三. 火種
三成と密約を交わした家康であったが、混沌とした世の流れにあって三成はその足元をすくわれる事件に巻き込まれたのだった。
そして大乱到来の予兆が訪れる・・
家康と三成の間に密謀が交わされたその翌年の慶長三年(一五九八年)八月、太閤・秀吉が他界した。
この間家康は秀吉後嗣の秀頼の後見として、豊臣政権の政務を一手に取り仕切っている。
まずは朝鮮に出征したまま現地で苦境に喘ぐ諸将を無事に帰国させることを最優先課題とした。
この戦いは平穏に飽いたのか、妄執に取り憑かれたのか、あるいはかつての主君・信長に
―明(現在の中国)を切り従える―と大言した誓いを履行しようとしたのか、
周りはそう考えたが、これは昨今アジアに進出し植民地政策を展開する欧米諸国への対抗策であった。
実際キリスト教布教のために来日するイエズス会の活動により、日本のキリシタン大名たちは当時ポルトガルを支配していたスペイン国王フェリペ二世を主君のように崇める始末であった。
この欧米諸国の野望に先立って手を打たねばならないと考えた秀吉は、キリスト教の棄教にふれ、さらには欧米諸国より先に明を従えようとしたのだ。
ともかくも、
―朝鮮を平らげその先の明にまで攻め入り、これを支配する―という秀吉の命令から始まったこの遠征は連戦に連勝を重ね、瞬く間に朝鮮王朝の宮廷に攻め上ると、二王子を捕獲するという華々しい戦果を上げた。
そんな中、朝鮮の首都・漢城を攻略する大手柄を立てた小西摂津守行長は当初の路線である明国攻略よりも
「まずは朝鮮統治を最優先し、安定させることが第一。」
と主張する。
これに対し行長に大手柄を立てられ、焦る加藤清正は
「まもなく朝鮮を併呑しうるという時に何を言う!
兎にも角にも(太閤)殿下の仰る通り明国を征服することだ。」
とこれまた主張した。
伏見にいる秀吉に伺いを立てつつ軍議を重ねる中、次第に日本軍の諸将も主戦派と慎重派に二分するようになっていった。
清正のいうとおり北部を残した朝鮮の大部分を攻略した日本だったが、行長や三成ら奉行衆は予てより伸びきった兵站を危惧していた。
そしてそれはゲリラ的に現れる現地義勇軍の兵糧強奪という形で現実のものとなった。
戦で圧倒していても食料がなければ戦えず、このままでは朝鮮を完全支配する前に飢えで全滅することもあり得る、と三成は絶えず警鐘を鳴らしていた。
この時、兵站を堅守しなければならない兵士たちがあちこちで逃亡していたのである。
参陣を命じられた大名らには所詮見返りのない戦であり、その士気の低さが全軍に伝播していたことも原因であった。
そのうち隣国・明が朝鮮を援けるために大軍を派したため、日本軍は大変な苦境に陥った。
風土の違いによる気候と疫病、食糧不足による栄養失調、そして兵の逃亡。
これらの悪条件下に置かれた日本軍は退くに退けず、まるで行き場のない荒野をただ彷徨い続けているような絶望感に見舞われた。
―この戦は何も生み出さぬ無間地獄よ
誰もがそう思っていたのだが、時の権力者である秀吉が撤退を許さない。
いよいよ事態が泥沼化の様相を呈してくると、当初よりこの遠征を疑問視し平和裡に鉾を収めようと独自に和平の道を探っていた行長は明の皇帝との講和を専断し、これを推し進めた。
豊臣政権下において石田三成とともに五奉行に任じられていた行長は秀吉の信頼も厚い人物であったが、秀吉の命令を捻じ曲げてでもいち早く明と講和し日本に引き上げるべし、という自身の希望の下、明の皇帝の意向を忖度した裏切りのような両面外交を展開した。
これが矛盾を生み、話がこじれたのは当然のことであったろう。
秀吉が死去した時にはもはや収集のつかないほどにまで両国の主張はねじれており、講和は厳しい状況となっていた。
そんな中、如何に上手く話をまとめ現地駐留軍を安全に帰国させられるか、ということが豊臣政権の執権である家康にとって最重要課題であった。
家康は自ら戦争の収束にあたり、日本軍は十ヶ月の歳月をかけてようやく完全撤兵することがかなったが、のべ十六万人が渡海、うち五万人の将兵が異国の地にて死亡したこの七年にわたる戦争のために参陣の諸将は凄まじく疲弊し、その戦費を賄うために引き上げられた年貢に下々(しもじも)の民草は大変な労苦を強いられた。
