四. 時、来たれり!
いよいよ乱が現出する!
家康は諸侯に呼びかけて大軍を動員する。
目指すは会津の地である。
しかしその途上、彼の命を狙う影があった!
家康の元にちょうどよい材料が舞い込んできた。
上杉家の家老・藤田信吉が景勝の謀反を訴え出てきたのである。
景勝に長く仕える信吉は抜群の武功を誇り、景勝の信頼も厚かった男である。
家康から度々寄せられる上坂の催促に上杉名代として上坂し家康に謁した彼は、景勝に逆意のないことを弁明したが、戦備を整えるための時間稼ぎに信吉を派した景勝としては先の返書が徳川方の手で直江状として宣戦布告にすり替えられてしまったことも旗色を鮮明にするに良いきっかけを与えられた、と考えていた。
その景勝の底意を知りながら大坂の家康の元に参上した信吉は中央の情勢を見聞するうちに、とても景勝や兼続の思い描く一大王国の実現はなし得ないことを思い知ることとなった。
景勝に復命した信吉は景勝に、戦を避け公儀に従うべく考え直すよう懸命に説いた。
信吉は自家を思って反対したのだが、景勝は
「家康と通じて我が上杉の家を貶めようとしておるのか。」
と彼を糾弾した。
身の危険を感じた信吉は、同僚の栗田国時と一族を伴い会津から逃げ出した。
途中追っ手にかかり国時は命を落としたが、無事に家康の元まで逃げおおせた信吉を家康は景勝謀反の生き証人として保護した。
こうして家康は
―上杉、野心を育てて御公儀に背きたる。今まさにこれを討つべし―と全国の諸大名を招集し、会津討伐の軍旅を催すこととした。
だが会津は遠国である。
家康が大坂を離れた際に各地に反乱が誘発される事態は想定の上であるとはいえ、その数を抑えるためにも可能な限り諸家の兵を徴発し従軍させることを考えた。
世間がいよいよ騒然となると、民は戦に備えて疎開を準備し、工人は武具を作り、商人は稼ぎ時がきたとばかりに西に東に往来を繁くする。
高まる緊張に日の本は上から下まで大きく揺れ始めたが家康と三成、二人の策謀と運命もこの時大きく歪み出したのであった。
六月十六日。
会津討伐をお題目に諸侯に上洛を求めたあと、大坂城を出立した家康のその歩みはしかし遅く、京の伏見城へ向かうとそこで二泊した。
大坂にいかなる変事が起こるかということを常に気に留めていた家康には上杉の動向に反応する連中を燻り出す狙いがあったため、ことさら時間をかけて進んだのだが、世の大名たちはその遅行に首をかしげた。
―この度上杉の謀反に反応し、わしを追い落とそうとする者たちが結託して政変を起こすかもしれぬ
京畿に反乱が興った際の防波堤とするべく、家康はこの伏見の地に鳥居元忠を残して去っている。
この家康の遅行を好機とし、途上暗殺しようとする動きがあった。
三成と同じく五奉行に名を連ねる長束大蔵大輔正家がその居城、水口城(現滋賀県甲賀市)に家康を招待し、入城したところを襲撃する計画を立てたのである。
正家より三成の元へその旨を知らせる早馬が来た時、三成の部将でもこれに賛同する者があった。
島左近である。
左近は最初河内(現大阪府南東部)・紀伊(現和歌山県)の守護大名であった畠山高政に仕えたのち筒井順慶、豊臣秀長に仕え、その後浪人して近江の高宮の里に作った草庵に籠っていたが、その地の領主であった三成に誘いを受けた。
その時秀吉より四万石を拝領していた三成はこの左近に自身の知行の半分近い一万五千石を宛てがうことを約束した。
左近は三成の自分への評価とその心意気に心を大いに湿らせ、最後の奉公先として三成の元に身を置くことを心に決めたのであったが、その時から三成の片腕となったこの良き相談相手は正家から届いた密書を見せられると
「わしに兵をお貸しくだされい!」
と気を吐いたのであった。
見せるのでなかった、と後悔に顔をしかめた三成に左近は
「東下する内府の隙を襲い、内府を亡きものにする好機にござれば、これこそ天下万民の安穏のためには千載一遇の機。
二百あれば十分にござる。
内府の背中を少数の精兵で急襲すれば、これを討つは容易きこと!」
といきまいた。
これに対して三成は、
「内府嫌いのお主じゃ。
内府殿のやることなすこと全てを野心に紐づけて捉えおるようだが、わしの思うは天下を仕置するは太閤殿下も認められた天下第一等の実力者、内府殿であるべきということ。
太閤殿下亡き後、己が欲のまま独善に走る者どもは方々に現れるであろう。
それを正せるは内府殿をおいてほかにない。
内府殿を討つは天下の政道に反することぞ。」
と諭す。
三成は更に、
「わしは蟄居の身、兵を出す立場にない。
それにおのしも知っておろう。
野心の種をあぶり出すために上杉討伐に向かうよう、わしが内府殿に献策したようなものじゃ。」
と続けた。
以前に家康との密謀を明かされた際には黙って難しい顔を見せただけの左近であったが、この先二度と訪れぬであろうこの機会を前になおも食い下がった。
「それでもお聞き下され!
