彼氏が帰ってくる前に消さないと
「……はあ」
まただ。家に帰ると顔のめちゃくちゃいい女が玄関先で血を流して死んでいる。ご丁寧に背中にはナイフが刺さり、散々苦しみながら息絶えました、と言いたげにあちこちに血の跡がついている。とはいえ、掃除するのが面倒な場所に付着しているわけではなく、そこは絶妙に考えてくれている。
私はため息を一つついて、もはや習慣となってしまった掃除を始めた。彼女ももはや十回目のこのアピールに慣れたのか、むすっとした顔をして起き上がる――というわけでもなく、一通り掃除をしてから抱え上げてベッドに寝かせてやらなければならない。演技でこうしてショッキングな死んだふりをしてくるくせに、最近は本気でその場で寝てしまっていて、しかも私が片付け終わって一時間は経たないと起きない。ただただ、私の負担だけが大きくなっているのだ。
「まったく……何のためにこんなことやってんだか」
実はこの女、知らない人ではない。さすがに見ず知らずの人間が玄関先でぶっ倒れていて落ち着いていられるはずはないし、それを十回も許すはずもないのだが。この子は私の幼馴染の妹で、今は働いている私の近くに住む大学生だ。
そもそも姉妹でもなく友達でもなく、幼馴染の妹なのはなぜかと問われると、私にも分からない。とはいえ、性格や趣味あたりが似通っているので、勝手に親近感を抱かれているのだろうとは想像がつく。それ自体は悪い気はしないので、許してしまっている。幼馴染の方とは仲はいいが、恋仲に発展するほどでもなかったし、事実違う大学に行って疎遠になっているうちに、いい感じの彼女を見つけていて、社会人なりたての時に帰省してばったり会った時には結婚していた。身近な男を取られたというより、身近な存在に先を越された、という思いの方が大きくて、彼とそこまでの関係に進めなかったことに対しては特に何も思わなかった、というのをよく覚えている。幼馴染だからといって、みんながみんな深い関係になるわけではないのだ。
「……ふう」
幼馴染という関係を意識していなかったのは私もそうで、大学のゼミで先輩と付き合い始めて、今もそれが続いている。最初はぎこちない感じだったが、今は同棲してそこそこ仲良くやっている。結婚はまだちょっと考えられないが、別にそのうち話を持ち出されてもいいんじゃないかな、と思ったりする。
そんな彼だが、たぶんお互い秘密にしていることが一つや二つはあると、私は思っている。プライベートというか、一人の時の話を全部公開する必要は必ずしもないと思うし、やましいことはしていないが全部打ち明けてくれと言われたらはっきり断るつもりでいる。その代わりに、私からもあまり深くは突っ込まない。……という協定が、最初の頃は上手く機能していたのだが、最近になってどうも均衡が崩れ始めた気がする。彼の方が、私に対して強めに干渉するようになってきた。何かしらの心境の変化か、それとも社会人になって何年か経って、結婚を意識して焦っているのか。詳しくは分からないが、彼が一人で出かける時は詮索してくれるなといったオーラを出してくるくせに、私が一人で出かけると言うとどんな用事かしつこく聞いてくるようになった。そういう話を友人にすると、それはもう浮気してるって言ってるようなもんじゃん、とすぐさま言われるのだが、学生時代はイケイケどころか陰キャ寄りだった彼に他の女のところに行く度胸があるのか、と思うのと、決定的な証拠がないこともあって、今のところ泳がせていることになっている。
「帰ってくる前に、痕跡消しとかないと……」
そんな今のところ疑わしい彼だから、少なくとも私は何もやましいことをしていないと示しておかないと、後々こちらが不利なことにされそうな気がしていた。より正確には、私の方が浮気をしているかもしれないあなたより優位なんですよ、ということだ。嫌な言い方ではあるが、怪しいことをしている方が悪いのだから仕方ない。彼ならそんなことそうそうあり得ないだろ、と普通なら思うことも疑ってくるかもしれない、と用心しておかなければならない。その一つが、「実は私の恋愛対象は女で、一人になるたびに幼馴染の妹をこの家に呼んで密会している」というやつだ。私の普段の行動からすれば考えられない話なのだが、彼はそんな可能性も考えてあーだこーだと言ってくる。だから証拠っぽさが少しでもあるものは、彼が帰ってくるまでに消しておかなければならない。
と、思ったのだが。いつもとは違って、彼女が握るスマホにロックがかかっておらず、私も見られる状態になっているのに気づいた。
「これは……」
見てくれと言わんばかりに、昨日撮られたばかりの写真があった。彼女が友達とご飯に行った時の写真。ちょっと小洒落たイタリアンのお店だ。彼女を入れて三人で楽しそうに料理を囲んでいるが、すぐにそれを見せたいわけではないのだろうと分かった。
小さく、カップルの姿が写真奥に写っていた。女性の方は少し派手目な髪色をした大学生くらいの子だったが、男の方、特に服装に見覚えがあった。間違いない。こんなセンスの服を着ていて、陰キャな感じが払拭しきれていないのは、私の彼氏しかいない。
「ま、言われてみれば前から怪しい感じはしてたんだよなぁ……」
私はその写真を自分のLINE宛てに送って、彼女たちに軽くモザイクを施す。あとはどう問い詰めてやろうか、と考えながら指をパキポキと鳴らした。
夢の中のはずの彼女が、むにゃむにゃと言いつつ少ししたり顔になっているような気がした。