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五. 来訪者

東下を開始した家康は危機を脱したかに見えたが、新たにおおきな危機がわき起ころうとしていた。

そして佐和山に蟄居する三成の元には、彼を訪れる二人の客があった。

大坂を発ってから二週間後の七月二日。


この日無事に江戸に帰着した家康はその後会津仕置きの準備にさらなる時間をかけることとなった。


そこから十七日後の七月十九日、嫡子である秀忠を会津に向けて進発させると、自身はさらにその二日後の二十一日に江戸を発った。


めまぐるしく移り変わる世上に途上鷹狩りを催すなど遊行を楽しむかのような家康に、ある者は


「この一大事に内府殿は何を考えてのんびりと振舞われておるのか・・」


と首をひねり、ある者は


「この事態にこの落ち着きよう。


さすがは内府殿、会津中納言とはものが違う!」


と感嘆したのであったが、家康の真意を解していたのは三成のみであった。



時は少し遡った七月十一日のこと、三成の居城である佐和山城に彼の運命を変える物々しい客があった。


「治部。


内府めが行状や如何にせん!」


客は上杉討伐に赴く北陸の軍勢を率いて佐和山城に立ち寄った敦賀の太守・大谷刑部少輔吉継であり、蟄居の身である三成も十七になる嫡子の重家をこの信頼のおける友につけて家康の会津仕置に同行させるつもりであったのだが、着くや否や吉継は挨拶もそこそこに怒気を孕んだ声で切り上げた。


吉継のそばには毛利家の外交僧、安国寺恵瓊の姿もあった。


―なぜ安国寺が刑部とともに訪ねてくるのか・・


疑問を覚えずにおれなかった三成だが、それより気になるのは怒りに満ちた吉継の表情だった。


「刑部よ、何を言い出すのか。


おのしは内府殿の会津討伐の呼びかけに応じて江戸に参られる身の上であろう。」


と尋ねた三成に


「治部。


おのしは太閤殿下が危篤となられてからの内府の専横をつぶさにみながら、なんとも思わなんだのか。」


と吉継は返した。


家康の行動が吉継の目にも専横と映っているのであれば三成の立案した通りに事態が展開しているわけだが、吉継はなにも知らない。


「刑部、いまさら何を言う。


幼少時より世知辛い世を渡り歩き戦い抜いてきた内府殿は天下の泰平を第一に考え、大老として自ら率先し天下の仕置きを行われておるだけのこと。


それは豊臣御家がためというより、この先の治世を見据えられた上でのことじゃ。


昨年肥前(前田利長)殿が謀反の噂の時も豊家がために内府殿は率先してこの鎮定に乗り出そうとされておられたではないか・・」


「それよ!


わしはこのところ内府が行いをつぶさに調べておったが、所詮は我欲じゃ。


奴が行いは豊家がためではない。


すべて己が治世、己がための治世じゃ。


己が治世のための、之はその手始めの専横じゃ!」


端から怒り心頭の吉継の様子に三成は少なからず驚いた。


そういえば昨年の宇喜多のお家騒動を家康の信任厚い榊原康政と仲裁した吉継はその不手際を家康から間接的に罵られていたのであった。


―そのことに対する恨みを未だ引きずっておるのだろうが、しかしそれだけであろうか。


三成の知る吉継はそれほど単純な男ではないはずである。


吉継は続ける。


「治部、おのしこれをどうみる。


我ら、太閤殿下にご恩を賜り、豊家とその天下を護るべく殿下直々に将来を頼まれた身ではなかったか!」


―周囲から湧き上がる反徳川の声に毒されおったか・・


三成は考えた。


―となると刑部を惑わせる策は表だって家康に挑戦している上杉から上がって来たものではない


家康に反目しながらその矛を収めた前田でもない・・


すると毛利か!


三成は先刻から一言も発せず吉継の話を満足げに聞いていた恵瓊に目をやった。


三成を見つめ返した恵瓊はその目元に薄く笑みを浮かべていた。


吉継の役職である刑部は有名無実と化してはいるが本来は法を司り、刑罰を執行する役職である。


大方真面目すぎる吉継に恵瓊が


「刑部の立場にあられる貴公としては内府の独善と専横を見過ごしていて良いのか。


天下のために之、仕置き仕るべし。」


などと囁き籠絡したのであろう。


そうでなければ清廉で聡明な吉継がこのような陰謀に加担するはずがない。


刑部は操られておるのだ、恵瓊、そして毛利に。



安芸中納言こと毛利輝元は安芸、備後、周防、長門、石見、出雲、隠岐など中国七ヶ国を領有する大大名であったが、この前年実子・秀就が生まれたため養嗣子と迎えた秀元に領地を割譲する必要に迫られた。


