学園長命令
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ヴェレリア魔術学園の学園長室には、毎日穏やかな空気が流れている。そこには、使い魔である猫を膝の上に乗せ、その頭を優しく撫でる老人の姿があった。窓からは暖かな朝日が差し込み、室内に光を運んでいる。
今は講師達が職員室で会議をしているはずの時間帯だが、学園長であるサダル・マクリルは参加していない。生徒達の育成や学園の運営はほとんど講師達に任せており、生徒達の成長を見守ることが、今のサダルの仕事であり趣味であった。
だが、そんな穏やかな朝の風景は、やや焦りの感じられるノックの音に乱されてしまう。
「失礼します」
そう言って入ってきたのは、胸元に紫のネクタイを締めた講師、ランド・ミカルドだった。
学園にはAランクの講師とBランクの講師がいるが、学園長室への立ち入りは全員に許可されている。しかし、何か報告があった場合、学園長室に来るのは決まってこの男、ランド・ミカルドだった。
歴史に名を残すような大魔術師であるサダルに極力失礼のないように、講師の中でも一番と目されているランドに報告をさせよう、と講師達の中で決めたからなのだが、その裏にはサダルに会うのを怖がる講師達の本能が少なからず影響していた。
「サダル学園長、少しご相談があるのですが……」
「なんじゃ、ランド君。そんな畏まらなくてもいいんじゃがのう。まあ、言ってみなさい」
サダルは猫を撫でる手を止めると、ランドを正面から見据えた。
「実は、本日模擬戦に出場するはずだった生徒が一人休んでしまいまして」
「そんなのよくあることじゃろう。いつも通りランキングの近い他の生徒とやらせればよい」
魔術師は基本的に戦いを好むものである。若ければ尚更だ。なので多くの生徒は模擬戦を楽しみにいているのだが、中にはそうでない生徒もいる。あからさまに仮病で休むような生徒はいないが、時折試合をする予定だった生徒が休むこともあった。
その場合、休んだ生徒とランキングの近い生徒を代役として対戦させている。今回もそうすればいいとサダルはランドに言ったのだが、ランドは納得していないようだった。
「それが、休んだ生徒が例の試合の生徒でして……」
ランドがそう言うと、サダルは額に手を当て笑い出した。
「ほっほっほ。そうじゃったそうじゃった。あの試合は今日じゃったなぁ。わしも忘れっぽくなったもんじゃ。歳はとりたくないのう」
ランドの言った例の試合とは、今日第二闘技場で行われる予定だった試合のことである。新入生にレベルの高い試合を見せるための、年に一度のビッグマッチ、ランキング第一位と第二位による模戦である。
「それで、いかが致しましょう。代役の生徒を立てるか、後日に延期し他の試合を行うかで講師達の意見が割れていまして……」
「なるほどな。そうじゃのう……、延期してもいいが、模擬戦にそんなルールはない。やはり代役を立てたいところじゃな」
サダルはそう言って少し考えると、途端になにか思いついた様子で顔を上げた。
「ちょうどいい機会じゃ、彼を代役にしてはどうかね?」
「彼……と言うのは、ランキング第三位のザッカル・ハーベルトのことでしょうか?」
ランドはそれしかないと思ったのだが、サダルは首を横に振った。
「違うわい。彼はまだBランクじゃろう? この学園にはもう一人、Aランクがいるじゃろうて」
サダルの言葉にランドは目を見開いた。相手がサダルでなかったなら、怒鳴っていたに違いない。
「……お言葉ですが学園長。彼のランキングは最下位ですよ?」
「それは毎回時間切れだからじゃろう? ランキングの決め方が悪いとしか言えんのう」
普段なら、ランドはここで引き下がっていただろう。だが、今回ばかりはランドも引く訳にはいかなかった。
「それは彼が攻撃を全くしないからでしょう。試験官を務められた学園長には失礼かとは思いますが、この際言わせていただきます。彼は確実に、Aランクではありません」
「ほう? なぜそう思う」
ランドの言葉に、微かにサダルの目が細められる。
「確かに回避技術には長けているかもしれませんが、それは単に彼が初めから回避することしか考えておらず、回避に全力を注いでいるからです! あんな生徒がAランクなはずがありません。模擬戦のランキングの近い生徒同士を戦わせると言う制度は、怪我を最小限に抑えるためのものです。もし彼が回避し損ねてAランクである彼女の魔術を食らえば、大怪我を負うことは明白です!」
ランドの言葉には焦りが感じられる。理由はどうあれ、サダルと対立した形になってしまっている今の状況が彼に危機感を与えていた。
サダルはさらに目を細め、ランドを見る。品定めをするような、自分の心の中まで見られているようなその視線に、ランドは悲鳴を上げそうになった。
「講師達は皆そう言っているのかね? 彼がAランクではないと」
「はい。二年も待ってあのままでは、そう思うのも仕方ないでしょう。なにより、彼からはあまり魔力を感じません。生徒たちの間で使われている、偽Aランクというのも彼をよく表していると思います」
一瞬、サダルの眉間にシワが寄る。睨まれているように感じられ、ランドは今にも逃げ出したい気持ちだった。しかし、その直後にはもうサダルの顔にはいつもの笑顔が浮かんでいた。
「ほっほっほ。なんとなんと、講師達が全滅とはのう」
「学園長、失礼ながらどういう……」
「君もまだまだということじゃよ、ランド君。代役は彼、これは学園長命令じゃ。少しはその試合を見て学ぶことじゃな」
サダルはそれだけ言うと、再び使い魔の猫を愛で始めた。こうなってしまうと、ランドにはもう声を掛けることは出来ない。
「……失礼します」
ランドは礼儀として一礼してから学園長室を後にすると、職員室へと戻る。疑問どころか反論ばかりが残ったが、学園長命令と言われれば逆らうことは出来ない。ランドは仕方なく、結果を講師達に報告した。
講師達が驚き、ランドに質問して来たのは言うまでもない。学園長命令だからとどうにか言いくるめると、ランドはその重い足で模擬戦の対戦者を掲示しに向かった。
読んでくださりありがとうございます。
主人公がなかなか出てこなくてすみません、もう少しで出てきますので少々お待ちを……。
次話『ランキング一位の対戦相手』 8/12 19:00 投稿予定