このため、満天下には豊臣政権に対する怨嗟の声が湧き上がっていた。
秀吉に後事を頼まれた豊臣政権の五大老と五奉行はその朝鮮の役の事後処理と後嗣・秀頼の政権確立のために忙殺されたがそこには派閥争いも多分に含まれていたのである。
特に最大勢力であり、各家と婚姻を進めて繋がりを深めてゆく家康のやりようを喜ばない加賀(現石川県)の大大名・前田利家の下には、家康に反感をいだいていた諸大名が自然と集まり反家康勢力を形成するようになっていた。
ついに家康と前田利家それぞれの旗の下に他の諸侯が加わった対立構図が明らかになったのである。
伏見、大坂間は騒然となったが、多方面から調停の手が入ると家康と利家の間で和睦の誓紙を交わす事で一応決着した。
この時慶長四年(一五九九年)二月五日であった。
このあと同月二十九日に利家は家康の元を訪ねて会見に及ぶがこの時利家は懐刀を忍ばせ、これを刺殺する覚悟で会見に臨んだ。
死期を悟っていた利家は家康の存在が豊家とその天下に害を為す、と信じて疑わなかったのである。
その折加藤清正、長岡忠興(のちに細川に復姓)、浅野幸長らが利家の警護を買って出たが、このことが却って家康方に警戒されることとなり、結局利家による家康暗殺は実行されなかった。
しかし会見の直後、寝込むことが多くなった病態の利家は己の命が長くないことを悟ると家康を自邸の枕元に呼び、その手を押し戴き前田家の将来を涙ながらに頼んだ。
翌月三月のこと。
その利家が他界した。
後継の利長は家康への対抗勢力として期待されたが、利長には正面切って家康と渡り合う度量はなく、家康に促されるとあっさりと大坂を離れ加賀に帰国する。
以後、家康は豊臣政権下における筆頭大老の地位を独占することとなった。
かつては秀吉の同僚で豊臣政権の柱石であった利家の存在がなくなると、いよいよ諸将の主張は憚るところがなくなり、大小さまざまな揉め事が噴出した。
中でも重大事は常より三成との関係が険悪であった武断派七将による三成襲撃事件であった。
これは利家死去の日、この日を待っていたと言わんばかりに武断派七将が大坂・備前島の石田屋敷に兵を向けた事件であり、七将は加藤清正、福島正則、黒田長政、長岡忠興、池田輝政、浅野幸長、加藤嘉明ら七人を指す。
これは先の朝鮮役での滞陣中に独断専行や不手際などの失策を秀吉に讒言し蟄居を命ぜられる憂き目に合わせた張本人として、三成を逆恨みしていた武断派の将の怒りが彼らの不満を抑えていた利家の死去によりついに爆発し、行動に及んだ結果である。
この時三成は間一髪のところで七将の襲撃をかわし、伏見の家康の元に身を寄せた。
家康は三成を匿うが、―いよいよ上方全域が戦火に見舞われる―との噂が広がると京、大坂の民は戦々恐々として半分以上が店を閉め、通りには昼間でも人の往来がなくなる事態となった。
これを重く見た家康は以下の条件を三成に承諾せしめる旨を以って、矛を収めるべく清正らを制した。
曰く、
一、三成は大坂城から退去し政界から身を退くこと
二、居城佐和山(現滋賀県彦根市)にて隠居すること
三、以上の旨を一札入れて約すること
の三点であった。
三成も家康の提示した条件を飲み家康の元に嫡男・重家を質に送ると、家康自身も他意のないことを三成に示すため、三成の元に質を送る約束をしたのだった。
結局重家は程なく大坂の秀頼の元へ送られ家康も質を出すことはなかったのであるが、家康と三成、この二人の間にはこの時揺るぎない信頼と絆が築かれていた。
太閤亡き後、朝鮮役の始末をつけ不安定な心情の諸将の動向に釘を刺し、この度の凶事も被害を出さずに治め得た家康はまさに救世主である。
政治に疎い当時の民衆も家康を次代の為政者と思い、またそうなることを望んだ。
結果、政治の中心である京畿において「天下殿」と尊称された家康の人気は爆発的なものとなった。
「万事順調のようじゃ。わしの出る幕はもうなかろう。」