その時三成により領地分配を裁定されたが、三成の佐和山城蟄居後に改めて家康の介入を受けて不利な裁定を下されることとなった。


この時の屈辱を深く感じた輝元は家康に恨みを抱いていたが、この度の陰謀は単に怨恨のみが引き起こしたものではない。


秀吉に次いで利家が死去した際に輝元は日々増長する家康の勝手振る舞いを挙げつらい、奉行衆と共に家康批判の声を上げていた。


しかし家康に直接対峙する素振りは見せていない。


思えばあの頃からすでに輝元の野心は頭をもたげていたのではないか。


つまり家康に対抗する勢力作りのため、自身の息のかかった党派を形成していたという事である。


そう考えれば輝元同様に野心を抱き家康を煙たく感じている景勝とその謀臣・兼続と結びつくことは自然な流れであったろう。



輝元の出自を振り返ってみると、父はわずか三千貫の豪族から一代にて中国七カ国に覇を唱えた祖父、元就の長子・隆元である。


その隆元の子として生まれた輝元は祖父より早く亡くなった父よりも祖父にこそよく懐いた。


老いてなお戦場に立ち、軍勢を率いた勇ましい祖父とは対照的に、家の中で大事に育てられたこの御曹司は穏やかな風貌のおとなしい男であったが、幼い頃より聞かされていた祖父の合戦譚を誇りとしており、祖父に対する憧れは強かった。


特にその鮮やかすぎる策謀の手腕にである。


血の犠牲を避け策謀をもって中国八カ国に覇を唱えたその鮮やかな策謀は他に例がなく、彼の心に耀しく映った。


物静かなこの御曹司はその心中に燃え盛る野心を持て余しており、天下騒乱のどさくさに祖父の時代以上に領土を拡大し、あわよくば天下に号令するという大それた野心を抱いていたのだ。


その野心も毛利家の外交僧であり謀士である安国寺恵瓊により焚きつけられたところもあったが、自家にかくまっていた足利最後の将軍義昭の策謀と野心を目の当たりにしてきたことで強められたといったほうが正しいであろう。


今は豊家の禄を食むばかりの足利義昭は第六天魔王と恐れられた織田信長に京を追われたのち毛利家に身を寄せていたが寄宿先の鞆の浦を拠点に、外交と策謀そして全将軍の肩書きを駆使して信長の腹心明智光秀を籠絡し、ついにこれを弑しせしめている。


領土も兵も持たず各地を転々と寄宿する前将軍義昭がである。


義昭が亡命してきた際、


「乞食が如き者を置いてお家に祟らなければ良いのですが・・・」


と諫言した家臣に輝元は


「なに、その時は打ち払えば良い。


手元に置いておれば使い所もあるであろう。」


とこれを軽く見ていたが、その才智と足利将軍家の権威、そして筆を以って歴史に暗躍した義昭のその性のなんと逞しく、その策謀のなんと鮮やかで、その執念のなんと凄まじいことか!


―わしには、祖父譲りの策謀の才があり、足利将軍家義昭殿より学び得た策謀がある。


輝元はそう信じていた。


―筆は刀より強し


輝元はそう確信していた。


―京の帝と大坂の幼君、秀頼公が共に手を伸ばした先におわす


輝元の本拠・安芸は大坂と海でまっすぐにつながるその地理的優位にも恵まれている。


輝元の頭には床几に腰掛けたまま勢子をけしかけて、獲物である家康をあちこちに走り回らせ、最後は自身の弓で仕留める画が浮かんでいた。


―右府が刈り、太閤が炊きし天下飯、座して食うは安芸が毛利、とな


後の世にそう落首されるであろう、と妄想にふける時、輝元には最も大きな快感が得られた。


紙の上に置かれたままの筆はその下の畳まで黒く染めていたが、それを忘れてくふくふ、と笑った輝元のその妄想は突然に実現性を帯び、今まさに現出せんとしていた。



話をもどそう。


輝元と恵瓊は


―天下荒れるべく、共に之を荒らすべし―と景勝らに語らい諸侯を巻き込み、東西で呼応して兵を挙げ家康を包囲する謀議を交わしていたのだ。


そう考えれば家康に対抗した会津中納言独立の企図や、安芸中納言のこの度の反乱軍組織までの一連の流れが符合する。


このことから策を建てこれを主導しているのは、表立った動きを見せない輝元であることは疑いようもない。


大坂と江戸を挟んだ安芸と会津の東西より世情を撹乱し、天下騒擾を巻き起こし、その隙に乗じて自家の領土拡大、さらには天下を狙う。


前年の加賀の前田利長の謀反の風説も家康暗殺の噂も彼らが裏で糸を引いていたと考えれば得心がゆく。


前田家の前当主であった利家在世の頃より家康に次ぐ実力者と目され、江戸から遠く離れた北陸加賀に大軍を擁する前田家現当主利長は乱の成功後の恩賞をちらつかされて心を動かしたのであろう。


