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二. 密謀

時の権力者の魂の火が消えそうな時、その周囲における混乱は新たな混乱を生むのが世の常である。

そうと知りながらも未然に防ぐことができるものではない。

家康はその時意外な申し出を受けることになるのであった。

二. 密謀

太閤・秀吉の耄碌(もうろく)が顕著になり始めた慶長二年(一五九七年)、天下の諸大名は秀吉に変わる新たな為政者が遠からず生まれることを知った。

そしてそれは長い戦国の世を戦い抜き、天下人秀吉にさえ野戦で勝利した実績に裏付けされる実力者、徳川家康その人であると思っていたのだ。

次代の天下の主宰者家康に近接していれば、世が乱れたその時に世の流れから置いていかれることはなく、お目こぼしにあずかることもできようとの下心を抱いた世の大名たちはこぞって家康に膝行した。


会津(現福島県会津若松市)の太守、上杉権中納言(ごんちゅうなごん)景勝に野心の影が顕れはじめたのは景勝が慶長三年(一五九八年)に国替えとなったあとだった。

いや、景勝だけではない。

―天下はまた戦国の世に戻るであろう

秀吉不全の(しらせ)に騒然となる諸侯の間には不安に揺れる心が芽生え、やがてそれは野心へと変わり始めた。

自身は大坂で豊臣政権に勤仕しながらも、大坂から遠く離れた会津に本拠の置かれた景勝はその顕著な例であり、

「天下今一度乱れれば、不識庵(ふしきあん)(上杉家先代当主の謙信のことを指す)様のころより天下に聞こえたこの上杉の武をもって、旧領越後(現新潟県)を回復することは容易(たやす)かろう。」

