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九. 小山会合

会津隣国の下野まで進出した家康

ここで家康と彼に付き従うものたちは決断を迫られる

またこの時動乱の火が飛び火する各地においても切断の時であった


七月二十四日のこと。


家康はここ下野(現栃木県)・小山まで付き従った二十八におよぶ諸将を本陣に招集して言った。


「各々方。


すでに聞き及ばれておるであろうが、上方にて治部少がいわれのない事由をもってわしを謀反人に掲げ、安芸中納言を盟主に征討軍を編成し東下を開始しておるとのこと。


わしはここより彼奴等を迎え討つべく軍を上方へ返すことにする。


ここにおられる諸将の中には彼奴等に質をとられておる方もいるであろう。


この陣所を引き払い安芸中納言や治部少らに従われるというのであればわしは留め申さん。


思うがままにしてもらいたい。」


寛大な言い分であるが、家康の落ち着き払った重い雰囲気が威を漂わせる。


一同は返す言葉が見つからずただ黙っていたが、三成嫌いで知られていた福島正則はおもむろに立ち上がると居並ぶ諸将に呼びかけるように辺りを見渡して言った。


「小才をひけらかし豊家の威光を笠に着て政道をわがものにしようとするあの狐、治部とその与党をこそ討つべし!」


これを機と捉えた山内一豊はこれも立ち上がり、


「上杉は所詮田舎侍なれば、天下の趨勢定まれば、自ずから頭を下げてまいりましょう。


身勝手な大義を振り翳し、天下に大乱を招く元凶・治部らをこそ討つべきにござる。


ついては拙者が居城、掛川城を供出いたす。ご随意にしてくだされ。」


と進言した。



もともと三成と折り合いの悪い長岡忠興も西軍の人質徴発に抵抗した妻・ガラシャを大坂に亡くしてからこれを憎悪すること甚だしく、


「謀反人は奴らじゃ。治部をこそ討つべし!」


と充血した目で叫ぶと、黒田長政をはじめ三成嫌いの諸将もこれに強く賛同し軍を転じて三成以下上方勢を討つべし、と主張する。


評定は熱をもち、喚声が湧くまでに沸騰した。


これら豊臣譜代の諸将が率先して家康に従う姿勢を示したため、その場にいた諸将はこぞって征西の途につくことを表明した。


この東軍諸将のうち、東海道沿いに所領を持つ諸将は一豊と同様に家康に城を明け渡すことを誓った。



正則が三十万石の備蓄米ごと供すると宣言した濃尾にかかる東海道の重要拠点、清洲城が西軍に奪われては一大事である。


城主福島正則を先頭に黒田長政、池田輝政ら諸将は急いで先発した。


その数三万五千。


家康と袂を分かち帰国の途に就いたのは、三成とは縁戚の信州上田城主・真田昌幸と以前三成に恩を受けていた美濃岩村城主・田丸忠昌のみであった。



戦いの機運は流行病のように伝播する。


―徒らに天下を乱す逆臣、徳川を討つ!


大坂城に居座る毛利輝元を主将とした西軍はあちこちに徳川追討の声明をばら撒き、賛同する者を受け入れると謳った。


徳川への反発心を持ち、幼君を戴く豊臣家を憂いた諸将は続々と大坂へ参集するが、そのいずれの心中にもこの混乱に乗じた自家の栄達があった。



七月二十六日。


家康に要請されるまま、加賀の前田利長が京畿の牽制のために南進軍を発したのは、この日のことである。


「内府が狗に成り下がったかのような肥前であるな。」


これを嗤った加賀の隣国越前(現福井県)敦賀五万石の太守である大谷吉継は、会津征伐に向かうとみせて佐和山に三成を訪ねたあの密謀の後、自領・敦賀に戻り、近隣の大名からなる北陸鎮定軍を編成していたが、利長の南征にこれを指揮してあたることとした。


同時に草の者を使い、巧みに利長を撹乱した。


吉継による撹乱のために軍事行動を惑わされた利長であったが、ついに二万五千の大軍を動員し境を接する丹羽長重の小松城に向けて進軍した。


さらにその軍を分けて山口宗永、修弘親子の大聖寺城も同時に攻撃した。


北陸戦線の激化は利長が領土拡張を企図していたためである。


東軍に身を置いた今、政変の鎮圧を名目に周囲の西軍領土を併呑できると判断したのだ。



同じ頃輝元は近江・瀬田と守山(いずれも現滋賀県)に兵二万を派してここを抑えさせた。


これは北陸の前田、そして東国諸将を牽制し、畿内の支配力を強める意味合いがあったからだが自身は未だ大坂城から動く様子はなかった。



上方征伐に引き返す決心をした家康は会津の景勝に背後を突かれることのないようこれを牽制するべく、会津の北に位置する仙台の伊達政宗に景勝の所領、白石城に攻め入るよう手配し、七月二十九日に自国・江戸へ向けて出立したのであった。


