62 残酷な世界で
クレアはセスと領地で楽しい休暇を過ごした。その後、学園祭やらテストに追われつつも、充実した日々を送っている。もうすぐ最終学年である五年になろうとしていた。
そんな折、噂で実家の惨事を知る。事件からすでに四か月以上が経過していた。聞いた瞬間、クレアはショックに打ちひしがれ、座り込んでしまう。他教室で実習をしていたセスが、連絡を受けクレアを引き取っていった。その後、肉親を失った彼女はショックのあまりしばらく熱を出す。
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セスはタウンハウスのサロンで、起き上がれるようになったクレアの話に耳を傾けた。クレアは虚ろで、瞳も肌も色を失っている。
「セス様、私どうしたら……。家が……実家が無くなってしまいました。しかも今まで何も知りもせずに、私は毎日楽しく過ごして……」
そこで言葉に詰まる。
とても酷いことをされたにも拘らず、クレアが自分を拾ってくれたレイノール家に恩を感じていたのは知っている。自分を責めるような言葉をつぶやく彼女の小さな手を、セスがふわりと包み込む。
「実家? 自分の名前を忘れたのかい? クレア・カシム、レイノール家からとっくに縁を切られているだろう。
クレアの実家はあるじゃないか。アシュフォード城もここも、いつでも帰ることが出来る君の家だよ」
クレアははらはらと涙をこぼす。
「エイミー様が関与していると聞きました。しかも火事に巻き込まれて亡くなったと」
彼女は震えながらもはっきりと言った。
「それは違う。ジェレミア男爵はエイミーではないと言っている」
「でも、使用人の証言が……」
火事で使用人は、皆逃げおおせている。レイノール家は人使いが荒く、過酷な労働をさせ、使用人に度々手をあげるとすこぶる評判が悪い。彼らは主人に知らせることなく我先に逃げた。噂によるとかなりの金品が使用人達によって盗まれたらしい。
すべて焼けてしまったため、身元の判別はむずかしい。ただ一人、家族ではないと思われる女性の焼死体があった。一人のメイドがエイミーだと証言したが、ジェレミア卿は娘のエイミーは国外の修道院へ送ったと言っている。
そして火事後まもなく、不正が行われた入学試験などもすべて娘が勝手にやったことだとジェレミア卿は主張し始めた。今まで蓄積した金品や情報をばらまき、保身に走っている。
できればレイノール家の惨事はクレアの耳には入れたくはなかったが、いずれは届いてしまう。それが、たまたま今だった。セスの胸にじわりと痛みがひろがる。
「クレア、よく聞いて。エイミーとジャニスもしくはレイノール家に接点はあったの?」
クレアはゆるりと首を振る。分からない。エイミーとはこの学園で出会ったのだ。
「だったら…」
クレアが言いかけたセスを遮る。
「あれは付け火なのですよね? エイミー様はすぐに誰とでも打ち解けてお友達になれる方です。だから、ジャニスに近づいて……。
私のせいです。すごくエイミー様に嫌われていたと、今なら分かります。私はとても恨まれていたんですね」
消え入りそうなか細い声。
「クレア、もし恨まれているとしたら、完全な逆恨みだ。それにエイミーがかかわっているというのはただの噂だ」
クレアに反応はない。きっと言葉が届いていないのだろう。
「……違う。認めたくなかっただけ。本当は私、見捨てられたくなかったから、自分が傷つきたくなかったから、エイミー様に嫌われてはいない、何か私が誤解しているのだと思い込もうとしていた。
私が、彼女を怒っていないことが分かれば、彼女を嫌いにならなければ、いつか私のことを好きになってくれるんじゃないかと期待して、縋りついていた」
血を吐くようなクレアの悲しい告白にセスの心はきりきりと痛む。彼自身も数年前は、嫉妬心とくだらないプライドから、追い詰められていた彼女に手を差し伸べることが出来なかったどころか、追い込んでしまった。
何よりもそんな自分がセスは許せない。安易に彼女に許しを乞うべきものではなかった。酷なことをしたと、今更ながら胸が痛む。