そう思うようになっていた。

それには会津に近い江戸を本拠に圧倒的な力を擁する徳川家の存在は煙たいものであったが、思いを同じくする諸侯を自陣営に取り込めばそれに対抗することもできる。

そうして天下のそこここに時を同じく乱を現出させることができれば、

「越後はもちろん、東北一帯を我が手に収められよう。」

と。

景勝は中央にいる諸官僚たちと繁く連絡をとり政情や諸侯の動きを探りながら、来るべき大乱が起こったその時に誰が味方となり、誰が敵となり得るのかを探っていた。


「内府殿、内密に会われますまいか。」

三成から連絡がきたのはそんな折であった。

豊臣政権五奉行の一人であった三成は家康とは普段から互いに連絡を取り合い(まつりごと)を論じる間柄であったのだが、今回はすこし勝手が違って見えた。


大坂郊外に禅定寺(ぜんじょうじ)という小寺がある。

村はずれの林にある住持一人の小さな古寺で地元の者しか存在を知らず、密会にはうってつけの場所であった。

そこに呼び出された家康が供の者も少なく到着してみると、同じくわずかな供回りの三成がすでに待っていた。

互いに供の者を遠ざけて一室に入ると、挨拶もそこそこに三成が切り出したのはやはり秀吉のことであった。

「殿下の御容態、すでに余命幾ばくもないかと思われまする。」

「そうか。

いや、そうであろうの・・

して、他にこれを知るは誰がおる?」

「近習の者にも、誰にも漏らさぬように堅く言いつけておりまする。」

「それがよろしかろう。

わしに気脈を通じようと必死に媚を売る者たちが毎日のように訪れるが、彼らには殿下の威光などすでに消え失せたかのようじゃ。

かの者たちが殿下のご病状を知れば、いかなる不測の自体が起こるかわからんでの。」

「・・そうでありましょうな。」

「わしに大坂に兵をいれるよう、勧めてくる者すらおる有様じゃ。」

「なんと・・・

太閤殿下がまだご在世であられるというに。

太平の世を望まぬ奸臣ばらがそれだけおるということですな・・」

「互いに苦労が絶えぬようですな。」

「・・いや、内府殿こそ・・」

「うむ・・」

ややあって、

「内府殿。」

と咳払いをした三成は改めて切り出した。

「われら互いに天下の泰平、万民の大安を願うものであり、それは依然として変わりなくございましょうや。」

「もとより。」

「さすれば、ご相談いたしたき儀がございまする。」

「ほう。」

「すなわち不穏分子をあぶり出し、天下に泰平をもたらし政道を確固たるものにする計にございまする。」

「くわしく聞かせてもらえようか。」

「さすれば。」

威儀を正して三成は続けた。

「太閤殿下亡き後の世の乱れを期待し、混乱に乗じて自家の領土を増やさんという不埒な考えの奴輩はまだまだおりまする。

そやつらをあぶり出し大乱を起こさせ、しかるのちこれらを根こそぎ刈りとるが天下泰平のための計かと思われまする。」

「ふむ・・」

「順序といたしましてはこうです。

殿下亡き後、内府殿には豊家名代として天下の仕置を日の本の隅々に至るまで取り仕切っていただきたく存じまする。

それは大坂のお袋様が眉をしかめるほどの専横をもって。」

「ふむ・・」

―大坂のお袋様―とは秀吉の側室であり、嫡子秀頼の実母である淀の(よどのかた)を指し、天下の主宰者・豊臣家における最高権力者である。

三成はいつになく能弁だ。

「諸侯に御公儀への奉公を盾に無理難題を申し渡し、それに従わせるのです。

例えば、大坂の城普請に大名衆を駆り出して工費を賄わせ、また諸侯に大坂に屋敷を築かせ、国許より隔年で参勤させるのです。」

「さすればわしに反感を抱く者たちが、」

「―内府殿に天下簒奪の思惑あり―と騒ぎ立て遠からず結託し、自ずから兵を挙ぐることとなりましょう。」

三成は微笑した。

後年江戸幕府を開闢(かいびゃく)した家康が全国の大名に様々な理由をつけて莫大な金を出費させてその国力を削るが、その工夫はこの時生まれたのであった。

しかしこの時この策の主題は別にある。

三成は言う。

「従わなければそれでよし。」

「それはそれで、」

家康が口を挟もうとしたところで

「それはそれで反乱因子となる者たちの力を削ぐことができましょう。」

と三成が結論づけた。

「しかし、それだけではまだ兵を挙げさせるには足りんのではないかな。」

家康は生来慎重な性質(たち)である。

「市井に草の者を放ち、内府殿に反感をもつ大名たちの心を煽らせて、兵乱を起こさせまする。

―誰彼に乱の動きあり―と捏造し、殊更騒ぎ立てさせるのです。

それを受けて内府殿が本拠・江戸から―反乱の兆しあり、これを鎮定がため―として兵を動かしていただければ、内府殿に反感を抱く者たちがその機に乗じて『手薄となった江戸を陥とし、徳川を滅ぼすはいま!』と喧伝してくれるでしょう。

あるいは内府殿が江戸に戻られれば、それだけで上方は狼らの満ちた野心の地と相成りましょう。」

つまり諸侯が豊家名代の家康の呼びかけにおとなしく従えばよし、反発したならばそれを潰すもよし、ということだ。

それらはすべて―豊家がため―という大義を含んでいる。

対立軸を明確にしたのちに対立勢力を掃討すれば戦国の気風がくすぶり続ける天下は真に穏やかになる、という三成の見積もりである。

事の成功を微塵も疑わず悠々と語る三成であるが、所詮奸計である。

あまり家康の好むところではない上に、人の心はその時々で動く生き物である。

家康は水を差すように言った。

「なるほど、妙策ではあるが・・」

「・・なにか?」

「治部殿。人の心とは御しがたきものですぞ。」

少し簡単に考えすぎであろう、と言外に諭したつもりの家康はこの武事よりも計算に秀でた目の前の男を見据えた。

三成の策はあくまで机上の論であり、実現にはまだ足りぬと家康は婉曲に伝えたい。

「治部殿。そこもとは確かによく切れるお人じゃ。

しかしな、切れすぎるが故に他人を侮られるきらいがある。

それ故、他者の思惑さえも思うがままに動かせようと考えがちであるように思えるがいかがか?」

三成は遮るように

「全ては内府殿とこの治部の(たなごころ)の上に。」

と言い放った。

いくらよく練られていても三成の独力では確かに画餅に過ぎぬ企てであるが、内府という公的立場と圧倒的実力を伴う家康と合力(ごうりき)すれば事は成就する、と言いたいらしい。

