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八. 機運

自身が反逆者に仕立てられたことに驚きを隠せない家康は、それを画策した者を知る

それは同時に三成と袂を別つ時が来たことを知ることでもあった



同じ頃三成たちとは行動を別にする福知山城から発した西軍別働隊一万五千は田辺城にあった。


この別働隊は五奉行の一人である前田玄以の子の前田重勝、左近の親族である小野木重次、織田信包、山名主殿頭らと中川秀成、毛利高政ら丹波・但馬諸大名と豊後の諸大名から成っていた。


田辺城を守るのは大坂城の西軍による人質の徴発を拒み自ら死を選んだガラシャの夫で、家康に追従し会津征伐に従軍している長岡忠興の父・幽斎である。


長岡家家督を忠興に譲り、自身は宮津城に隠居していた幽斎であったが、忠興はかねてより三成と折り合いが悪い。


一朝事の起こった際には西軍が襲来することを予期していた幽斎は、防備の薄い宮津城を破却してこの田辺城へと移っていたのであった。


わずか五百の兵でこもる田辺城は風前の灯火であったが、当時第一級の文化人であり教養のあった幽斎はこののち籠城の最中にあって京の公家を操作し時の帝、後陽成天皇に自らの助命歎願をさせることで西軍の攻撃を収めさせるという変則外交を用いた独自の戦いを展開してゆく。



家康が上方の変事と伏見、田辺両城が西軍の攻撃に晒されていることを知ったのはこの七月十九日のことである。


第一報で―三成、挙兵―の報に接しても家康はさして驚かなかった。


三成より既に知らされていたことである。


だがそののちの注進で毛利輝元が家康の留守居の佐野綱正を大坂城西の丸から追い出しそこへ入ったこと、その毛利と並んで増田、長束、前田(玄以)ら三奉行がこのクーデターの首謀者に名を連ねていること、彼らが家康を弾劾する書状を全国にばら撒いていること、この度の会津征伐に従軍できなかった西国の諸大名がそれに応じて大坂城には今十万もの軍勢が集っていることなどを知らされて、さすがの家康も愕然とした。


ここまで大規模なものとなると、このクーデターに数多の諸侯の本気が垣間見える。


まとまりのない彼らが自分を滅ぼすために結託したのだ。


思いもよらない事態となったものである。


家康が大坂を離れたのちも、三成はおろか増田などは家康のために上方の情勢を知らせてきていたではないか。


家康は事態を理解するまでしばらく時間を要した。


もはや誰が敵で誰が味方であるのか家康にも見当がつかない。


しかし少なくとも今自分についてくる諸侯は味方のはずである。


彼らの扱いを間違わなければ、の話であるが。


「これはいよいよ日の本を巻き込んでの大乱となる・・」


この先上方に戻ることはないかもしれないと爪を割かんばかりに噛み、苛立ちを露わにしていた家康はふと違和に気付いて噛んでいた爪を口から離した。


「火の元は安芸、か・・」


前田上杉の一連の企ての噂、奉行衆の決起、そして西国の諸大名の同調。


全ての動きの裏に毛利がいたことに気づいた家康は


「安芸めが・・まさに比興の者よの。」


とまた爪を噛んだ。


「安芸にせよ越後にせよ彼奴ら、己が手の上で天下を弄べるとでも思っておるのでしょうな。」


という正信に家康は苦々しげに


「奴らの手のうちには握りしめた己が欲しか残らぬわ。」と吐き捨てた。


握りしめた手のうちに天下は収まることなく、ただこぼれ落ちるのみであろう。


しかし、上杉と毛利が密約を交わして起こした大乱だとしてもだ、正面切って啖呵を切った上杉の意地と度胸に対して、毛利のやり口はなんと狡猾でなんと醜いことか。


「狸め・・」


つぶやいて家康は思案した。


本来討つべきは―いたずらに天下を乱す不心得者たち―であり、この場合輝元らとそれに同調した増田長盛、長束正家らであるはずである。


そうでなくては。


そうあるべきである。


しかしたとえ三成が輝元の策のままに西軍の首魁に据えられて、操られているのだとしてもだ、


大坂屋敷の諸将が留守にその家族を人質にとり、西軍の先頭に立って家康の将・鳥居元忠が守る伏見城と東軍に旗幟を鮮明にした長岡忠興の父、幽斎の籠る田辺城を攻撃した三成を庇いだてすることはもはや叶わぬであろう。