そもそも殿を政より追いはじき、この佐和山に蟄居せしめたは内府にござる。
その内府に付き従う福島、黒田、細川、池田はいずれも殿を煙たく思う者ばかり。
奴らの頭には万民の安穏や天下の政道など皆目ござらん。
いずれもただ殿憎しの思いがあるだけでござる!
この先伏見が時のようなことがあっても内府がそれを抑え込めるとは限りますまい。
必ずや殿に災いをもたらすでありましょう。」
一息ついて左近はさらに続けた。
「いや、上方を離れ自国に戻った内府が如何に心変わりをするか分かったものではござらん。
古くは後醍醐帝にお味方しながらもこれを見限り、ついにはその帝を追い立て幕府を開かれた足利尊氏公が如く、豊家の幼君に取って代わろうとするやもしれませぬ。
災いは之、その芽の育たぬうちに摘み取ることでござる。
上杉が起つのであれば、これと手を結び内府をこそ討つべきでござる!」
熱く説諭する左近の目を見つめた三成は懇々と述懐した。
「そうなればそうなった時。
加藤らが内府殿を担いでわしを討たんとするなら合戦にてこれを討ち、大義のありどころを天下に示すまでであろう。」
三成の言を聞いた左近は半ば呆れて
「殿がそれを申されるのか。」と言うと
三成は
「うん。」
と答えた。
戦の実績がほとんどないこの主君に対して皮肉を言ったつもりの左近は屈託のない三成の返事に返す言葉をなくしてしまった。
この時左近は齢六十一であったが、まだまだ血気盛んな戦陣の将であった。
一方の三成は齢四十。
まるで我欲がない、政務に忠実な官僚の鏡のような人物であった。
戦国武士を象徴するような左近には戦国の世に生まれながらその気風をまとわない三成は退屈すぎるほど分別の人であった。
説得は無駄であると諦めたのか、
「ごめん。」
そう言い残して三成の前を退いた左近は馬を引かせると早々に兵を召集した。
鉄砲のみならず大筒までも備えさせると、自身は武具に身を包んだ。
まさしく合戦の装いである。
同じく三成の重臣である蒲生郷舎は左近を訪ねてくるなり、異様な雰囲気を目の当たりにした。
「なんだ、これは。」
と問う郷舎に左近は
「今から内府の首を取りにゆく。共に来るか?」
と返した。
驚いた郷舎が
「今殿にお目見えして参ったが、そのようなことは聞いておらん。」
と返すと、
左近は
「わしも聞いておらん。」
と嘯いた。
ははぁ、と郷舎は心中でうなった。
左近の独断で家康を討つ覚悟であると察した。
「左近の元へゆけ。」
とだけ命じられていた郷舎は三成の言葉の意味を理解し、
「やめよやめよ、殿は内府殿を討たれるおつもりはない。
伏見の変の折にはお命を助けられ、先の肥前守(前田利長のこと)らの陰謀の際には内府殿を助けておられるではないか。」
そう言って諭すと、
「知っておる。」
と答えて左近は口元を緩めた。
―こうなるとこの男、止めようがない
「やめよ、
殿に累が及ぶ。」
と引き止める郷舎に
「その折にはわしが腹を切る。」
と答えると左近は馬上の人となった。
郷舎は急いで三成の元に復命すると、こうなることを予め予想していたのか三成は
「内府殿に早馬を。疾く往かれるが吉と。」
と短く命じた。
「それだけでよろしいので。」
と問う郷舎に三成は
「内府殿はそれで解される。」
と返した。
力づくでも左近を止めずによいのかと聞いたつもりの郷舎はしかし、どうすることがこの主君に最良の結果をもたらすのかがわからず、それ以上は聞かなかった。
ところがである。
家康を追う左近が瀬田までやってきたところ、家康は早々に立ち去ったあとだという。
「追いつけぬか・・」
これ以上追っても無駄と悟ると左近は兵を返すことにした。
これは五奉行の一人である増田長盛がいち早く家康に危険を伝えていたためであり、家康は水口城に寄ることなく、休みも取らずに先を急いだのであった。
うねる時代の渦中にあって、三成は自らが描いた絵図を見失いつつあった。
ここに二つの誤算が生じたのである。
一つには左近の危惧した通り、先の三成を襲撃した七将を含む家康に従った諸大名は三成に反感を抱く者たちがほとんどであったということであり、こののち大軍の鋭鋒を三成に向けさせることである。
もう一つには家康の会津討伐軍に従う様相で軍を発しながら、このあと佐和山城の三成を訪ねてくる長年の友、大谷刑部少輔吉継、そして彼を影で操る存在が在ったことである。
彼らの我欲にまみれた正義が三成の思惑と運命とを狂わせ、三成自身を反乱分子の主導者へとまつり上げてゆくのであった。
そしてその群れの中には長盛のように家康に誼を通じていた内通者が少なからずいたのである。