それを聞いた家康は静かに畳に視線を落とすと一呼吸置いて、

「・・治部殿は焦っておられるのではないか・・

わしに擦り寄る者たちも多数おるが、わしのやる事なす事に眉をひそめ陰口を叩き、揚げ足をとる連中もやはり多数おることはよくご存知のことであろう。

太閤殿下のご容態が予断を許さぬ事態となったとて、未だ平穏を保ちうる世にあえて兵乱を呼ぶことを考えるはいささか乱暴に過ぎると思われるが・・」

と返すが、三成は声を改めて言った。

「すでにお聞き及びであるかと存じますが、なにやら会津(会津中納言、上杉景勝のこと)に不穏の動きがあるとか。」

「ああ、聞いておる。

領国を越後から会津に移封後時をおかず、大坂におりながら街道の整備、砦の増修築に武具の増強など軍備を整えておるとか。」

「ええ、それは国替えによる新領地に施す措置の範疇を超えていると。

まるで戦の備えが如くと聞いております。」

家康は会津の隣国で現在の越後の太守・堀秀治を補佐するその叔父・直政より逐一報告を受けていた。

これは越後から会津・米沢へ国替えとなった景勝が移封に際してその年の年貢を徴発し越後からすべて持ち去ったために、代わって越後に入国した堀家が自家の運営に大変な困難を強いられ景勝を深く恨んだことに起因する。

「いささか乱暴な策であることは承知!

とはいえ、このまま会津を泳がせておくことは世に乱を招くことと相なりましょう。

今この時、会津の勝手な振る舞いに独立不遜の動きが見えたこの時です。

時をおけば準備を整えた会津はその意を(あらわ)にし、それに同調する者が蜂起するでしょう。

そうなれば会津に同調する不心得者(ふこころえもの)たちがねずみの如く乱立し、より収め難き事態となることは火を見るより明らかでありましょう。

そのとき日の本は戦乱の世に戻ること、疑いの余地もなし。

そうなってはおそうござる。

今この不心得者どもを蜂起させ、これを仕置することが愚かしい野心の芽を摘み、これを絶やすによきかと。」

「それも一理か。」

「道理でござる。

内府殿が申された通り、内府殿に服せず逐一反発し陰口する連中も確かに数多(あまた)おりましょう。

しかしながらいつの時代、いかなる立場にある者も、誰彼余さず心服せしめらるる者などおらぬのです。

今後私は内府殿への反感を持つ者を顕にするべく諸侯の動静とその心を探り、内府殿への糾弾を煽り立てまする。

その後、かの者共に乱を起こさせるに至れば、内府殿とこれを共に駆逐いたす。

かような芸当も我らであれば成し得ると存ずる!」

この時の政治機構において家康は執権で、三成は執行役人の筆頭であった。

両者は昵懇で、互いの実力と心術の潔さを認め合う間柄であった。

他者からすれば三成は仕える相手を乗り換えようとしているとみえなくもないが、三成は人ではなく政治、そして規則に仕える男である。

事実、彼の熱意は万民のため、ひいては泰平の天下のための政にある。

ここまで話しても難しい顔をして黙る家康を見て三成は

「内府殿。

古来より人の世に革新を求むれば、血の生贄は避け得ぬものであります!」

と強く言った。

つまり人一人一人が静謐に生きようと悪逆に生きようと、常にそれを喜ばぬ不特定多数の者は存在する。

まして全諸侯中群を抜く家康の存在や動静は全ての者の行動や思考に影響を与えるものであり、いかにたち振る舞おうが敵する者も一定数存在するのだ。

家康は日の本においてそれら好悪の感情を併呑できる唯一無二の大器であり、世を平らげるための乱を三成自らが策し、それを家康と完成させたい、と言っている。

さらに歴史を鑑みれば、世の変革の過程においては百年の史書に刻まれる無数の人間の血と無念の犠牲を伴うことは必定であると言いたいのだ。

三成は秀吉亡き後の世において、諸侯を公儀にへつらわせるだけでは天下が治らないことをわかっている。

「・・仰せの段、分かり申した・・

が、しかしそれらを平定したのち、豊家(ほうけ)は如何致すおつもりか?」

「然るべきところ、太閤殿下に次いで我らが戴くべきお方は幼君秀頼様。

それが順当でありまするが・・」

「順当、であるが?」

静かに問う家康に声を落として三成は答えた。

「拙者は内府殿に征夷大将軍の位に就いていただきたいと考えておりまする。

鎌倉公(源頼朝のこと)に倣い、幕府を開いて世を治めていただきたい。

天下と万民を平らかに治めるがためには。」

穏やかでないことをさらっと口にした三成に家康は何か言おうとしたが、すぐに言葉がみつからない。

「思い起こしていただきたい。

内府殿が太閤殿下に臣従されたのはなぜでございましょう。」

三成は問うように言った。

「世の中の大勢(たいせい)が定まりつつあるをご覧になられて、これ以上天下を乱すべきでない、そのように思われたのではござらんか。

つまり最も大事とされたは天下の泰平。」

家康は黙って頷いた。

「太閤殿下もそうお思いでござった。

そのため先右府公(信長)亡き後、岐阜中納言殿(幼少時三法師と呼ばれた信長の嫡孫、秀信のこと)、次いで信雄(のぶかつ)殿(信長の次男)を奉戴されながら天下を治め得るご器量なし、とこれに取って代わられました。

天下の泰平のために・・

これに同じでござる。

天下のため、民草を思われるならば豊家に取って代わられたし!

