2-11
闘技場の奥は、心理的に密閉されたおとぎの国だ。
一年三百六十五日、一日二十四時間、いつでもお祭り気分の証明が点り、誰もが計算されつくした愛想のいい笑顔を振りまいている。
この魅惑的な繭の外には義務と骨折り仕事という現実があるのだけれど、そうしたものは視界に入らないように一切排除されている。
食事も酒もここでご自由に。
楽しい遊びもいっぱいあるよ。
ミニチュアの火山はいつでも火を噴いているし、屋内にジャングルのある熱帯の宮殿だって用意している。シャチの水槽があるし、秘密の花園もある。ここは天国だ。
そしてミイラもいた。
素肌に包帯を無造作に巻きつけた女性だが顔はわからない。
ウサギの着ぐるみをかぶっていたからである。しかも頭だけ。
マスコットキャラよろしく目は明るく輝いていて溌剌な印象を与える。口がエビ茶色に染められているから間違いない。肉食だ。
冗談はさておき、彼女は闘技場のコンパニオン。
訪れた客人が困っていればすぐに駆け付けてトラブルを解決してくれる。
外に出たいなんて気は起こさせない。
そんなことになったら金を落とす時間が三時間も減ってしまうではないか。
だからこそスタッフは気の利いた休憩エリアに案内し、乗客を手厚くもてなすのだ。
その時にささやかな謝礼としてチップをもらうことやおすすめのドリンクに金を落とすよう誘うのも忘れない。
「闘技場にようこそ。楽しんでくださいねっ」
物騒な格好に反してめちゃくちゃ愛想がいい。あと声が可愛い。
「あれ?」
ふと、コンパニオンが車椅子のユータスに気付く。明らかに声色が“よそいき”ではなくなっている。
「誰かと思ったらユータスじゃん。この間はありがと。また依頼するからね」
はあ、とユータスは生返事。
イオリは嫌な予感がした。まさかと思うが、名前忘れていないか?
ユータス・アルテニカは細工師で、いくつもの依頼を請け負っている。
抜群に腕がいいのだけれど、致命的なレベルで自分の価値を分かっていない。
そのせいで破格と言える金額で仕事を引き受けることも少なくはない。
いわゆる“低価格で高品質な商品を提供している”状態であり、そのためこぞって来る客が後を絶たないのだ。
おまけに真面目な性格だから、ちょっと無理なオーダーにも真摯に向き合い、しかもたいていは理想以上の形で叶えてくれる。客にとっては口先だけの神や仏よりもありがたい存在なのだ。
コンパニオンもそのクチなのだろう。よっぽどユータスの作ったものの出来が良かったのか、とても感謝している様子だ。
これで名前どころか誰かもわかっていない様子に気付いたらどうなるのやら。
「ちょっと待っててね」とコンパニオンが近くの屋台に駆けていくと、店員と何やら話し始める。
交渉が終わったのか、商品を二個持ってイオリたちに近づくではないか。
「これあげる」
カップに入ったポップコーン。出来立てなのかまだ湯気が立っている。
さすがにユータスも遠慮していたが、悲しいかな彼は押しが弱かった。
あっさりとポップコーンを胸に押し付けられる。
「いーのいーの。感謝のしるしなんだから」
コンパニオンは笑みを浮かべる。客寄せではない、屈託のない笑み。
その笑みはイオリにも向けられた。
そして彼女はこう言ってくれたのだ。
「おにーさんにもあげるね」
「…………」
ぴし、と音がした。
正確にはそんな音は出なかったのだけれど、確かにイオリの胸の中で響いたのだ。洞窟の中で手を叩くように大きく、強く。
同じくらい強く響くのはコンパニオンの言葉。
おにーさんにもあげるね。
おにーさんにもあげるね。
おにーさんにも。
おにーさんにも。
おにーさんにも……。
ありがとうとお礼を言えたことは奇跡に近かった。
立ち去るコンパニオンにちゃんと笑いかけられているか不安だったけれど、今はショックの方が大きかった。
確かに今の格好は男装に近い。
メイクで目力を強くして鼻筋もすっと通るようにしているので、より男顔に見えるのはわかる。
わかるけど、わかるけど……。
それでも納得したくないっ。
そりゃあ彼女は足も細いしスタイルもいいし、被り物のせいで顔は見えなくてもかすかに見える顎のごの大きさから相当小顔だってことはわかる。
別に悔しいなんて思ってはいない。
断じて思ってない!
自身がドス黒い炎に燃えていることも、観客が怯えている事実にもイオリは気づいていなかった。