その様子を佐和山で伝え聞いた三成は、次期為政者誕生の予兆に安心すると同時に、役人としての自分の役割はもう終わったと思うようになっていた。
だが事はこれで収まらなかった。
三成を政治から引退させるという家康の裁断により一度は溜飲を下げた七将だが、他の奉行衆とその一派に何の咎め立てもないことに彼らの怒りはぶり返した。
「奴らは朝鮮の役の際に亡き太閤様に讒言し、身命を賭して戦った我らを貶めようとした奸物であり、八つ裂いても足るものではない。」
というのがその言い分である。
「三成ら文治派と呼ばれる奉行衆は、臆病なくせに学をひけらかし威張って命令するだけの気に食わない奴腹共である。
そもそも奴らが研鑽を積み出世できたのも自分たち武将が命を張り、自領の平和を勝ち得てきたからではないか。
気の休まらない戦場でこの身に血を浴びながら命の奪り合いに生き残り今日の身分を勝ち得た自分たちに比べて、戦場から遠く離れた安全な場所に身を置き、亡き殿下に阿り大名となったあ奴らは全くもって卑怯者であり、内府殿の裁定はそのことをまるで省みていない。」
と不満を言い合った。
その家康自身今は官僚のひとりであるとはいえ、幼少期より苦労に苦労を重ね、戦場で血に塗れ、その命を危険に晒してきたがゆえに今の地位にあるのだが、そのことは彼らの頭にはなかった。
その憎悪の対象である文治派の者たちをある者は謹慎程度に、ある者はお咎めなしに済ませてしまった家康に新たな怒りを向けたのだ。
清正は前田利長、長岡忠興、黒田長政、浅野長政、幸長父子、そして東北の伊達政宗を誘い反家康連合の結成を画策したが、これは現実には機能することなく自然消滅した。
自身の鬱憤をただ晴らしたいだけの清正に遠謀深慮はなく、また遠く離れた地にある諸侯を取りまとめられるほどの器量も備わっていなかったのだ。
しかし三成が謹慎蟄居し政界から身を引いたことで新たな勢力が生じることとなった。
方々より湧き上がる問題の対処に手一杯であった家康を省みて、台頭するには今が好機であろうと思った諸侯は密かに策謀を巡らせ始めていた。
同年八月
会津(現福島県会津若松市)の太守・上杉景勝は先年より大坂にいたが、この荒れ始めた世の中の動きを見て
「豊家の天下は太閤と共に死んだ。」
と断定した。
景勝の野心に気づいていた家康は
「会津中納言殿はこの一年国許の政を省みておらなんだであろう。
一度帰国されてはいかがか。」
と景勝に提案した。
景勝を泳がし、その行動を観察するためである。
すでに自国の軍備拡張に着手していた景勝は、帰国すれば必ず自らの野望の実現のために兵備を固め独立の意を公にする、とみたのだ。
そしてかねてよりそのつもりでいた景勝は二言返事でこれに同意すると、ほどなくして会津に帰国した。
この時すでに景勝とその謀臣・直江兼続の興味は、この先大いに荒れるであろう世の中と自家の隆盛にあった。
秀吉が他界する以前から嵐の予兆を感じさせる世間を鑑みて豊臣政権は長くない、と確信を持っていた二人である。
そもそも太閤が死去したのちに―十人連判の誓紙―なる五大老五奉行で血判した起請文も景勝が大坂不在時に作られ事後承認させられたものであり、昨今の中央の動向には馴染みが薄い。
景勝は秀吉在世時にその天下統一を援け、国替えに従い父祖の地である越後を手放したことで豊臣家への義理は十分に果たしたと考えていた。
今豊臣政権を抜け旧領越後を回復し越後、会津を中心に上杉の一大王国を築き得る好機とみた景勝と兼続は日夜額を突き合わせて話し合った。
二人の頭の中に理想と描いたものはかつて奥州藤原氏が築いた栄華の象徴たる北の都、平泉(現岩手県西磐井郡平泉町)であったが、もしかしたらこの二人は
―我ら上杉が天下を治める時代が到来するかもしれぬ
とまで妄想を逞しくしていたのかもしれない。
そしてその妄想は満天下にある全ての人間を巻き込む大乱の火種となったのだ。
ここから世の中の混乱は加速してゆく。
九月十日。
この日家康は秀吉未亡人の一人であり、その後嗣である秀頼の母、淀の方との婚儀を迎えていた。
