一.大戦(おおいくさ)あと
時は慶長。
太閤秀吉の治世から、その秀吉が死去し世の中が乱れそしてまた治められるまでのわずかな間に日の本は大きく揺れ続け、そして未曾有の大戦が生み出した。
後の世にそれは関ヶ原の戦いと名付けられ、その結果より作られた歴史が今日まで伝えられることとなったが、歴史の真相とは勝者の歴史である。
その時代、その瞬間に生きた人間が何を思い、何が起こったのか。
これはそれぞれの立場と思いから綴られる歴史の噺である。
「忠勝、治部殿はいかがであった・・」
「・・特に何も申されずにおられた。」
「くわしく申せ。」
「牢の中で寝てござった。
拙者が訪ねてもこちらを向かれることなく寝てござった・・」
「お前はなにか申したのか?」
「・・ただ手をついて『仕置きを誤られましたな』と申し述べたのみ。」
「そうか・・
治部殿なればお前の言葉からすべてを汲まれたに違いない。」
ここ大阪城西ノ丸にて浮かない顔をしたままの主君、内府(内大臣)徳川家康の言葉に家康股肱の臣、本多忠勝は黙って頷くのみであった。
「忠勝・・
大儀であったの。これはお前にしか頼み得ぬことじゃった。
我が意を汲む者はほかにはおらん。
治部殿にこれを伝えることができたのは忠勝、おぬしなればこそ。」
忠勝は主君の言葉からその心情を解すると黙って退出した。
「致し方」
「ございません、てか。」
忠勝と並ぶ股肱の井伊直政が主君の心を慰めようとしたが、家康はその言葉を遮った。
―あれほどの男を斬首とは・・せめて士として死なせてやりたい
斬首は罪人に与えられるはずの最も惨めな刑罰であり、才知と勇気をもって戦った無欲な英雄の末路にふさわしくない。
その時まで落ち着く間もない家康は呟くように言った。
「直政、下がれ・・」
「はっ・・」
何もできないもどかしさを感じながらも、家康の慰めとなるのは時の経過しかないと悟った直政は黙って部屋を出た。
一人になった家康は秋に色づく山々を遠く眺めた。
「損な役回りをさせたの・・」
名状しがたい心の内が思わず口をついて出た。
その数日後の慶長五年(一六〇〇年)十月一日、関ヶ原(現岐阜県・関ヶ原町)にて家康率いる東軍と戦った西軍の総司令的立場にあった石田治部少輔三成と二名の将帥が大乱の首謀者として此処、京の六条河原で処刑された。
時は二年前の慶長三年(一五九八年)八月十八日に遡る。
時の太閤、豊臣秀吉が死去した。
秀吉から後事を任された家康は天下惣無事の旗の下、本拠地江戸(現東京都)を遠く離れた京・伏見において未だ幼少である太閤の子・秀頼の名代として政治をみてきた。
積極的かつ強圧的な天下の仕置も、太閤の遺命に背き独善的であると非難を受けた伊達家、福島家、蜂須賀家をはじめとする諸大名との婚姻政策や他家への内政干渉もすべては幼君秀頼に代わり天下を平穏に治めるための政策の一つであり、必要課題であった。
秀吉が亡くなると、ほどなく世の中は乱れ始めた。
豊臣政権の諸侯が自家の保全、繁栄といった身勝手な正義を理念に、互いの行動や言動の粗探しをしては無軌道に領土拡張を狙って世の中を混乱させたのである。
それが次第に激化した結果、この度の大戦に至った。
思えばなんと長い二年であったことか・・
「俗物めら・・」
理想も創造性もない、独善に満ちた愚人どもの思考を憎みながらその心情を露わにすることなく、豊家の執政として今回の大戦の戦後処理に寛大な処置を施しているつもりであった家康は傍にいる家臣に問うた。
「正信、わしは優しすぎるのかの・・」
本多正信は怜悧な謀臣であるが、家康の心情を理解し得る情義は持ち合わせていない。
「いや、甘すぎるのでしょうな。」
いつもと変わらない乾いた返事に家康はその顔をしかめた。
幼少の頃から他家に人質に出され人の世の辛酸を舐めてきた家康には、あの頃とまるで異なる今の世の太平がいかに薄っぺらいものであり、またつかの間のものであることもよくわかっていた。
しかし日の本を平らげた太閤秀吉が、朝鮮侵略に乗り出すまでは家康自身にも畳の上で穏やかに往生できるかもしれない、という期待に似た気持ちもあったのだ。
だが、今ではそれも虚しく思えた。
「出る。」
正信にそう告げると家康は用意させた籠に乗りこんだ。
―数刻のち
わずかな供回りで微行した家康は高台院をその住居に訪ねていた。
生臭い世の流れを感じさせない、どこか浮世離れした心許せる女性に甘えたくなったのである。
―そろそろ六条河原(現京都府京都市五条通辺り)では刑を執行する頃であろうか
女性の膝の上にあっても、落ち着かない家康は独り言のように言った。
「人とは愚かしくも欲深いものでありますな。
天下の政を執る立場にあると下界がよくみえるが、一国を治める大名らからは己の足下(あしもt)しか見えないらしい。
「これでは民百姓と同じじゃ。」
―真に平和を考え、そのために尽力したのはあの男しかおるまい・・
しかし亡き秀吉の晩年の無理無策な国政のために生じた歪みが誘発した大乱の責は下々の者までが納得する論理を伴い、然るべき者が負わねばならない。
「家康殿・・」
このところ気付けば同じことばかり考えてしまっている家康は、不意に呼ばれてはっとした。
北政所から高台院と呼ばれるようになっていたこの秀吉の未亡人はすでに政治や世の流れに興味がなく、居住していた大坂城西ノ丸を家康に譲ったあと京に移り住んでいたが、時折互いに訪ねて行っては逢瀬のひと時を楽しんでいた。
諸大名から公家にまで尊ばれる高位にありながら、一歩下がって世の浮き沈みをみてきたこの前為政者の未亡人はほとんど唯一家康の心痛が分かる人であろう。
「かなしいものですね、家康殿。
わたくしとてできることであれば、世のため人のためにも彼の者にはまだまだ働いてもらいたいものですが・・」
家康はそれには答えず、目を閉じたまま、
「・・こうしてねね殿の膝の上に横になっておるときだけじゃ。
この時だけは俗世のしがらみから放たれるようじゃ・・」
とその本名で呼んだ。
高台院は自身の膝の上でやや子のように甘える家康の顔に目を落とし、
「要らぬことを言いましたね・・」
と笑った。
こうした逢瀬の安穏はもうこの先望めぬかもしれぬ、
家康は高台院の膝に頭を置いたまま、その温かくふくよかな手を探った。