柳の木
「きみ……さっきの……」
「けが人、ってその人?」
投げ棄てるようにファングは声をあげた。はっ、とパックは法務官に注意をもどした。
「そうだ、怪我しているんだ。命があぶないかもしれない」
ふうん、とファングはねめつける目つきになる。くいっと顎をしゃくり、背を向けた。家の中へはいれ、というのだろうか。
パックはマリアに指示して法務官のぐったりとした身体をかつぎあげさせた。法務官は背が高く、がっしりとした身体つきで、パックひとりでは持ち上げられないがマリアなら軽々と抱き上げられる。
家へ入り込む前、パックは柳の木に気付いた。すらりとした柳の木が、家のすぐ側に生えている。柳の木はパックが近づくとざわざわと枝を揺らし、威嚇するような動きを見せた。
いったいこのあたりの木はどうなっているんだ……。不気味そうに柳の木を見上げ、パックはマリアと共に家の中へ入り込んだ。
家の中は雑然としている。あちこちに家具や、食器類がちらばり、歩きにくい。奥にベッドがあり、マリアはそれに法務官の身体を横たえさせた。
どさっとベッドに投げ出され、法務官は苦痛にうめいた。
「こいつ法務官だね」
パックの背後からファングが覗き込むようにして声をかけた。
「知ってるのか?」
ああ、とファングはうなずいた。
「吸血鬼みたいなやつさ。高い税金がはらえない村人がいると、こいつらの手下がやってきて攫っていくんだ。そして攫われた村人はひとりも還ってこない……。噂では教皇さまのいけにえにされるってことだよ」
ふっ、ふっと法務官はせわしない息遣いをしている。パックは法務官の赤い法衣の前を開いて傷口を確かめた。なにか太いものでぎゅっと締め付けられたような痣が紫色に腫れ上がっている。
ファングは冷たく断定した。
「死ぬね、こいつ。森で木にやられたんだろ? いい気味だ!」
「死にかけているんだぞ! その言い方はないだろう?」
「死ねばいいんだ! こいつなんか!」
ファングは叫んで拳をぎゅっと握りしめた。
「お父ちゃんは、こいつの手下に連れ去られ、戻ってこない……お兄ちゃんもいなくなった……お母ちゃんも……!」
パックは驚いた。
「それじゃ、この家にきみひとりか?」
ファングは顔をそむけた。パックはあらためて家の内部を見渡した。雑然とした室内、散らばった食器。たったひとりでこの家に住んでいればこうなるのも自然かもしれない。だれにも世話されないまま、ひとりで暮らしていたこの娘のことを思い、パックは呆然となっていた。
ファングはふたたび法務官に目を戻した。じっと苦痛に喘いでいるかれを見ている彼女の瞳に奇妙なひかりが宿った。
「こいつを助ける方法がないわけじゃない──」
にやりと薄笑いを浮かべる。
すっとその場を離れると、台所からコップをひとつ持ってきた。コップには水がいっぱいに満ちている。
「その水は?」
「あの湖の水さ!」
「えっ、だってあの湖には毒がはいっているって……」
「そうさ、もしものときはあたしが飲むつもりだった。だけど考えが変わった。まず、こいつに飲ましてからにする」
「毒なんだろう?」
「普通の人間にはそうさ。でも、死にかけたこいつには別さ。ある意味で、こいつの命を救う水なんだ。さあ、この水をこの法務官に飲ませるんだ!」
ぐいっ、と水を満たしたコップを差し出す。受け取り、パックは法務官を見た。
まさに死にかけている。
呼吸ははやく、顔色は土気色になっている。ファングを見ると、彼女はうなずいた。
「さあ、飲ませるんだ。ぐずぐずしていたら手遅れになる」
よし、とパックは決意をかためた。法務官の頭をささえてやり、その口許にコップを近づけた。
水が口の中に注ぎ込まれると、法務官は手をあげ、コップをみずから掴んでむさぼるように飲み干した。ごく、ごく、ごくと喉仏が動き、一気に飲み込んでいく。
ほーっ、と法務官はため息をつき、がくりと頭をベッドの枕に押し当てた。全身から弛緩がはじまり、ぐったりと手足がのばされる。
一歩、ファングがあとじさる。
「あとは待つだけさ……じき、はじまるよ」 なにを、と言いかけたパックは、法務官の変化に気付いた。
うっ、と法務官の眉がしかめられる。ぐぐぐぐ……と歯を食い縛り、かれは体内から突き上げるなにかに必死に耐えているようである。
かっ、と両目が見開かれる。
がばりと上体が起き上がり、口がぱくりと開いた。
おおおおおっ! と、法務官は叫び声をあげる。
パックはファングを見つめた。
彼女はじっと法務官の変化を見守っていた。
どうした……と言いかけたパックは、法務官がベッドから起き上がるのに気付く。
ぎくしゃくと法務官は立ち上がり、なにかに引っ張られるように出口へ向かった。
それを見送ったパックはマリアと顔を見合わせる。はっ、となってあわてて追いかける。
外へ歩いていく法務官は、手を泳ぐようなかたちで突き出し、ゆらゆらと上体をふらつかせながら歩いている。
「おい! どうしたんだ?」
呼びかけるが、まるっきり無視している。
目はうつろだ。
法務官の足先は森へ向かっていた。
と、その動きがさらにこわばった。
まるで体の中に固い、棒が入っているように手足を突っ張っている。
お、お、お、お! と、法務官の唇からうめき声がもれた。
はっ、とパックは見守った。
ぽつ、ぽつと法務官の肌からなにかが顔を出している。
なんだろうとパックは目を細めた。
緑色の……。
葉っぱだ!
