59 翳り
ミハイルはこの時期、体調がいい。だから、可愛い弟に会いに王都に出てくる。
実は弟のセスに少し申し訳ない気持ちもあった。病が発症したのをいいことに彼に家督を押し付けて、己は自由に生きることを選んだ。しかし、その後領地は未曽有の飢饉に襲われ大変なことになる。
今まで愛想良かった人間が、幾人も手のひらを返したと聞く。セスには辛い思いをさせてしまった。しかし、人が裏切っていくのを間近で見たせいか、弟は元々の激しい気性を抑え領主らしく逞しく強かに育った。
下級貴族の住む地区に久しぶりに来た。こういう貴族の住む街は異分子をすぐに浮き上がらせる。高価な宝飾品は身に着けず、少々品の無い上着を身に纏った。
高位貴族街と違い、ここら辺りには庶民的で安く美味い店もある。
ミハイルは今、一人カフェにいる。数人の女性に声をかけられたが、彼には心に決めた女性がいるので、靡くことはない。元来、アシュフォードの男は己の愛する女性以外に目移りすることはないのだ。
彼は今、二人の女性連れを観察している。華やかな訪問着を身に纏い、茶と焼き菓子を楽しんでいる。一見仲がよさそうだが、それにしては二人ともどこかそわそわしていて、よそよそしい。そしてお互い値踏みするような鋭い視線を時折り交差させている。まるで腹の探り合いでもするかのように。一人は魅力的な笑顔の茶色い髪の少女、あと一人は高価な品で飾り立てた気の強そうな少々品の無い娘。
茶色い髪の少女は確か……聴取に呼ばれていた。
♢
タウンハウスに戻ると弟が来ていた。
「兄上、何の用?」
いつも通りそっけない弟の口調。別にミハイルを嫌っているわけではない。必要がなければ彼はたいてい無愛想なのだ。これでも一通りの社交はやってのけるから驚きだ。そんな弟にミハイルは苦笑する。セスに悪気はない。
「つれない弟だな。たまにはお前の顔を見たいと思うではないか?」
「そうかな、兄上とは最近よく会っている気がする。そんな事より、そろそろ療養を始めなくていいのかい? 発作が始まるんじゃないか」
セスが苦笑交じりに言い、何だかんだと兄を気づかう。ミハイルはいつものように口元に微笑を湛え、ブランディーの封を切る。琥珀色の液体をとぼとぼとグラスに注ぐ。ポツリと燭台に明かりがともるだけの薄暗いサロンは、人払いがしてあり、周りに使用人はいない。
「なあ、思ったんだが、放校で済ますなんて甘くないか?」
「エイミーのことか。クレアに近づかなければ十分だと思う。不穏分子だとは思うが、クレアがそれを望んでいない」
セスのその言葉にくすりと笑いを漏らす。
「エイミー・ジェレミアだが、今日、面白いのと会っていたぞ」
「学園の関係者ではないよね。だいたい見当はつく。もう、まともな貴族でエイミーに付き合うものはいない。試験での不正は許されないし、今は不正入学がばれて、ジェレミア男爵の立場まで危うい。
そのうち彼らはこの国に居場所を失くすさ」
「ジェレミア家が没落するのを待つと?」
セスがその通りだと言うように肩をすくめる。
「で、彼女は誰に会っていたの?」
ミハイルに話の先を促す。
「黒髪に薄く濁ったグリーンの瞳を持つ品の無い娘と言えば、誰かわかるかな」
「ふふふ」と兄が小さく笑い、セスは眉間に微かにしわを寄せ、無言でこくりと紅茶を一口飲む。
「……ジャニス・レイノール」
「お前は授業もあるし、今は進路を決める大切な時期だ。この件はしばらく私に預けてくれないか?」
「兄上、そろそろ療養の時期では? あまり無理はしないでくれ。もう彼女には何もできないよ。学園に近づけないのだから」
セスが兄を気づかわし気に見た。本気でミハイルを心配している。
「私の心配もしてくれるんだな。大丈夫。自分の体のことはよく分かっている。無理はしないよ。ただね、ああいうタイプはどこまでも執念深い。
レイノール商会の動きを監視するついでだ。しばらくエイミー嬢を監視しよう。何もなければ、それでいい。大人しく帰るよ」
ミハイルは、兄の身を案じなおも言いつのろうとするセスに「心配いらないよ」と微笑みかけた。




