38 広がる視野3 アシュフォード家
次の日、目を覚ますと、すっかり陽はのぼっていた。クレアはだいぶ寝過ごしたようだ。そういえば、食事はどうなっているのだろうか。アシュフォード家の人と食べなくていいのだろうか。など、いろいろ考えて不安になった。
ふと昨日マリアに「御用の際には呼び鈴をお引きくださいませ」と言われたことを思い出す。
しかし、用事というほどのこともない。クレアは学園に入学したときに実家で買ってもらった町娘のような簡素なワンピースを身に着け、髪を後ろで一本に束ね部屋を出た。
とりあえず、昨日のサロンに行こうと部屋を出る。
城は天井が高く廊下も広い、きょろきょろしながら歩く。同じような廊下をいくつも抜け、階段を降りるとクレアは立派な迷子になってしまった。
誰か使用人をつかまえて聞いてみようと思うのだが、皆ぱたぱたと忙しそうだ。今日は何かあるのだろうか。
そのうち広い厨房に出た。ここならば、人もいる。広い入口からひょいと中をのぞいた。大量の食材があり、たくさんの人たちが立ち働いている。
「あら、あんた、手伝いの子?ちょっとやせぎすねえ」
「はい?」
大鍋をかき混ぜている中年女性に声をかけられた。
「ちょっとこっちで芋剥くの手伝ってくれない」
大きな籠がいくつもあり、その中にじゃがいもがたくさんあった。皆とても忙しそうだし、サロンに案内してもらうのも悪いのでしばらく手伝うことにした。
「あら、あんた手つきいいじゃない」
一緒にじゃがいもを剥いていたクレアより少し年かさの娘に褒められる。
「ありがとうございます」
「そういや、見ない顔ね。あんたどっから、来たの」
「私は、えっと王都の方からです」
「へえ、王都から来たんだ。道理で、綺麗な子ね。じゃあ、ここの祭りは初めて?」
初対面で綺麗と言われたのは初めてだ。思わず真っ赤になる。
「祭り?」
「え? 知らないの。あんた、もうすぐ…! あっ、若様」
「若様?」
耳慣れない言葉に小首をかしげる。
「クレア! 嘘でしょ? 何をやってるの?」
クレアはじゃがいもを持ったままグイっと後ろに体を引かれる。セスだった。
「はい、じゃがいもをむいてました。皆さん忙しそう……」
クレアがみなまで言うことはなく、そのままふうわりとセスに抱き上げられた。
「邪魔して悪かったね。作業を続けて。彼女はクレアといって僕の婚約者なんだ」
「えええー!」
クレアの前で芋を剥いていた娘が、ナイフを取り落とし、悲鳴を上げる。大騒ぎの厨房をあとにするとセスはクレアを抱いたままサロンへ向かう。
「セス様、降ろしてください。私恥ずかしいです」
「駄目、絶対、降ろさない」
「もしかして、怒ってます?」
おそるおそる聞いてみる。彼のクレアへの扱いがあまりにも丁寧なので気が付かなかった。
「怒っているけど。それは自分に対してであって、クレアにじゃない。もっと事前に君に教えておいてあげればよかったんだ」
クレアはサロンに着くと、やっとセスの腕から解放された。
「君は軽過ぎる。もう少し太らなくては」
と心配そうにセスに言われて赤くなる。クレアは小柄なほうなのでいつの間にかセスとは頭一個分の身長差ができていた。
ふかふかで座り心地の良いソファーに腰かけ、温かい紅茶とサンドイッチを貰う。
どれも美味しくてクレアにしては珍しく食が進んだ。昨夜緊張で夕食があまり食べられなかったせいもあるのかもしれない。その間もセスによる、使用人との付き合い方の説明が続く。
「それは、私が使用人の方たちを手伝ってしまうと彼らの仕事を奪ってしまうという事なのですね?」
「うん、まあ、今はその理解でいいよ」
セスは渋々頷いた。そこへ、少し慌てた様子でマリアが入って来た。静々とクレアの前に進み出ると
「申し訳ございません。クレア様、私どもが至らなくて」
クレアはメイドの謝罪に驚いて立ち上がる。
「え、なぜ? どうして、マリア様が謝るのですか? 私の方こそ、勝手に出歩いて、ご心配おかけして申し訳ありま……」
クレアが謝罪と同時に頭を下げようとすると、ぴたりとセスに額をおさえられた。クレアは俯きかけた姿勢でとまる。
「あ、あれ……」
「クレア、そこまで」
セスの静かな声から、いらいらが伝わりクレアは固まった。
「マリア、ご苦労様、もういいよ。仕事に戻って」
彼がそう言うと、彼女たちは礼をしてサロンから去って行った。
「クレア、あのね。今の話聞いていた?」
彼はクレアの額から、手を離すと自らのこめかみを押さえた。クレアは怖くてこくこくと頷く。何かまずいことをしてしまったのだろうか。
「ああ、クレア、怖がらないで、とりあえず座ろうか。君に腹を立てているわけでない。僕自身に腹を立てているだけだから。
もう一度しっかり話を聞いてね」
使用人に「様」をつけるな、やたらと頭を下げるなと教えられた。
「確かに君にも非はある。まあ、それは僕が君にしっかりと教えておかなかったことが悪いのだけれど。
しかし、クレア、頭を下げるということは『この首どうぞ』ということで、この国の貴族の間では相手への服従を表す。そんなことを君にされたら、彼女たちも困ってしまうよ」
セスは惚れ薬を飲んでから、何度も彼女に頭を下げた。クレアが思うよりとんでもないことだったらしい。