もし家康がこの利長を謀反人として追討するべく加賀に出兵していれば、その間に安芸、会津の東西で挙兵することが容易となり、加賀を含めた三方から家康を包囲し挟み撃ちにできた。


そうなれば、冬には雪が降り積もる加賀での戦は短期間に終結するはずはなく、その隙に毛利、上杉は領土を拡大しながら家康を挟み込むこともその視野にあったであろう。


だが実際にはその準備段階で前田家の謀反の風説が世に流布してしまった。


策謀の露見が早すぎたため家康は軍を催すまでもなく、圧を加えることでこれを鎮めようとし、利長はそれに屈服せざるを得なかったのではないか。


予想外にあっさり家康に屈した利長に、幻滅した恵瓊は毛利と上杉の二家で成す家康包囲網の構想を練り直したのであろう。


三成は自身の頭の中で鮮明になるこの遠大な策謀の絵図に怖気を覚えた。


そしてこの目の前にいる僧体の男、安国寺恵瓊に。



その心中はともあれ、表面的には平時と変わらぬ顔で茶をすする三成に吉継は、


「治部、おのし聞いておるのか。」


と気色ばんだ。


それには答えず三成は、静かに湯のみを置くと


「恵瓊殿、刑部と二人にしてもらいたい。」


と恵瓊に声をかけた。


「愚禿が何か?」


と答える恵瓊のその表情には得意の色が顕れていた。



吉継と二人きりとなった三成はおもむろに口を開いた。


「実は、おのしにまだ話しておらなんだことがある。」


三成は言葉を選ぶかのように伏し目がちに話していたが、やがて決心がついたのか顔を上げると吉継の目を見つめて話した。


「いや、隠しておったのではない。


直に会うて話すべきことと思うておったのじゃ。


これからの世、つまり太閤殿下亡き後の天下の行方とその仕置きについて内府殿と話しておった。


わしはの、刑部。


政に関心のない者たちが担ぐ、奸邪の区別のつかぬ幼君秀頼公の世はこの先長うないと思うておる。


真に天下の泰平を思うならば政に携わる者として、わしはなにをすべきかと常々考えており、そのことを内府殿とよう話しておった。


わし自身が虎之助(加藤清正)らに追われて政から身を引くことになったが、それでも大老職筆頭である内府殿でないと政は取りしきらんという考えは変わらん。


おのしが言いたいこともわかる。


おのしが内府殿の呼びかけに応じながらその途上わしに会いにきたのは・・」


言葉に詰まった三成は固唾を飲んだ。


口にすることが憚られる計画が三成を戦慄させたのである。


「反徳川の兵を上げるためであろう。


そして」


吉継がその先を遮った。


「治部、おのしに手を貸して欲しい。」


そういうことだ、と三成は自分の予想が的中したことを悔やんだ。


権力に一番近いところにいた三成は島津や上杉、佐竹を始めその他地方の大名には国政を左右できる権力者として尊敬されており、その三成を自陣営に取り込むことは単に味方を増やすこと以上の意味がある。


