記憶の上書き
『ちょっとぉ? 超久しぶりに声聞いたと思ったらぁ、あんたどしたぁ? 私にそんな態度とるとかぁマジ謎なんだけどぉ? ってゆうかぁ私のこと誰だかわかって──』
「あ? テメェが誰かなんて一ミリも興味ねぇ。いいか? テメェが三十分も必死こいて漸く繋がったこの通話の主導権は俺が握ってんだ。俺がいますぐにでも通話を終了してテメェの番号着信拒否すりゃぁテメェは二度と──あ、あっと、遥さん?」
「しっ! ここ病院!」
突然スマホを遥さんに取り上げられてしまい、
「ちょっと遥さん俺まだそいつと話を──」
スマホを返して欲しいと腕を伸ばすが、遥さんは無視して俺から離れていく。
「──あ、あの、すみません、遥です。ええと、ご無沙汰しております」
通話ができる場所を探しながら、遥さんが電話の相手と会話を始める。
『ちょっとぉ。遥さんなにあれぇ。私はただあの子がなんでシャルルのモデルなんかしたのか聞きたかっただけなんだけどぉ。てか電話出ちゃダメとかありえないんだけどぉ?』
相手の声が大きいため、少しばかり離れても女の酷く不快な声は聞こえてくる。
どうやら俺と遥さんの共通の人物が、例の美容室のホームページを見て電話をしてきたらしい。
「春、春臣さんは少し前に事故に遭いまして──それから記憶の齟齬が生じてしまって
──」
『はぁ? 事故ぉ?』
遥さんの後を追って聞き耳を立てていた俺に気づいた遥さんが、速足で女子トイレに向かう。
「……はい……で……院で診察を……はい……様には……はい……追って……」
そしてそのまま女子トイレに逃げ込まれてしまった。
◆
「それで、アレ、だれですか? 俺のことも遥さんのことも知っていた口ぶりでしたが」
トイレから出てきた遥さんからスマホを受け取りながら訪ねる。
「……春、具合悪くない……?」
それには答えずに、遥さんは俺の身体を気遣う。
「気分は最悪です」
感情のコントロールが利かなかった。
また見ず知らずの女に暴言を吐いてしまった。
遥さんが悪し様に言われたからというのもある。
だが、それ以前にあの声そのものに生理的な拒否反応を示さずにはいられなかった。
「春。いまの電話の相手は──」
『126番の番号でお待ちのお客様―診察室にお入りくださーい』
視線を交わす俺と遥さんにアナウンスが届く。
念のため俺が持っている番号札を確認すると、126番。
「春。診察室で事情を話すわ」
行きましょう、と俺の背に手を添える。
「なんで診察室なんかで──」
「大丈夫。あなたは私が守るから」
覚悟の宿った表情を見せる遥さんに、俺は言葉の続きを飲み込んだ。
◆
「──なるほど。その日を境に女性に対する恐怖心が消えた、と」
白衣を着た初老の先生がマウスを操作する。
モニターに表示されたカルテのカーソルの位置が定まらないのか、何度もカチカチやっている。
できるものなら代わってあげたい。
「っと。これをこうして……と」
昔は楽だったんだけどね、といって今度はキーボードを人差し指でタッチする。
代わってあげたい。
「それから、これは昨日の夜気がついたのですが──」
丸椅子に並んで座る遥さんがいったん言葉を止め、俺を見る。
椅子をキュッと軋ませて俺へ正面を向けた遥さんは、俺の左手に自分の右手を重ねた。
そして俺の手を力強く握りしめた。
「大丈夫。私が守るから」
不思議な力で吸い込まれそうになる遥さんの美しい瞳は、深い慈しみを湛えていた。
その安らぎに満ちた表情に、全身を委ねようと俺は頷いた。
遥さんも応じるように小さく頷く。そして俺の手は握ったまま椅子だけを回転させて先生を向いた。
「昔の記憶──家族に関する記憶を失ってしまっているようなのです」
家族──。
家族って誰だ。
俺には母さんと遥さんしか──。
「先ほど実の姉から電話がかかってきたのですが、姉だとわからずにいたのです」
姉──。
姉って誰だ。
遥さんは誰のことをいってるんだ。
古い記憶の封が頭の中で解かれ──だが断片的に再生される映像はノイズが激しく、映し出される写真のような画像は黒く塗りつぶされている。
古めかしい屋敷。
庭園に立ついくつかの黒い人影。
年代不明、性別も不明。
狭く暗い部屋。
うずくまる少年。
嘲笑う黒い影。
不安が胸を襲う。
呼吸が浅くなる。
胃が上がってくる感覚に嘔吐く
視界が狭くなり、つま先が痺れてくる。
そして指先の感覚もなくなる──かと思われたとき、そこに温もりを感じ、それを頼りに必死に足掻く。
その温もりだけは決して離してはいけない。見失ってはいけない。
頭の中を蹂躙していた『壊死しかけた記憶』を、温もりの持つ記憶で上書きしていく。
左手から伝わる遥さんの想い。『私が守る』と約束してくれた遥さんの想い。
俺には遥さんがいてくれる。
ゆっくりと頭の中が遥さんで埋まっていく。
遥さんと、そして母さんの笑顔で──。
暗い水中に光を見つけたときのような安堵感が湧き上がる。
それと同時。
俺の視界に診察室の景色が戻り始めた。
「辛い思いをさせてしまってごめんなさい」
遥さんが俺の左手をさすってくれる。
「大丈夫。遥さんがいてくれたから」
遥さんの右手には、赤くくっきりと俺の手の跡がついていた。
心配かけてごめん、俺は遥さんに笑顔を作った。