これは豊臣家の支配体制を盤石にするため、そして家康を独立勢力たらしめないための秀吉の思惑による遺言の一つであったのだが、これをよく思わない者たちがいたのだ。
大坂城の大野治長を始め、土方雄久や五奉行の浅野長政らがそれであった。
彼らはこのたびの婚儀にかこつけて家康を暗殺しようと画策した。
事前にこれを察知した三成は家康に危険を知らせて事なきを得たが、家康は日頃から親しく交わりかつては秀吉に腹を切らされそうになった時に救ってやった長政からも命を狙われた事実にひどく憤った。
家康は治長、長政、雄久らに改易、謹慎などの処分を下すと同時に、この企ての影に前田利長がいるとの情報を得て、これを罰することとした。
利長は否認したが、治長、長政両名の親族であり、利家在世時から自家に相対する立場にいた前田家の当主・利長がこの企みを知らなかったとする方が不自然であろう。
また越後の堀秀治からも権大納言に謀反の企みがある状況証拠として戦備増強などが逐一報告された。
しかし家康は慎重に動いた。
あくまでも急ぐことなく、まずは利長に弁明のため上洛するよう声明を送った。
家康による報復を恐れた利長は領国加賀において合戦準備を急いだが、家康の元にも続々と報告が寄せられた。
家康は度々利長の戦備増強の実否を訊ねたが、確たる答えをよこさない利長に対して加賀征伐を決意すると大坂城西の丸へ移った。
ここに居住していた高台院は、この時伏見の旧秀吉邸へと移っている。
十月のことである。
家康は利長と境を接する加賀小松の領主・丹羽長重を呼び出し出兵を命じると、さらに関東より次男である結城秀康にも兵を出すよう指示したのち、諸大名にも上洛を求めた。
この時先だって利長とともに反家康連盟を策定した清正に対する牽制も忘れていない。
前田家に呼応して九州・肥後より海路兵を率いて上坂するであろう清正に備えてその上陸を妨げるべく摂津(現大阪府の北部から兵庫県神戸市)に兵を配した。
翌月には三成と大谷吉継に呼びかけ、合同で一千の兵を越前に出させることで利長の出兵を牽制させると利長は家康の的確で素早い処置に驚き、観念して家康への恭順を決心した。
翌年の慶長五年(一六〇〇年)正月のこと。
利長は縁戚にあたる長岡忠興を通じて家康に対する叛意は根も葉もない噂であり、豊臣公儀に対して異心なし、と弁明するとこれが容れられ、北国の情勢は一旦落ち着いたのであった。
この事件ののち自身の分際を知った利長は実母であり前当主利家の正室、芳春院を家康の元に人質に出しこれに臣従することとなる。
このことが江戸時代に諸大名が江戸に屋敷を築き、人質を江戸に置く慣習のきっかけとなった。
またこの時利長は権大納言を自ら辞し、官名を肥後守とされた。
こののち利長は自家の保存だけを考えて行動するようになる。
このことがあってから家康はより諸侯、人心を落ち着けるべく、また豊家への忠誠を誓わせるため、全国の諸大名に大坂まで膝行し秀吉の後嗣、秀頼とその後見である自分に目通りすることを改めて命じたのだった。
家康は国許へ返した会津中納言景勝に対しても
「天下に安穏の色がみえないので、一刻も早く上方にあって政をともにみるべし。」
と大坂に呼びつけたが、景勝はあれこれ理由をつけて上坂を拒否した。
その後も催促を続けた家康に景勝は
「長らく滞っていた領国経営に手一杯のため、今しばらく待たれたい。」
と返事を濁して家康の要請をかわした。
この時景勝は戦備を強化し、戦のできる態勢を整えつつあった。
家康謀臣の正信は頃合いやよし、とみて景勝からの返書を
「上坂する暇などない。
太閤殿下にもその在世時に許可をいただき帰国しているのだ。
また内府自身も太閤殿下の禁じられた決まりを破り、好き勝手に振舞っておるではないか。
文句があれば弓取りらしく、武門の習いにて決着をつけるべし。」
といった過激で喧嘩腰の内容に改ざんした。
これが世に知られる直江状である。
この御公儀名代である家康に対する挑戦状が発せられたと正信が全国に喧伝したため事態は風雲急を告げ、大乱がお膳立てされたのである。
この時、慶長五年(一六〇〇年)四月。
野には新緑が満ち、さまざまな生命が蠢動する季節であった。