32 応えたくても
スタンリー将軍の屋敷へ戻ると、待っていたメイジーが心から安堵したように盛大にため息をついてから、少し涙の滲む目を細めて出迎えてくれた。
「良く、無事にお戻りくださいました。良かった……騎士団長に連れて行かれたという話を聞いて、どれほど王宮へ行こうと思ったか!」
「ごめんね、でももう大丈夫。エリオットが助けてくれたから」
「はい。存じ上げております。殿下、本当にありがとうございます」
「そんな、僕は当然の事をしたまでです」
すると、彼とばっちり目が合ってしまった。
わたしはその優しくて穏やかで、時には恐ろしくさえ感じる瞳に浮かぶ感情を受け止め切れなくて、すぐに目を反らしてしまった。
今は、どう受け止めたら良いのかわからなかったから。
それから、服を着替えるためにそれぞれ滞在していた部屋に戻る。
ここを出る際には闘志に燃えていたのに、完全に燃え尽きた気分だ。
燃え尽きてこのままベッドにもぐり込みたいが、今夜はそうはいかないかもしれない。それとも頼めば許してもらえるだろうか。もうかなり夜も更けていることだし、何か話があるとしても、明日で大丈夫なはず。
将軍たちも、救い出した王と王妃への対応で忙しそうだし、アニタ達もこの屋敷で待っていた自分たちの馬車で帰っていった。
特にやるべきことはなさそうだ。
「メイジー、今日はもう休んでいいのかな?」
一応、何かあってはいけないので聞いてみる。
「そうですね。今夜はもう遅いですし、お休みになられても良いと思います。私の方からジェシー様はお疲れになったので休みましたと皆様にお伝えしておきましょう」
「うん、お願いできる」
「畏まりました……あの、ジェシー様」
「うん、なに?」
「何か、あったのですか?」
真剣な顔でこちらを見つめるメイジー。
一瞬、笑ってなんにも無かったよと言って誤魔化そうかとも思ったけれど、彼女にはきっと見抜かれている。
「そうだね、凄くたくさんあったよ。でも、まだ相談出来そうもないの。まだわたしが、どうしたいかわからないから」
「お話し下されば、少しは楽になるのではありませんか?」
「そうかもしれない。だけど、どうせ同じだから」
視線が勝手に下へ向かう。
メイジーの肩が小さく揺れたのがわかった。それだけで、きっとわたしの思いが伝わっているだろう。
「ジェシー様、ここはリドルトン王国ではありません。ですから」
「わかってる」
返した言葉にやや険が混ざったことには気づいていた。でも、どうしようもない。わたしは、これ以上傷つきたくないだけなのだ。
「ごめんね。でも気持ちが落ち着いたら全部相談するから」
「はい。お待ちしております」
「ありがとう」
素直にお礼を言って、わたしはメイジーにされるがまま夜着に着替えた。何か飲み物をと聞かれ、気分の落ち着くものをお願いした。メイジーはいつものようにテキパキと、余計なことは言わずに仕事をしてくれている。
わたしはなんて恵まれているのだろう。
だから、これ以上は贅沢なのだ。
脳裏に浮かぶのは、リドルトン王国での自分。あれが本来の姿。このバーギン王国に来て、自分を知らない人々に囲まれて好きなように振る舞った。
楽しくて楽しくて、皆いい人たちで、ここにいたいと思うようになった。
生まれ育った国を離れてもいいとすら思った。移住したいくらいだと。
だけど――。
エリオットの熱を帯びた瞳を思い出す。
あんな目で見られたことは今まで生きてきて一度も無かった。心の中で、何かが生まれたような気さえした。
けれど、今まで味わって来た痛苦が言うのだ。
喜んではだめだ、恋してはならない、愛したら……終わりだ、と。
「ほんの一時、楽しい思いをしたの。夢を見たのよ、ジェシー」
呟いて、目を閉じる。
ほんのひと時の、楽しい夢だった。
「わたしは、絶対に誰かと結ばれることはないの。絶対に」
例え、エリオットを傷つけることになっても、彼の気持ちを受け入れてはならない。そうなったら、次に待っているのは絶望だから。
「楽しい観光はそろそろ終わりなんだね」
最後まで見届けよう。
それが、わたしにとっての最高の思い出となる。
最初は単純に、わたしを捨てた婚約者から離れたいという思いだった。その原因となった優しくて美しい姉の顔も見たくなかった。
少し時間を置ければいい。
そんな気持ちでここへ来たのである。
選ばれるなんて微塵も思っていなかったから、他の花嫁候補の王女や令嬢とお話して、少しの間滞在するだけの話だった。
ようするに、ちょっとした傷心旅行感覚。
ついでに趣味で読んでいた旅行記のような体験が出来ると馬車酔いにも耐えてやって来た。海が見えた時の感動は今でも覚えている。
きっと、心の傷も少しは癒えるはずと期待したのに。
それがまさかこんな体験をする羽目になるなんて。
ああ、もしかしたら神様は意外といじわるなのかもしれない。
でも、ここで終わらせればこれ以上の絶望を抱かずとも済む。
それだけが唯一の救いだった。




