七. 東下
いよいよ幕を開けた大乱
不本意な展開に覚悟が固まらぬまま、大軍を率いて大坂を発った三成は少し前までの政局を眼前にしていた
七月十九日
東下を開始した西軍主力はその最初の攻略目標である伏見城を前にしていた。
ここは秀吉が政庁として建て、一時的にも日の本の政治の中心となった城である。
秀吉よりこの伏見城を託された家康はここで政務を行っていたが、上方を空けて東下することに一抹の不安をいだいており、有事に備えて最古参の将、鳥居元忠を兵千八百の兵とともに残していた。
毛利輝元に大坂城を追い出された留守居衆・佐野綱正はその後家康の元に復命せず、東下してくる西軍を迎え撃って死ぬ覚悟でこの伏見城に入っていた。
綱正より政変を知らされた元忠は驚いたが、前もって合戦準備を整えていたため慌てることなく、西軍からの誘降の書状を破り捨てると
「やれ、上方の衆相手に死に花を咲かせてやらん!」
と勇み立った。
西軍にとってもここを捨て置き、東に進むことはできない。
囲む西軍の軍容は三成のほか総大将である毛利輝元の名代秀元を筆頭に小早川秀秋、小西行長、長宗我部盛親、長束正家、鍋島勝茂など歴々たる面々であり、その数四万。
圧倒的兵力差に勝利を確信した西軍諸将は早々に軍議を切り上げ、各部隊の持ち場についた。
「太閤殿下が築かれたこの伏見の城もわずかに千八百の兵がこもるだけであるという。
ひと揉みじゃな。」
軍議のあと、正家は嗤って言った。
この正家も権謀家である。
積極的に毛利の野望に加担していると見て間違い無いであろう。
三成は正家に問いかけた。
「大蔵。
我らが軍勢、この伏見に四万、田辺の城を囲うは一万八千、大坂の城には安芸中納言の兵だけで三万がおる。
まだ増える勢いであるが、この大乱の顛末をどのように考えおる?」
「言わずともわかっていよう。
江戸の古狸を討ち亡ぼす、それだけじゃ。」
答える正家にさらに三成は続けた。
「良きように言うが、その先はおのしらが政を・・」
三成の質問を遮るように正家は
「わしは天下を取り仕切れるほどの切れ者ではないぞ!」
と笑ったが、
「それでもわしが政の枢要におらねば、たれがこれからの豊家をまもる?」
と続けた。
正家の政治的野心を垣間見て三成は
「なるほど。」
と頷いた。
正家の言葉に同調したわけではない。
切れ者ではないが痴れ者である、と思ったのである。
「妄執じゃな。」
その皮肉を解した正家は
「義憤よ!
全ては豊家がためであり、わしに野心はないわ。」
と吐き捨てて帷幕を出て行った。
「安芸め・・」
この大乱の首謀者の一人である輝元は未だ大坂城に根を張ったように動かず、その底意が測り難い。
―前線から遠く離れた大坂城にふんぞり返り、己が掌の上に天下の諸将を弄べると思うておるのか
ふん、と鼻を鳴らした三成が帷幕を出てみると、各部隊がそれぞれの持ち場へ移動してゆくのが見えた。
―物事なるようにしかならん
しかし物の見事にまとまりのない軍勢である。
―この面々とこの先生死を共にせねばならんのか
今から始まる大戦の序章に不安を感じながら、目の前を行き交う兵たちを呆然と佇んで眺めていた三成に
「こうなっては攻むるしかないようですな、内府が麾下の鳥居がこもる伏見を。」
と、いつのまにかそばにいた左近が話しかけてきた。
「・・もはや迷いはせん。
ただこの群れのまとまりのなさをみよ。」
物憂げに言う三成を左近はにやにや眺めている。
「心なしか楽しげに見えるの、左近。」
「もののふの性分でありますれば!」
よく響く声で笑った左近は、しかし三成の引きつった笑みに不安の色を見つけると会釈して立ち去った。
左近は常に三成のよき相談相手であり、理解者であった。
それは三成が佐和山の城を与えられた時より三成に仕えてからついぞ変わることはなかったのだが、左近にも思うところがある。
ひとつは武辺で知られた我が名をこの大戦でもう一度満天下に轟かせたいということであり、もうひとつには天下の権の最も近くにいた我が主を天下の諸将が集うこの戦さの場においても活躍せしめたいということであった。
「殿には欲がなさすぎますぞ。」
そう言っていつも三成をからかっていた左近であったが、引きつり笑いの三成にはどのような言葉も気休めにならないことを知っている。
「馬を引けい!」
緊張の高まる伏見城に目をやると、険しい顔に戻った左近が叫んだ。
いよいよ大戦の幕開けである。