法務官の肌から緑の葉が顔を出してる。
ぐーっ、と法務官の背がのびた。
ばりばりと法衣が破れる。
ばさり! と、法務官の体から枝が伸び、緑の葉が茂っていく。
なんと、かれは生きながら樹木に変身しているのだ。
ゆらり、ゆらりと樹木となった法務官はひょろ長く伸びた手足を動かしながら、森へと進んでいった。
ころり、と法務官の法衣からなにかがころげ落ちた。
マリアが膝をついてそれを拾い上げた。
パックは森へ歩いていく法務官を見送っていた。
いまや、すでに法務官の全身は樹木の樹皮におおわれ、身体からは数本の枝が茂っている。すでに完全に木に変化していた。
森の入り口がぱっと開き、樹木となった法務官が姿を消した。
静寂。
と、森全体がざわざわと震えた。どさ、ばさとなにかが争っているような気配がしている。ばきばきと樹木の枝が折れる音。
ぐええええ……と、はげしい苦痛の声があがった。
ぽーん、と森からなにかが空に飛んだ。
地面にどさりと落ちる。
ばらばらになった樹木の残骸だった。
気配にふりかえると、ファングが立っている。手にコップを持っている。
「ファング、きみ……?」
「湖の水を飲んだ人間はみな、ああなるんだ。みんな男爵のせいだって噂している。男爵が毒を湖に流しこんだって。そのうち税金の取立てが厳しくなって、これなら木になって生きたほうがましだって、みんな水を飲んだ……」
パックは驚いた。
「わざと飲んだって、わけか? ああなるのが判っていて?」
彼女はゆっくりとうなずく。目からぽつり、と涙がこぼれた。
「母ちゃんも飲んだ。あの法務官は森に受け入れられなかったんだ。みな知っている。木になったのが、じぶんたちを酷い目にあわせた法務官だってことは」
柳の木を見上げる。
その視線を追ったパックはぎくりとなった。
ファングがコップを口に当てている!
「やめろ! それを飲んだら……」
ぐっとファングはコップの水を飲み干していた。
晴れ晴れとした笑顔が浮かぶ。
「いままで飲もうとしてどうしても決心がつかなかったけど、あの法務官に飲ませることができて決心がついたよ。これで母ちゃんと一緒になれる」
ゆっくりと柳の木に近づいた。
さわさわと柳の木の枝が動き、やさしくファングを導いていた。
彼女の体から柳の枝が伸びていく。パックを見て口を開いた。
「家の裏に井戸がある。その井戸なら安全だよ。あたしはいままでその水を飲んで暮らしていたんだ……」
パックの見ている前でファングは見る見る柳の木に変身していった。
彼女はおおきな柳のそばに立った。すでに完全に樹木となっていた。
パックはぼうぜんとなっていた。
家のそばに、二本の柳の木がよりそうように地面から生えていた。
「パックさま、これを」
マリアが近づき、手のなかのものを見せた。
水晶玉だった。法務官の法衣からころげ落ちたものである。
受け取りパックは表面を覗き込む。
水晶玉は真っ黒な色をしていた。
黒い色の水晶か……。
手にするとずしりと重い。
パックはそびえている山脈を見上げた。
男爵か──。
いったい、男爵とは何者だろう。