結果内府殿に服しきらぬ者らがおったところで、京におわす帝に武家の棟梁とお認めいただいたのちには、内府殿に刃向かえば逆賊となるのです。

そうなれば内府殿が政治を執られることに誰が異存を申し立てましょう。

然るべき地位についた者が然るべき措置を為す、

これこそ政道における最上の策であるかと、わたくしは考えまする。」

毅然とした表情で三成は言い放った。


「政道、政道・・政道とな・・・」

意表を突かれた家康は動揺を秘すべく三成の言葉をかみしめるように呟いたが、その指は絶えず自身の膝頭を叩いている。

三成の言う政道とは民を安んじ、ひいては天下を治めることを意味している。

太閤秀吉の嫡子秀頼はこの時齢四つ。

幼い秀頼に再び乱れつつある天下を治め得る器量などあろうはずがない。

その周りにはびこる佞臣の頭には世の泰平を保つことではなく、自己の保身や隆盛があるのみである。

目の前にいるこの三成は一線級の官僚であるが、常に最短の思考と最小限の言葉で結論を出す。

そのため人情にかけるところがあるとみられており人望が薄く、またその家格や国力をみても天下を取りまとめられる者ではない。

そもそも絶対君主の元その意を遂行するという三成の特性は役人であってこそ活かされるものであり、自身も分限(ぶげん)(わきま)えている。

自分に対抗し得る唯一人(ゆいいつひと)の大国加賀の太守・前田権大納言(ごんだいなごん)利家は温厚で面倒見もよく秀吉の信が厚いため、彼を慕う者たちが自然と派閥を形成してはいるが、天下を御しきれるほどその器量は大きくない。

泰平に呆けた利家に往年の覇気は見る影も無く、天下を主宰し得ぬことは明らかである。

―確かにわししかおらぬ、天下の仕置きを為し得るは

そのようなことは考えないでもなかったが、掲げる政策一つとってもそれを(あげつら)う者たちが一定数いる現状、それ以上のことを(おもんばか)(いとま)などないのが実情である。

家康がそのことで愚痴を漏らすたびに謀臣の本多正信・正純親子は決まって

「秀頼様を担がれながら天下を手中に収められてはいかがか。故太閤がなされたように。」

と献策し、決まって最後にこう言う。

「古来より天下はこれを治むるべき者が回り持ちしてございました。

それはこれからも変わるものではございますまい。」

と。

耳にたこができる思いでそれを聞き流していた家康は、まさか豊家の懐刀である三成からそのような策を勧められるとは思ってもおらず、驚きを禁じ得なかった。

だが三成が合理主義者であることはよく知ってはいたが、ここまでの話はいささか強引で短絡的に過ぎる。

家康はにわかに是否を答えられない。

―しかし見えるところは見える

政道、道理と口にする三成も太閤の体調が崩れ始めた頃から自分勝手で利己的な行動に走り、まとまりをうしなった諸大名の姿に自分と同様うんざりとしていたのであろう。

顎に手をやり、俯いた家康は

「全てはこの内府と治部殿の掌にある、か・・」

開いた右の手のひらを見つめて家康はひとり呟くように言い、そして押し黙ったのだった。

―確かに道理である

三成の言い条はおもしろいとすら思えた。

坊主から還俗して侍の身分に就いた者は世に無数にいるが、一切の私心なく政務に忠実な三成の策を共に推し進める先にこそ真に泰平の世を創出できるように思えた。


しばらく押し黙った家康は、ふと思い浮かんだことを尋ねた。

「三成殿。

わし一人悪者にせねばおさまらぬか。」

信長の後継者争いに巻き込まれて秀吉と戦い、緒戦に勝利を収めながらも天下平定を急ぐ秀吉の政略に妥協する体で膝を折り、豊臣政権下に組み入れられた家康のいたしようは一方で賞賛されたが、その一方でその存在を苦々しく、憎く思う者も多い。

「損な役回りではございますが、泰平の世のためにはぜひに。」

三成は両手をついて頭を深く下げたのだった。

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