そして同じ日に輝元は東ではなく西の四国・阿波と伊予(現徳島県と愛媛県)、さらには九州・豊前豊後(現福岡県および大分県)へと食指を動かしていた。


正信の蒔いた餌とは正にこのことであり、毛利の大軍を西へ向けさせる策であったのだが、四国、九州に手を伸ばすことは輝元の当初の計画でもあったのである。



―八月一日


ついに鳥居元忠が守る伏見城が陥落した。


元忠は自ら刀を振るい、足腰の立たなくなるまで奮戦したのち首を授けた。


その数日後、下野から江戸への帰路にあってその報を聞いた家康は、その時元忠と寝る間も惜しんで語り明かした最後の夜を思い出していた。


しかし元忠の二週間余りにおよぶ捨て身の籠城戦は家康のために十分な時間稼ぎをした。


元忠の奮戦がなければ、この時点で濃尾一帯は西軍に抑えられていたに違いない。


そうなると家康率いる東軍は西に進むことが困難になり、作戦を根本から見直すことが求められていたであろう。


元忠は一命を賭して東軍の作戦行動に寄与したのである。


家康はこの四日後に江戸に帰り着いた。



さてこちらは西軍である。


二週間に及ぶ攻城戦の末、ようやく伏見城を抜いた西軍はこれから最初に攻めることになるであろう福島正則の居城、清洲城を攻める勢と、同じく東軍への旗幟を明らかにした伊勢・安濃津城の富田信高を攻める勢とに兵を二分する。


その数日後三成ら兵二万は美濃・垂井まで進出したのち軍を収容するべく、垂井よりすぐに南に位置する西軍に属していた伊藤盛正の居城、大垣城に八月十日に入城した。


この大垣城は福島正則の居城、清洲城を囲うように位置する犬山城、岐阜城、竹ヶ鼻城と互いに連携し戦線を構築する起点である。


また木曽川を眼前に険峻な山に拠った岐阜城は特に大きな防衛拠点であり、西上する東軍を狭隘な桶狭間の地で迎え撃つ事も、籠城して押し返すことも可能である。


東北の上杉、佐竹には先立って―奥州の伊達、最上、相馬ら諸将及び信州真田と連絡を取り合い、江戸の家康を包囲する―という想定戦略を伝えてある。


この通りに事が運ぶならば、この岐阜城を西の最前線として信州、北関東から家康を締め上げることができる。


そうなれば実権を握る隠居の義重に反対され兵を動かせない佐竹や、曖昧な返事をよこしながら実際は家康に帰属していた伊達、最上、相馬らも江戸に兵を向けるに違いない。


西軍にはここが事態を左右する最も大事な瞬間であった。


しかしわずか二万という兵の数を不安視し、、三成らは東に軍を進めることができない。


軍議の末、大坂の輝元や伊勢より上ってくる別働隊の来着を待つことにし、その間清洲城をはじめ東海道に城を連ねる東軍諸将に懐柔の手を伸ばした。


彼らを自陣営に寝返せることができれば、江戸までの途上、城攻めに兵と時間を費やす必要がなくなり、家康を江戸に閉じ込めることができる。


さらに大垣城の西方に位置する南宮山と松尾山に砦を築くべく手を配した。


南宮山は大垣城の北西にあって西に関ヶ原盆地一帯を一望できる標高の高い山であり、松尾山はその関ヶ原盆地の南に敷かれた東海道のそばに位置し、伊勢を制圧した別働隊が合流する地点でもある。


ここ松尾山には、かつて織田信長が築き今は廃城となっていた松尾山城があったが、ここに三成は目をつけたのである。


そのすぐ先は東西を隔てる関があった場所である。


この時すでに関としての機能は有していなかったが、この関跡こそが―関ヶ原―の由来である。


その北と南には深く険しい山脈が伸びているが、濃尾以東より京を目指すには比較的平かなこの関を通るしかなく、まさに東西の玄関口であった。


西軍からすれば、ここを押さえて松尾新城に秀頼を奉じた輝元を入れることで東軍の先手衆を押し返すことができる。


さらに東の岐阜城とそれに隣接する福島正則の居城、清洲城を含めた美濃一帯を抑えることとなり、今は家康に従う諸将の大部分を家康の元から引き離すことができる。


その時家康は逆賊の汚名の下に降伏するだろうか、あるいは抗戦するであろうか。


家康と語り、乱を招いた三成の心中は複雑だったが、ここまでの西軍の既定戦略は順当である。



八月二十三日


この日、伏見落城後に三成たちと別れた西軍別働隊による安濃津城攻撃が始まった。


京と美濃につながる伊勢の要所にあるこの城に籠城したのは家康の味方についた城主・富田信高と分部光嘉、古田重勝であったが総勢千七百の寡勢であり、寄せ手の毛利秀元、長束正家、安国寺恵瓊、鍋島勝茂、長宗我部盛親ら総勢三万の軍勢にとても敵するものではなく、翌二十四日に開城した。


この別働隊は部隊の一部を安濃津城に留め置くと北上、松尾新城と並行して三成が砦を築いていた南宮山に着陣する。

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