変事に及んで吉継が三成に相談にきたことは当然であった。


−しかし長く知るこの篤実な友が取り除くべき不穏分子の一人であったとは・・


三成は努めて涼しい顔をして続けた。


「刑部よ。


わしは嫌われ者じゃ。


太閤殿下御在世時にはわしは政の執行役として五奉行の筆頭にあったが、今はこの佐和山に引き籠っておる。


己が小さき器のほどもわかっておる。


もはや政に執着はなく、まして戦などと・・


実を申すとな、刑部。」


吉継は三成の言葉に耳を傾けながらも何かを考えているようであった。


「わしはこの佐和山に押し込められてしまったが、太閤殿下が亡くなり、乱れつつある世を内府殿が鎮める助けとなりたい。


そしてこの大仕事が片付いたらば重家に家督を譲り、この佐和山に隠居することを考えておるのじゃ。


最近つとそう思うようになっての・・」


三成がそこまで言うと間髪入れず吉継は


「それには及ばず!」


と語気を荒げて言った。


これから天下にくまなく吹き荒れる大嵐をおのしはこの近江の山中にて素知らぬ顔でやり過ごすというのか。」


「まぁ聞け、刑部。


殿下ご在世時からわしは虎之助、市松(福島正則)を始め武断の者共に憎まれ、この命を狙われていた。


おのしも知っておろう。


そのほかにも甲斐(黒田長政)に越中(長岡忠興)とわしを嫌う者は枚挙に暇がないわ。


わしらと同じくいずれも殿下の取り立てられた者であったり、殿下や高台院様とお仲のよかった者が倅であったりじゃ。


殿下がこの世におわした頃であればともかく殿下が他界されわしを除こうとする者らに居場所を追われて、わしがおるべき場所もまた消えたとも思えるのじゃ。」


三成の話は続く。


「わしは中央にあって政を行うことの難しさを十分にわかったつもりじゃ。


そもそもが寺の小坊主であったわしは世間からすれば成り上がりの似非侍であろう。


そう思い至らば政に未練はない。


この近江の片田舎に骨をうずめるのが身の丈にあった生き方だとこのところつと思うようにもなった。


この度の会津征伐にもわしの名代に嫡子の重家に兵を率いさせ、内府殿に従わせるつもりであったわ。」


はは、と自嘲気味に語る三成であったが、それを聞いていた吉継は垂れていた頭をゆっくりもたげた。


三成は静かに、しかし大いに驚愕した。


長く知っているはずの吉継の目に見たこともない深い闇が宿っているのを見たのだ。


「治部。


ずいぶんと内府に馴れ親しんでおるようではあるがの、


おのしはすでに内府の敵ぞ。」


吉継は静かに言った。


「なに!?」


理解できず声を上ずらせた三成に吉継は続けた。


「恵瓊殿より内府に密使が走っておる。


すなわちおのしが山城(直江兼続)と謀り、内府を挟撃せんとしておる、と。」


三成には青天の霹靂だ。


予想だにしなかった罠に三成は嵌められていたのである。


つまり家康と共に図ったこの乱は、家康を追い落とす策にすり替えられてしまっていたのだ。


家康からすれば三成に裏切られた格好となろう。


あまりの驚きに返す言葉が見つからず、口を開けたままの三成に吉継は続けた。


「治部よ、このことについてこれ以上話すことはない。


おのしはただ決心すれば良い。


わしらはすでに反内府の勢子であり、その中心におるのじゃ。


その密謀は右衛門(増田長盛)、大蔵(長束正家)、徳善院(前田玄以)ら奉行衆から、安芸(毛利輝元)、越後(上杉景勝)、備前(宇喜多秀家)ら大老衆、そのほか毛利一門の小早川はもちろん、摂津(小西行長)、安房(真田)、立花(宗茂)、兵庫(島津)その他歴々たる大名衆を取り込んでおる。


わしは会津を討つ、という大義を以ってここに平塚、戸田、朽木などの軍勢を従えてきておるが、その軍勢は今この佐和山の城を取り囲み下知一つでいかようにも動くのじゃ。」


三成は驚きを隠しえない。


「真田までも・・」


信州・上田城(現長野県上田市)城主の真田安房守昌幸と三成は共に宇多頼忠の娘を娶った義理の兄弟であったが、昌幸の子、信繁は吉継の娘を娶っており、吉継もその縁戚であった。


佐和山に蟄居する間に彼らはすでに恵瓊らに籠絡され、三成の知らないところで建てられた―三成の陰謀―に取り込まれていたのである。


「そういうことじゃ。」


振り返ると恵瓊の坊主頭がそこにあった。


「加えて治部殿、おのしの嫡男の重家殿であるがの、」


のっそりとした歩みで恵瓊は続ける。


「久方ぶりに会うたが、ずいぶん立派に育ったの。


この先も大坂へ留め置くがよい。


すでにそのように手をまわしておいた。」


「!・・」


三成は絶句した。


嫡子・重家はつまり人質ということである。


「まぁ、そうわしを嫌うな。


わしらはほれ、前右府(信長のこと)公が御在世時からの付き合いではないか。」


三成は黙ったまま恵瓊を見上げているが、目には言いようのない怒りが浮かんでいた。


その三成から目を逸らすと


「まあ今日返事せいでもよい。


わしらはあと一日二日、この城におらせてもらうでの。


じっくり考えやれ。」


そう言って腰を下ろした恵瓊は


「はあ、話しすぎて喉が渇いたわ。これ、茶を点てい。」


と屋敷の者を呼んだ。

東下を開始した家康は危機を脱したかに見えたが、新たにおおきな危機がわき起ころうとしていた。

そして佐和山に蟄居する三成のには、彼を訪れる二人の客があった。

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