「治部殿、道を誤られましたな。」


正信がつぶやいた。


「よい。


治部殿がことはさておきじゃ、」


「さすれば、我らが本拠江戸を拠点に東国諸家を糾合し、やつらに対抗する力を蓄えられるべきかと。」


献言する正信に対し、忠勝がすかさず反論した。


「江戸に籠り自家勢力を築くことは、すなわち奴らが標榜する豊家に対する我らが謀反を裏付けするようなもの。


ここは直ちに軍を西に向け、奴らを討って満天下に大義を示されるべし!」


忠勝の積極論に破顔した家康は


「忠勝の申す通り、今東下してくる軍勢を撃破することで此度の政変を企てた不心得者共は霧散するであろう。


そのあと上杉、毛利など地方に分布する反乱の芽を刈り取ることはた易うなる。


その際最も大事であるのは彼奴らに豊家を巻き込ませないようにすることじゃ。」


と良く響く声で言った。


正信も静かに頷いた。


もし大坂城に入った輝元が秀頼を奉戴し、江戸に向けて進軍を開始した場合どうなるか。


考えるまでもない。


今自分に付き従う福島らや在国の加藤ら豊臣恩顧の大名衆は矛先をこちらに転じることは間違いない。


そうなると家康は西上の途上で袋叩きにされかねず、迂闊に江戸を出るわけにはいかない。


自分と共にある豊臣恩顧の大名らは諸刃の刃そのものである。


この先の展開次第では福島をはじめ行動を共にしている豊臣恩顧の大名衆に寝首をかかれないとも限らない。


眉間にしわを寄せた思案顔の家康に正信は返した。


「その通りですな。


しかしすでにわが方に誼を通じてきております吉川に、安芸を動かさぬよう先んじて手を打たせておりまする。」


「じゃが、いつまでも吉川に安芸が抑え込めるものでもなかろう。」


不安の声を漏らす家康であったが、心配しすぎるきらいのある家康の言葉に正信は笑って答えた。


「安芸の目をこちらに向けさせぬよう、新たな餌をまいておりますればご心配には及ばぬかと。」


家康は正信に対して、というよりも自分自身に言い聞かせるようにつぶやいた。


「わしは落ち着いておるぞ。」


―あくまでも落ち着いておる


焦りはおくびにも出すまいぞ


隣国駿河の大大名であった今川家での人質生活を送っていた頃、まだ彼が松平元康を名乗っていた時分、常に立ち振る舞いから気遣いまで神経をすり減らして生きたあの頃を思い出していた。


じっと辛抱することだと自らに言い聞かせながら。



翌々日の七月二十一日。


会津へ向けて江戸を発した家康はその翌日武蔵国・鳩ヶ谷、さらにその翌日には下野国・古河で鷹狩りに興じていた。


「殿、密書ですぞ。


差出人は不明にござるが、治部殿であるかと思われまする。」


正信は家康の元にやってきて言った。


自身の左の腕を身の置き場とする愛鷹の背を撫でつつ


「読んでみよ。」


と言った家康に正信は黙って書簡を広げた。


それには―会津中納言と内府を挟撃する。右京殿は遊軍としてこれを右けられたし―と書いてある。


今向かっている会津隣国の常陸国(現茨城県)の太守である佐竹右京太夫義宣への密書のようであった。


三成は義宣とその父・義重が当主の頃から佐竹家と懇ろであったが、この時隠居の義重は家康にも誼を通じていた。


隠居したとはいえ義重は健在であり、佐竹家の実権を握っている。


現当主義宣は上杉に通じており、兵を挙げて西軍に与したいと考えているようであるが、家康はその義重が兵を上げることに強く反対していることまで知らされている。


つまり義重が家康に通じている限り、佐竹と矛を交えることはないであろう。


そういうことから家康は佐竹の動静をさほど気にしていなかった。


またこの密書である。


この差出人の名前も花押もない佐竹義宣宛に綴られた密書は三成が発したもののように捏造されていることは明らかであった。


―これが治部殿のものであるはずがない


家康はこの幼稚な反間の企みを笑った。


「正信。


宛先は異なるが、こちらも文を書くとしようか。」


そう言って早くから家康に追従し、今回の会津征伐に北方より兵を出していた出羽国山形城主の最上義光に充てて書状を認めた。


書状の内容は会津の上杉挟撃作戦の中止であった。


自身にかけられた謀反の嫌疑を晴らすためには、今が西軍に相対する意思を天下に示す頃合いと見たのだ。


「しかしですぞ、この密書が治部殿の書かれたものでないとしても、治部殿がことは如何なされるおつもりか。


如何なる事情があれ、敵の司令の立場にある治部殿がことですぞ。」


正信の問いに大きなため息をついた家康は、もう一通書簡を認めた。


病を装い軍を抜けるよう勧告したのである。


「これが最後の文となろう・・


あとはこれを見た治部殿がどうされるか、じゃ。」


家康はこの文をもって三成を不毛な争いから退かしめることを願った。


さもなくばこの先三成を討たざるを得なくなる。


だが、この書簡は果たして届くであろうか。


すでに西軍の首魁として扱わた三成の覚悟と矜持に、である。


だが当の家康も書簡一つで三成の進退を左右できるとは思っていなかった。


三成の優れた素質はその才智のみならず決断の潔さにあり、三成が西軍勢力に取り込まれたことを告げてきた時点で既に家康と相対する覚悟は胸に秘していると見ていた。

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