「クレア、今回のことは君とは関係ないよ。ましてや君のせいのわけがない」
セスは自分の感情を抑え、クレアを宥めることに集中する。しかし、クレアはまたしても首を横にふる。
「言葉が足りなくて、いつも私は人を傷つけてしまう。セス様にも……。私さえいなければ、あの火事もなかったし、皆が死ぬこともなかった」
どうしたら、己を責めるクレアを止められるのだろう。いったい彼女のどこに非があるというのだ。ますますクレアの目の焦点が合わなくなってきた。痛々しいほど自分を責め続ける。
「クレア、落ちついて。付け火ではない。そう疑われただけだ。おもな出火場所は調理場だよ。火の不始末だ」
静かだが力強い声でセスはクレアに話しかける。
「火が上がる前にサロンの窓が飛び散ったって……」
「クレア! そんな根も葉もない噂を信じてはいけないよ」
クレアが横に首をふる。こんなにも頑なな彼女を初めて見た。
「私は、生きていてはいけない子だったのです。いままで、何度も捨てられてきました。母にさえ疎まれた。
私はセス様が思うほど優しくはないし、心の綺麗な人間ではありません。ただ自分が捨てられたくなかっただけ。どうすれば、捨てられないのか、それだけが、私の生きる指針。本当は自分の事しか考えていない身勝手な人間なんです。だから……周りが見えていなかった」
虐げられるということは、これほどまでに人の心に傷を残すのか。だとしたら悲しすぎる。彼女はセスにというより、うわ言のように自分自身を責め、身内だった者達の死を嘆いている。このままでは、クレアの心が壊れ、どこか遠くへ行ってしまいそうだ。
「クレア!」
肩を揺さぶり、愛しい者の名を呼ぶ。初めて見るクレアの激情。彼女が塞がることのない心の傷をさらし、苦しみを吐露する。心から迸る鮮血。
セスが折れそうなくらい華奢なクレアの体を強く抱きしめた。息することが出来ないくらいに強く。
「そんな事、言わないでくれ。ならば、罪は僕にある。エイミーを退学に追いやったのは僕だ」
「……え」
クレアは初めて聞く話にゆるゆると顔を上げる。
「僕が彼女の不正を告発した」
学園には、彼が告発しエイミーの不正をあぶりだすため協力したことを知る者はほとんどいない。セスは抱きしめる腕の力を緩め、ゆっくりとクレアの体をはなし、瞳を見つめる。
「クレア、君は何度も捨てられたと言うが、その度に誰かが君を必要とし……生きてきたじゃないか。君がいて良かった。君がいまここにいてくれて、本当によかった。クレア、大好きだ。君が必要だ。そばにいて欲しい。これからずっと先の人生も。
それとも君は、僕が許せない? 君がいま苦しんで悲しんでいるのは、すべて僕のせいなのだから」
ずるいのを承知で、セスはその言葉を紡ぐ。彼女に許しなど乞わないと誓う先から、その優しさにつけこむ。苦くてとても苦しい。
セスの言葉と苦し気な表情がクレアの心にジワリと染み入る。
「そんな……許せないだなんて。不正だもの……あなたは間違っていない」
瞳が揺れ、感情の色が戻ってきた。彼女はとても優しい。人の心の痛みに敏感だ。共感して寄り添おうとする。傷ついた相手に手を差し伸べずにはいられない。こんな方法でしか、悲しみと自責の念に沈むクレアを現実につなぎとめられない。
「クレア、愛してる。どうしても、君を失いたくない」
――許せないわけがなかった。そもそも彼の何を許すというのだろう。彼が何をしたというのだろう。
ときめきとか胸の高鳴りとかではなく、クレアは心の奥底から深く彼を愛していることに気付く。
捨てられるとか捨てられないとか……そんな事を気に留めることもなく、いつの間にか彼とともにあることを希求する。
目が合うと魂が震えるのを感じる。かけがえのない、大切な人。その愛は人の犠牲の上に、初めて姿を現す、とても残酷で罪深いもの。
―ーあなただけは失いたくない……。
夕闇せまるサロンで、世界にはたった二人しかいないかのように、強く抱きしめ合った。残照が二人を闇から守るように包み込む。




