を担ぎ上げる。
ファイヤーマンズキャリーと呼ばれる担ぎ方である。
細いとはいえ190セルトマイスの成人男性である。
それなりの重量があるはずなのに、ミナーヴァはものともしていない。
「ユータスさん大丈夫ですか?」
「揺れて眼鏡が落ちそうだな」
「……我慢してください。出口まで運びますから」
苦笑しつつ、ミナーヴァはイオリに振り向いた。
「イオリさんもいい?」
「イオリでいいよ」
「それじゃあイオリ?」手を伸ばして、ミナーヴァが笑う。「いーい?」
イオリはため息をついた。
ケンカは強いが血の気が荒いタイプではなさそうだし、何より道徳的な思考の――あくまで身内限定だが――持ち主だ。
預けても悪いようにはしないだろう。
「いいよ。任せる」
ありがとう。と答えてから。
続いてイオリを米俵みたいに脇で抱える。
そのタイミングで、さっきまでイオリがいた床が波に飲まれ、ミナーヴァの足がゴーレムに絡みつかれていった。
「それで、どうするの?」
「決まってるでしょ」
ミナーヴァはゴーレムを蹴散らし一気に駆け出した。
ゴーレムとは反対方向に。
「逃げまーす!」
二人分担いでいるとは思えない軽快なステップで走っていく。なお彼女が履いているのはハイヒールである。
しかしそれでもゴーレムの波を引き離せない。
すでにミナーヴァの下半身にはゴーレムが絡みついているのだ。担ぐことでかろうじてイオリたちを庇っているが、蝕まれるのは時間の問題である。
「おい大丈夫なのか!」
「黙ってて! 必ず助けるっ!」
漢だ! 漢がいる!
出口に向かってまっすぐ駆ける。
ミナーヴァの足か。
ゴーレムの波か。
追いつくのは果たしてどちらだろうか。
身を任せているイオリたちはただただ祈ることだけしかできなくって。
そうしているうちにミナーヴァが一生懸命走った甲斐あって、出口はもう目の鼻の先まで近づいていた。
だけどここでミナーヴァの足がくじけた。
見下ろしてみると、足がゴーレムに齧られて傷だらけになっていた。ところどころ血が滲んでいる。
今までこの状態で走り続いていたというのか。
これ以上二人を抱えて走り続けるには無理だろう。だけどそうしている間にもゴーレムの波が背中を舐めてきているのだ。
「イオリ、ユータスさん。ごめんなさい」
初めて聞いたミナーヴァの弱音。
思わずゾッとした。
生き残るためなら、犠牲を厭わない。
そういうところがあるのはさっき悪党をダイナマイトに包んでぶん投げた時に理解できていた。
だから、思う。
こう考えているとしたら?
もしここでイオリたちを捨てれば――自分だけは助かると。
一人なら出口まで進むには容易のはずだ。餌二人分を後ろにばら撒けたなら尚のこと。
だから。
「ごめんなさい」
投げかけられた声はひどく弱々しい。
ついさっきまで大暴れしていた女の声とは思えないほどに。
抱えられたままのユータスは黙したまま何も言おうとしない。そもそもミナーヴァに全て委ねている二人には決定権なんてないのだ。
イオリが睨みつけようとして――気づく。
ミナーヴァの横顔。
その目は何者にも屈していなかった。
「受身取って!」
力強い声とともに、ミナーヴァは問答無用でイオリの体をぶん投げた。
出口めがけて。
いきなり空中に放り投げられたにも関わらず、イオリの対応は迅速だった。
体術で鍛えてきた体幹を活かして、手足を目一杯伸ばして空中で姿勢制御。床に触れる直前に腕を折りたたんで体を横向きに転がすことで衝撃を分散していった。
少しタイミングが遅れてユータスという名の針金が放り捨てられる。
創作にしか使ったことの肉体が姿勢制御なんて芸当ができるわけもなく、ゆえにミナーヴァはその場で半回転させて勢いをつけると、ユータスの細長い華奢な体を床すれすれに放り捨てる。
磨かれた床を滑るようにして身を任せ、そのままユータスはなす術もなくゴミ箱の山に突っ込んでいった。
「ユ、ユータ? 生きてる?」
ユータスの返答は、たぶん、という気の抜けた声。
だからミナーヴァが何をしているか気づけなかった。
振り返ると、ミナーヴァが扉を閉めていたのだ。
内側から。
「ミナーヴァ!」
身体中にゴーレムが張り付いている。
もう逃げられない。
だからこそ彼女は内側から閉める決意をしたのだ。
「振り返らないで! 逃げてっ!」
そうして扉は閉じられた。




